「ねぇ、このドレス変じゃない?」
「いいえちっとも!姫様に似合って可愛らしう御座いますよ」
「髪は?寝癖は治った?後ろの髪とか跳ねてない?」
「ええ完璧に。ねぇ姫様、そんなにお気になさらずとも姫様は十分可愛らしいお姿ですから――ほら、キョロキョロしないで。化粧が乱れますわよ」

くりくりと動く眼と共に揺れる首を制しながら、幼い姫君の顔に化粧を施す侍女はにっこりと笑った。
熟年侍女マリアンが施すのは、頬と瞼に少し色をつけて唇に彩油を塗ったら首筋に香油をなじませる、といった薄い化粧のみ。
あえて結わえずさらりと下ろした淡いブロンドに緋色の瞳、桜色の唇――大人びた美しさを持ってはおらず子供らしさすら残る姫君。それでも元々持ち合わせた愛らしさに、過剰な彩りはいらない。

仕上げを施したマリアンは、ドレスにかけていた布を取り去り、ティナの背をぽんと押した。

「はい、おしまいです」
「本当に、本当に変じゃない?」
「大丈夫ですよ。姫様は本当に心配性で!」

笑うマリアンに、しかしティナは訴える。

「心配にもなるわ。だって、今日は初めてソルディスと城下にお出掛けするんだから――」













――城下に下りるか、

ティナがそんな言葉を貰ったのはつい先週の事。
あまりに唐突であまりに嬉しいその言葉に、ティナは思わずソルディスに抱きついた程だった。

あんなに城外へ出ることを禁じられていたティナにとってこれ程嬉しいことは無い。
ましてや、ソルディスと二人で、だ。

通常ならば従者も無く領主夫妻が二人で城下へ下りるなど考えられない事なのだが……そこは流石領主様。
曰く、「俺以上にティナを護衛出来る自信があるなら名乗り出ろ」。

(そんな者居る訳無いだろ)、そんな下男総勢の心の声が沈黙と化すのは極めて必然であり、彼の台詞には誰も文句の一つ付けようが無い。事実、平生ソルディスに付く従者は護衛の為ではなく荷運び等の雑用云々の為に用意されているようなものなのだ。

一方のティナはそんな下男の心労も気付く事無く、一週間も前から出かける服を選び出す始末。
「姫様は心底領主様にお熱ですのね」なんて下女の惚れ惚れとした噂事も廊下でちらほら。

如何せん周囲にとって物足りないのは、ティナ自身にその自覚が無いことだ。
即ち、仄かなる恋心。
なる程、確かに先の一件(例の双子の論争の事である)以来ティナは徐々にソルディスに対する自分の感情が何を意味するのか理解しつつあったが、それにしてもその理解はまだ未熟なものだった。
恋をした事がない少女に恋を説く事ほど、難しい事は無い。
ある時おせっかいな侍女が「領主様の事を、どのようにお考えで」と聞いたところで、やはり彼女からは「大事な人だと思っています」といった差し障り無くどうとでもとれる返事が返ってくるのみ。
……頬を赤らめて眼を丸くしながらそんな平たい返事を返すものではないと言ってやりたい所ではあるが、そこは侍女。身分は弁えなければいけない。

周囲の人間がやきもきしている最中、当の本人ティナ・ジェノファリスは、未だに自分を気持ちをはっきり明確にする事が出来ずに居たのだった。







*******************************************************





「遅い」

身支度に手間取った新妻に掛けられた彼の言葉は、案の定冷たいものだった。
取り立てて平生と変わらぬ格好に表情、抑揚のない声。
領主夫人と初の城下下りにしては飾り気が無さ過ぎるようにも思われるが、成程、傍目から見て顔立ち整い気高い気品を持ち合わせる彼にとってもまた、飾りは必要ないかもしれない。
それはそれで納得がいくのだが――

けれども今日のティナにとって、そんな彼の素っ気無さは不満を駆る要素であった。
(初めてのお出掛けなのに、)
これでは私一人が浮かれている様では無いかと、ティナは心の中でがっくり項垂れた。

「……今日はどこに行くの?」

幾ら心の中で落ち込んでも、彼が此方を見返るなんてあるわけ無い――
胸痛む想いを抱えながらも下男が開く扉をくぐり、昼間の外に歩み出ながら彼女は先を歩くソルディスに問う。

「城下でしょ。ト・ノドロの街に行くのかしら」
「街には下りない」
「なら、何処に」
「唯の散歩だ」

予想外れの答えに、ティナは思わず聞き返した。「散歩?散歩って言ったの、今」

ソルディスは歩みを止め、ティナを睨み返した。
文句があるのか、そんな表情の東方魔族領主殿に威圧されて閉口しないものは居ない。
が、

「だって、ソルディスに散歩って何だか――意外」

居なかった、と言うべきか。
考え無しのお姫様は、首を傾げながらソルディスをきょとんと見上げる。

散歩ってあれでしょ。
女の子や男の子が二人で恥じらい手を繋ぎながら、うふふあははとひっそり笑う、何とも和やか極まる情景。

そんな彼女にソルディスは顰めた眉を戻さぬまま、玄関口の傍へ繋ぎ止められたグロチウスのところまでティナを引き連れる。

手馴れた様子で愛馬に跨る彼に、ティナは少し戸惑った。

「あの、アナスタシアは」
「あれは寝ている。昨日お前が夕刻まで亘って遊ばせたせいで疲れていると言っていた」
「そっか……――って、ちょっ、キャ!」

どうしたら良いか分からずその場に突っ立ったままのティナの背に手を廻し、ソルディスは軽々彼女を馬上に引き上げた。
暴れて危うく落ちそうになるティナを自分の前方に横向きに座らせ、ソルディスはグロチウスの腹を蹴る。


「お前が散々強請っていた外出だ。文句があるなら、中止にするが?」

意地悪くそう言いながらソルディスは愛馬の足を門の外へと向かわせた。
文句など、あるわけ無い――そんな彼女の気持ちを知りながら。

出口までずらりと並ぶ城の下男下女達にティナは頭を下げて挨拶しながら、落ちないようにソルディスの外套をしっかりと握り締めた。

行き先は何処であれ、今日は初めて城外へお出掛けする日。
二人きりという状況に多少の緊張と悶々とした気持ちを抱えながらも、ティナは期待に心を弾ませた。

天気は快晴。昼過ぎの日差しも暖か、鳥は囁き花々は揺れる。


まるで、今日一日何も事無く終えるかのような、そんな気持ちにさせる空気。

――それ故ティナは予想だにしていなかった。自らが巻き込まれる、奇妙な体験に。














「あのーながいのーみーちーをー、はーしりーぬーけたー」
「……」
「いますぐーあーなーたにーあいーたーくーてー」
「……」
「ほーしーのーささやくしたーでーふーたりー」
「……ティナ」


何?、
と聞き返すように彼女は顔を上げた。

ゆったりと歩くグロチウスの上で横抱きにされたティナは、領主様の胸に頭を預けながら歌を口ずさんだりしている最中だ。
名を呼び、見下ろしはするものの何も言わず黙る領主の意図が分からず、ティナは再び桜色の唇から、幼少の頃より馴染んだ歌を紡ぎ出した。

――暢気だ。
いや、暢気な状況には変わり無いのだけれども。
比較的人通りが多いのだろう草木の影無く土肌がむき出しになった路地に、グロチウスの蹄が一歩一歩と食い込んでいく。道脇に生える草木は風にゆれ、穏やかな囁き声で耳を擽る。それら自然の美声は心地よく、ティナはその心地よさが眠りへと繋がらない様にという意味もかねて無邪気に歌を謡い続けていた。


あの長い野道を、走り抜けた
今すぐ貴方に会いたくて

星の囁く下で、二人、いつまでも其処に居て
冷たくなった掌を、まだ握り締めながら


――そこまで歌って、ティナは黙った。

思い出したように顔をあげて、ソルディスに言う。「この歌、知ってる?」

「女子供の歌う歌だな」
「もう、知ってるなら知ってるって言えば良いの」

軽く胸を叩いた。

「この歌ね。とても綺麗だけれど、とても悲しい歌なのよ」
「……」
「大好きな人に会いたくて会いたくて、それで頑張ってどこかを走り続けるけれど――実はその想い人はこの世界に居ないの。歌を歌う子は、一人ぼっちなの。でも、どうしても、どうしてもその人の傍に居たいから……冷たくなった恋人の手を握って自分も眠りに就くっていう歌なのよ」

(声も聞けず温もりも無く、二度とこの名を呼んで貰えないのならば、私も貴方の元へ)

悲しいかな、しかし紛れも無く揺るがぬ恋心。
恋する誰かの後を追って、さりとて会える確約も無きまま世を去る少女。

そんな、御伽噺を聞くかのようにうっとりと話すティナを見下ろしながらソルディスは夢も無く言う。「虚しい歌だな」

「……ソルディスって、幻想的で夢がある世界が嫌いなのね」
「夢も幻想もあるか。死体を抱いて追い心中とは、この上なく現実的だ。だが、虚しい」
「なら、ソルディスはどうするの?」

ティナは不安げに見上げる。

「もし……もし、よ。もしもだからね。良い?例え話なんだから」
「分かったから早く言え」
「もしもソルディスが……例えば、私の、……こと、凄く好きだったと、して、ね」
「……」
「病気とか事故とかで、いきなり私が死んじゃうの。死体になってしまったら、――その時、ソルディスはどうするの?」


――沈黙。

言って、ティナはしまったと思い口を塞いだ。
(これって、)
これではまるで、ソルディスは正妻が死んだときその後どうするんだ教えなさいと詰問しているようなものではないか――しかも先の喧嘩の折、貴方の過去はどうでも良いとか何とか勢い余って口走ったその身でありながら。

「……あのやっぱり」
「現実は、現実だ」
「え?」
「俺がお前に執着をして、お前が死んで、亡骸になって城に戻ってきたとしたらそれが現実だ」
「……現実」
「そうだ」
「その現実を受け入れて、あとは悲しみに耐えるのね」

それでお終い。

――何だか、ソルディスらしい、

そう呟いたティナに、ソルディスは続けていった。

「もしそうなったら、お前の亡骸は俺が死ぬまで部屋に置いておいてやる。毎日侍女に髪を梳かせ服を着せて寝る時はいつも通りお前を抱いて寝る毎日だ。今までと、何ら変わらない」


歪みと純愛の境は紙一重。
狂いと一途の境もまた然り。

淀みなくそれを口にするソルディスを、ティナは不思議に見つめながら、何故だろう、その言葉に不快や恐怖を覚える事無く寧ろ安堵を含んだ気持ちになった。


――道は長く、先は見えない。
そんな並木道を馬に揺られながら、ティナはそっと眼を瞑った。



そんな折と同時だっただろうか。
行く手の先に、薄っすらと白い霧が霞始めた。

ソルディスは眼を細めたが、寄り掛かる姫様はそんな事もつゆ知らず。穏やかに寝入りそうな雰囲気すらある。

徐々に濃くなる霧の先、さして魔気や妖気が感じられるわけでは無い。
その為、彼は彼女を起こすことも、行く手を引き返す事もしなかった。



白い霧は、遍く幻想への案内人――そう言ったのは誰だったか。











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