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そこは、まさに迷宮であった。 外界からの光は殆どと言って良いほど入らない。 ソルディスの持つ燭台の灯に照らされた周囲がかろうじてぼぅっと浮かび上がるのみで、つい今しがた歩んだ廊下でさえも通り過ぎれば闇の奥。一寸先は闇とはまさにこの状況を言うのだろう。 ソルディスは、何処からか不思議と響き渡る歌声を頼りに足を進めた。 蜘蛛の巣蔓延る森奥の屋敷。 窓はひび割れ、老朽は進み、唯一その「歌声」だけが気配という物を発している。廃屋の様な寂れた館の奥、誰知れず歌うその人は人間か魔物か。はたまた、異界のまやかしか―― ソルディスは、ふと立ち止まった。 広い廊下に出たと思えば、ぐるりと弧を描く螺旋階段。 見上げれば闇。吸い込まれるような天奥に、彼は眼を細める。 歌はこの上から響いている。か細く消え入りそうな、しかし揺ぎ無い音階を手繰り寄せるように、誰かの静かな歌声が。 迷う事無く彼は歩みを進めた。 螺旋階段を昇り始めたその瞬間から、確実に声は彼の元に届き始めた。 おぼろげだった歌声はしっかりと、彼に向かって歌っているかのように。 ――と、階段を昇り出してソルディスは気付く。 その歌声が、徐々に“誘い”では無くなっていく事を。 声の調子は強くなった。 だが、引き込む力は逆流し、彼がその先へ踏み込むことを拒んでいるかの様拒絶を示す。 聴覚、神経、一つ一つ逆撫でするかのように当たっては耳に抜ける女の声を、ソルディスは気にも留めず受け流す。「ふざけるな」彼は毒気づく。「勝手に手を出して、追い払う気か」 ティナがあの状態である以上、其方の都合に構っている暇など無い。 燭台の灯すら掻き消されそうな異常な歌声の流れ。 それを身体に浴びながら、ソルディスは尚も闇を昇り続けた。 アノナガイノミチヲ、ハシリヌケタ 「其処に他者が居る限り」 イマスグアナタニアイタクテ 「そうある限り、この歌は必要」 ホシノササヤクシタデ、フタリ、 「それが、不幸と罵られても」 イツマデモ、ソコニイテ―― 「――幸せなのは私なのです」 ゆっくりと振り返った。 「……昇ってきたんですね、止まらずに」 「当然だ」 綺麗に巻かれた鼠銀の髪を垂らしながら、メイドは深々と礼をした。 綺麗に整えられた黒い召使の衣装は、彼女の細い身体を更に引き締めて見せる。 もう、歌は奏でられていなかった。声の主である彼女は、代わりにその薄い唇から、状況に不似合いな丁寧な挨拶を述べる。 「ここは」 「主の部屋に御座います」 彼女は焦点の合わぬぼうっとした視線でソルディスを見やった。 主の部屋、といわれても、部屋は老朽し、彼女の後ろに辛うじて色褪せに留まる天蓋の付いた寝台があるのみだ。その天蓋から下りる幕も、縛られずにだらりと解け下がっている。 ソルディスは部屋に足を踏み入れながら、彼女の姿を一層明るく照らした。 部屋には燭台が幾つか置かれているが、やはりそれでも暗いのだ。 「何をしている」 「何も」 「……あの歌は」 「惑わしの歌で御座います」 抑揚の無い声で言った。「以前、主人から教わりました。人を惑わす言霊を操る術を」戯れに、お教え頂いただけですが――彼女は言うと、ソルディスを見上げた。 「魔族の方ですね」 「お前は魔族か?にしては気が薄い」 「私は、人間です。いえ、人間でした」 彼女は口端に薄い笑みを浮かべた。「主が、私を魔族の仲間に」 「血儀か」 「ええ」 ソルディスは眼を細めた。「同じような馬鹿は、どこにでも居るものだ」――で、とソルディスは彼女に続ける。「お前の歌で、眼を覚まさない女が居る。どうにかしろ」 「眠りは、直に覚めます」 彼女は声を落とした。白く細い指を、掌を、握り締めながら、まだ虚ろな眼で呟く。 「貴方の恋人でしたか」 「いや」 「――では、奥方で」 「そうだ」 眠らせておいてまた起きる?一体何のための惑わしだとソルディスは眉を顰めた。 私は、と彼女は言う。 「私は、盲目で御座います。ですから、こうして歌うしか、他者を排除する術が無いのです」 悲観も無く、その眼は澄んでいて、「眠らせて、この屋敷から離れた外へ追い出して、それを繰り返すしか」 「――踏み込んだのは此方か」 迷いに迷って、不可侵のこの屋敷へと向かってしまった訳だ――あのグロチウスにしては珍しい、とソルディスは言った。「だが、霧の所為だ」 「今日は一層深い霧を送りました。普段なら、それに戸惑い引き返すのですが――貴方方は更に此方へ近付いてきた」 「分からない。何故そこまで排除する。朽ちた屋敷で、お前は」 「朽ちようが荒んでいようが、私と主の生きる場で御座います」 「なら何故ティナだけが眠りに落ちた」 「――恐れるのは、」 メイドは振り向きソルディスに背を向けた。 そのまま奥手のベッドへ近付き、傍へ跪く。幕の下がった寝台の向うに囁くように、「恐れているのは、嬢子の方々」、彼女はそう言いながら、いとおしそうに幕を撫でる。「殿方は怖くありませんもの」 「何故」 「だって、主を攫っていかないから」 彼女は悲しそうに笑いソルディスを振り返った。 「美しい女性がいらしたら、私は主に愛想を尽かれてしまいます。殿方は別ですけれど」 「……」 「殿方なら厭声の術で、遠くへ遠ざけるだけです。でも嬢子の方々は、それでも主人の姿を見たらお近寄りなさるかもしれないでしょう。しかし、だからと言って関係の無い方々を殺める訳にもいきません。ですから惑わしで催眠を」 成る程、グロチウスに歌が聞えないわけだ。 苦笑する彼に、彼女は続ける。 眠らせるだけなら、天にいらっしゃるアギタだって、お許しくださるでしょう? でも、ここまでいらしたのは貴方が初めてです。だって、あの階段から上に来れば、私の歌声で脳を中てられる筈ですから。貴方は、魔力が強いお方の様ですね、――そう言って微笑む彼女にソルディスは、返事もせずに部屋を見渡した。 「お前の主は何処に居る」 「こちらに」 彼女は幕を撫ぜ続けた。 その笑みは、歪んでいないのに、どこか凍て付くものがある。 「失礼ですが。貴方は、貴族の御方ですか」 「……そうだ」 「では、是非ご面会を」 彼女は幕に手をかけた。 「ご主人様。久方のお客様です――お目覚めになって」 |