腐臭すらしなかった。
それはそれは綺麗に美しく、蝋細工かのように、しかし確かにそれは亡骸。


胸の前で組んだ腕、呼吸による動きすら無い胸、しっかりと閉じた口。
全ては穏やかで、静かに、その場に横たわっている。いや、寝ているのだ。

その、骸と言うにはあまりにも勿体無い彼の姿を、彼女は言う、この世で最も愛しい人だと。


「ご主人様、街の方から、貴族の方が」

彼の腕にそっと手を添えた。(ツメタクナッタテノヒラヲ、)
嘗てはその腕に抱きしめられたた事もあったのだろうか。
暖かな血の通う肉のついた、その骨で、痛いほどに、彼の腕に。

「まだ眠いのですね。もう、夕刻だと言うのに――」

彼女はクスリと嗤うと、盲目だと言うその眼でソルディスを見た。
是非、此方にお近寄りなさいませ。
主人は少々病弱なので、平生こうして安静にしているので御座います。

言われソルディスは歩み寄った。
亡骸といえど彼も貴族。礼儀は礼儀、顔を合わせれば挨拶も交わす。
物言わず、視線も向けず、どんな顔か、どんな風に笑ったのか、どんな声だったのか――何一つ分からないその身体を見下ろしながらソルディスは尋ねた。

「――彼の名は」
「ロレンツィ・アスティーダ様に御座います」
「アスティーダ?」

ソルディスは、一寸言葉を止めた。

「……先の戦争の折、」

ソルディスは彼女の退いた其処へ静かに立つ。

「その時、ト・ノドロの外れから、議会に参加した若者がいた」
「……、?」
「確か、名を――アスティーダと、確かにそう名乗った」

ソルディスは寝台の傍に腰を下ろす。
ふと蘇る過去の記憶。
あの時は、まだ、領主は自分ではなく、血の繋がる父の元、彼の傍で補佐をしていた。
(――僕は、反対だ。人間を、滅ぼすなど)
彼は声をあげていた。
(横暴なのは王族で、いつだって民は悲惨な運命だけを被り続けて)
嗚呼、そうだ。彼はその青い眼ではっきり父上を見据えて言った。

「彼がこのように」
「何でしょう」
「――この、“病状”が重くなったのは」
「つい最近の事で御座いません。百飛んで、数十年程でしょう」
「レィセリオスとのいざこざの折には」
「…?、私は存じません。私が主人に見初められこのお屋敷へ入った後……レィセリオスとの問題などは耳に入れておりませんが」
「ならば、まだ元気だった時だ。間違いない」

ソルディスはそっと彼の組まれた手に触れ、

「お前の主人は聡明な貴族だった。欲などとは程遠い、賢い男だった」
「今も主人は大変聡明でいらっしゃいます」
「……そうだな。今も、だ」

アスティーダ、

その名を呼んだ。


「このような形で再会とは、奇妙なものだ」


冷たいその掌を、そっと握り締める。














「貴方のお連れ様は、やがて眼を覚まします」

部屋を去ろうとするソルディスにメイドは言った。

「主人の知人とは知らず、失礼な真似を」
「……名は」
「はい、」
「お前の名は」

一間置いて、メイドは微笑んだ。

「ソフィアで御座います」
「――血儀は、アスティーダに施されたと言ったな」
「ええ」
「お前は今、幸福か」

ソフィアは、思っても居なかった質問を、やや考え込んで、また抑揚のない穏やかな声で答えた。

「私を、不幸だと思われますか?」
「そうは見えないな」
「そうでしょう。だって、私にこれ以上の幸せはありませんもの」

嬉しそうに言う。「本当を言うと、血儀は合意ではありませんでした」、

「それでも今はご主人様と共に生きている事がこんなにも幸せで」
「共に生きる、か」

ソルディスは彼女の虚ろな眼を見据え、「彼の後を追おうとした事は」

ソフィアは、愚問だと首を振った。

「追う?何を?――彼の心は、肉体は、今も傍にあると言うのに」

例え、その腕が二度と私を抱きしめてくれなくても良い。

「主人は私を愛し傍に置いてくださった。今も、愛してくださっている。私だけを」


ソルディスは、自嘲した。


「……似ている」
「何が、でしょう」
「その思考がだ」

誰に、とは言わなかった。
ソルディスは燭台を持ちながら部屋を出る。

「霧が晴れたら、またいずれお立ち寄りくださいませ――ああ、嬢子方はお連れにならぬよう」

主人をお気に召してしまいましたら、私はどうしようもありませんから。

「問題ない」

しかし、ソルディスは言った。「あいつが気移りするその前に、俺がティナを牢へ閉じ込めている」

そうすれば、誰も視界に入れないだろう、

その言葉、闇に消え行く彼の姿にソフィアは微笑んだ。




えぇ、そうですとも。

その時は、是非ともそうしなさいませ。
貴方だけを移す瞳は、其れゆえ永劫貴方だけの物でしょうから――













++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



「眠いー」
「……」
「眠いです……」
「……」
「ねーむいーでーす」
「歌にするな」

ゆらゆらグロチウスの上で揺れ、まだ覚醒しきれない頭を軽く彼が叩く。
何が惑わしだ。何が催眠だ。
単に本当に眠いだけじゃないのかと考えても見るが、一応あの歌の所為にしておく。

グロチウスは、陽は落ちかけたが大分視界の晴れた道を、今度は外れる事無く歩き進んだ。
霧がいくら濃かったとは言え、主人と奥方を乗せたまま正規の道を間違えたとは一生の不覚――
と、後悔の念を抱いた。それも一時の事だったけれども。

主人が階上から戻り、暫くして姫君の眼が覚めたと思ったら、何ともまあ過保護になったものだと彼女の体調を案ずる様な態度を示し(それでも表面上は冷静を装っていたのだろうが、幼少より連れ添い育った愛馬としてはその様な上辺はお見通しなのである)姫君は姫君で眠気が取れず彼に甘えて縋る始末!
嗚呼おかしい。何かがおかしい。
寧ろこれは愛馬としての失態による惨事と言うよりも領主夫妻にとっては何というかまぁ一種の寄り道に過ぎないのだろうか等と馬鹿な考えまで起こしてしまう。
(それにしても、姫君が目覚めたときの主人といったら――!)

早くこの二人に倦怠と言うものが訪れないだろうか。
そんな程遠い未来をぼうっと思い浮かべつつ、グロチウスは何とも微笑ましいと言うか寧ろ傍にいる自分の存在を忘れないでくれと言わんばかりの、あの愛しんだ接吻を思い出した。

「ソフィアさんか、私も会いたかったな」
「寂れた屋敷と真白い骨にも会える」
「……。主人の事がとても好きだったのね。じゃなくて、今でも好きなのね」
「狂気の沙汰とも思えるがな」
「でも、素敵。だって、ねぇ、ソフィアさん、あの歌を歌っていたんでしょ?」

あれは確か、心中の歌だったけれど――そういう“心中”も。命を絶たぬ心中だって、それも愛の形なのだろう。

「ねぇ、ソルディス、私――」


ティナが言いかけたとき、グロチウスが嘶いた。

鳴き声に、ソルディスを見上げていた視線を前方にやると――


「……川!!」

ティナは思わず身を乗り出した。

「ソルディス、川辺!川辺に着いた!」
「ここが目的地だから当然だろう」
「感動薄い!でも着いた!」

止まったグロチウスからティナは飛ぶように下りた。(ドレスの裾がはためくのは、本当に飛んでいるようである)

服の裾を掴みながら、月下零が咲き出している草原を踏み歩き、ティナはその川辺に走り寄る。
ソルディスー!水キレイ!何か居る!これ魚?食べれる?ねえ早く――

「……忙しない女だ」

厭きれたため息も程ほどに、ソルディスはグロチウスから下りる。お前も休めと身体を撫ぜてやり、グロチウスは甘えて答えるよう鼻を摺り寄せた。




水辺で戯れるティナに歩み寄る。
川は深すぎもしないが、決して浅くは無い。
ほんの不注意で、例えば、ソルディスがその背を押しティナが川に落ちれば、彼女は自力で元の場所へあがれないだろう。それなのに少女は、驚くほど無防備に身を乗り出し水と戯れる。

「お前は注意散漫な癖がある。少しは治せ」
「え?クセ?何それ――あ、またお魚!」

それを治せと言っているんだ。

「ソルディス、ここ、良い。夕日があたって川が綺麗――」
「だが足を取られれば、流れは存外に強い。下流まで流されるから気をつけろ」
「でも、落ちたらきっとソルディスが助けてくれる」

しゃがんで際の水をぱちゃぱちゃ手に当て遊びながら、ティナは言った。
ソルディスは顔を顰める。

「……大した自信だな」
「そうかしら」
「他人を無闇に信用するな。だから不注意だと言っている」

そうね、とティナは笑う。

「私ね、河原が好きなの。小さい頃、カステルが、連れて行ってくれた――気がする」
「……」
「よく、覚えて無いのだけれど。……小さいときの記憶、あんまり無いし」

そうして少し黙り込む。
ソルディスは、ティナの腕を軟く掴んでそっと立ち上がらせた。
俯いたティナの指先から、雫がぽつりと垂れ落ちる。
ふと其れを涙と見間違えたのは、不覚だったかもしれない。

「――冷えるぞ」

ソルディスはティナの手を握った。

「ソルディスだって、手、冷たいのに」

クスクスと笑うティナの声が、柔らかく聞えた。「低体温だもんね。私、知ってる」

「お前の体温は高すぎる。子供の様だ」
「それも知ってる」
「だが、温かい」

――ソルディス、

ティナがふと顔を上げた。


その額に下りるのは、静かな口付け。
驚いたように一瞬眼を瞑ったティナも、照れくさそうに眼を開けてまた彼を見上げる。

「……愚痴を言っているらしいな」
「え?…グ、グチ?」
「夫婦の癖に素っ気無いだの、放って置かれているだの」

まるで妻で無いようだと。婦女子の茶会とは毎度その様な物なのか?
そこまで言われて、ティナは毎度毎度のニルとのお茶をようやく思い出した。

「あ、あれは――」
「陰口を言われるのは我慢ならない」
「あれは違うの、…だ、だから」
「お前はどうやら、形になった物が見えないと不安な性質な様だ」

言いながら。ふと、ティナの指を握る手が動いた。
指先に感じる違和感、軽い束縛感。ひやりとした、冷たい感覚。


ティナは首を傾げながら、手元を見つめる。


「――……、これ」


ティナは、自らの小指を見つめた。

彼女の小さく細い指に、きつくもなく緩くも無く通った銀の光。
小さく細工が施されたそれは女性用のリング。
宝石金品の類には疎すぎる程疎いティナでさえ、その偽り無く光る銀細工に眼を奪われた。

「ソルディス、」
「……帰るぞ」
「え、ちょっ……待って!」
「暗くなる前に森を抜ける。また迷って森の中で一晩過ごすか?」

それも良いが、というソルディスにティナは真っ赤になりながら首をぶんぶん振る。

「ね……、これって」
「グロチウス帰るぞ。お前が迷った所為で滞在時間が短くなった」
「ちょっと、グロチウスの所為にしない……じゃなくて、ねぇ!」
「騒々しい。何だ」
「こ、これっていわゆる」

いわゆるアレよね?
新婚男女が婚礼の時とか、恋人が結婚の申し込みに使う、その、誓いの印……というか。昔はもっぱら男女お互いに家の家畜を交換してたって言うけれど今ではそんな事無くて、最近城下では殿方が宝石細工を自分と女性の分をペアで用意してお互い身に付け合って、それで、何というか結婚の承諾を貰ったり婚礼を盛り上げたりする――つまり、所謂、“愛の誓い”。

「違う」
「何で!」

違わないと、ティナはまだ顔を赤くさせたまま言う。

「そうでもしないと、ニルが煩いんだ」
「いや、これは、アレでしょう。婚儀の一つも無く、婚約契約書一枚で結婚を済ましてしまったという事に対するせめてものプレゼントっていうか」
「……まだ根に持っているのか?」

ソルディスはティナを睨みながらグロチウスに乗り込み、ティナを引き上げた。

「不要なら売り戻すが」
「いえ!い、要ります」
「なら何も言うな」
「……あれ?」

まだ何かあるのか、
溜息をつくソルディスにティナは、

「ソルディスの小指、何も付いてない」

ティナはソルディスの手を指差し、恐る恐る見上げた。

「ぺ……ペアじゃないの?」

言葉に、「そんな馬鹿らしいことやってられるか」と案の定素っ気無い台詞が返る。
アルキデアに何を言われるか分かったもんじゃないと言いながら、グロチウスを足早に歩かせる彼は、ティナの方を見下ろそうとしない。

「こういうのって!夫婦でやるから意味があるって」
「俺が指輪をつけてどうする。仕事の邪魔にしかならない」
「た、たまに見つめるとか」
「それで?」
「……私のこと、思い出す、とか」

――うわ!馬鹿な事言った!

ティナはいきなり頭を抱えた。
くしゃっと乱れた髪を呆れた顔で眺めながら、ソルディスは言った。

「お前の個性は強すぎてな。忘れようにも忘れられない」
「……」
「だから、指輪だの何だのは不要なんだ。分かったか?」

これで納得しないようならそれこそ其れは返品だと言い出しかねない彼の表情に、ティナはこくりと頷いた。
そして、改めて己の白い指先をちらっと見た。


そういえば、ソルディスから何か貰ったの……初めてだ。

(ねぇ。これ、少しは素直に喜んでも良いのかな)

ティナはやっと大人しくソルディスに寄り掛かった。

「――ねぇ、ソルディス、私、」

さっき言いかけた言葉の続きを、静かに言う。

「私が、死んでも、亡骸になっても、傍に置いてくれるって言ったよね」
「そんな事も言ったな。其れがどうした」
「死んで、骨だけになっちゃったら、私の顔忘れちゃうのかなって思ったの」

でも、と。

「指輪、小指の骨につけといてね。死んでも、私が、ソルディスの奥さんですって」
「婚姻の証と、俺がお前を思い出す為か」
「そう」
「忘れられるのが嫌なら、腕の良い画家を呼んで肖像でも描かせるが」
「ソルディスと、二人の?」

そう言ってソルディスの服を握る腕は、いつもよりか細く見えた。
ふと頭を過ぎるのは、いつか見た肖像画。杜撰に破かれた、あの肖像画は、確かに誰かに忘れられない為にあの禁じられた部屋に存在している。
ねぇ、それは、ソルディスがあの人を忘れようと出来ないから?
その手で殺めたと言う彼女の事を、いつまでも忘れたくなかったから?

ティナは顔を上げられなかった。

辺りは、虫の音と、グロチウスの蹄が地を駆る音のみ。
向うの山からは沈みかけた太陽が此方を覗く。


暫くの沈黙。
そうして、ソルディスが思い出したように言った。

「――指輪の裏に」
「え?」
「そこに、文字が彫ってあるらしい。細工師が、余計な事を」

言われた意味が良く分からず、ティナは首を傾げながら小指の指輪を抜いた。
指先でしっかり掴みながら顔を近づけて、その小さなリングの内側を見つめる。

「本当だ。何て書いてあるの?」
「日頃、教師の話をよく聞いていれば読める簡単な言葉だと思うが」
「――意地悪」
「怠慢なお前が悪い」

ティナはブツブツ言いながら、取りあえず読めるだけ読んで見た。
これは魔族の古語だ。先生の話曰く、昔は魔族と人間の言葉はバラバラだったけど、土地を近くして生きていくうちに言語が統一されたらしいが……“クロム”“セリア”もそう言えば古語だっけ、とティナは考えながらその言葉を口にする。

「これは、ル……じゃなくって、…ロ…――ロズ、レ……デイナ”」

ろずれでいなって何。
ティナは眉を顰めながら、落とさぬうちにまたリングを小指にはめた。

「ロズ・レ・デイナって何?」
「調べろ」
「知ってるんでしょ、教えて」
「さあな」
「ああもう意地悪!ちょっとグロチウス、酷いよね!――あ、そういえば貴方、人の形になれるのね!さっき寝起きだからぼーっとしてたけど、前に会ったわよね?ね?真っ黒だから、私あの時ソルディスと間違っちゃって……じゃなくて!グロチウス、言葉の意味教えて!言葉、話せるんでしょう」
「魔獣は人型を為さないと喋らないぞ」
「ああ、今すぐ知りたいのに……!」


苦悩する姫君を背に乗せ、グロチウスは人知れず溜息を付いた。
仲が良いのは構わないが……いや、構うことはあるけれどそれは置いておくとして。

姫君が悩むその言葉が、典型的な愛の誓いを示すまさにそういう意味の言葉である事を、例え誰かが知っていたとして。一体誰がそんな小恥ずかしい意味を素直に口にしてくれるだろうかと頭の隅でそっと悩む。



さぁ、と風が流れた。

夕日が顔に当り、眩しさにティナは眼を瞑る。

そんな彼女を見下ろすソルディスの表情がいつもより穏やかであった事に――しかし彼女はいつまでも気付く事が無かったのだ。












< 鳴鳥は情歌を望む fin. >


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