1
「会食?」 「ああ」 慣れない大人用のフォークで必死に子羊の肉を切りながら、ブロンドの少女が聞き返す。 対して彼女の疑問に素っ気無く答えた男は、優雅な手つきで食事を進めた。 城の主であるその男は、食卓の最端に座していた。 彼の右と左には、問いかけた少女――彼の妻と、彼の姉がそれぞれ静かに座っている。 両手に花、という目出度い言葉はこの場に引用すべきではないだろう。 食堂と食卓に置かれた燭台に周囲を照らしながら、殆ど会話も無く黙々と食事を進めているのだから。 好きで黙っているわけではない。 取り敢えず城に来たばかりの少女、ティナの場合は。 彼女の夫であり、城の城主であるソルディス・ジェノファリスは食事の際に殆ど喋らない。 食事の時だけではない。自分から用事が無い時は、廊下ですれ違っても無視される事が多い。ティナが城に来て早9日。その間、ティナはソルディスと他愛ない話や世間話をした記憶が一切無い。 勿論自分から声を掛ける事もある。 それで会話のキャッチボールがぽんぽん続けば良いのだが、実際そう上手くいくもんじゃない。 大抵一言二言交して、彼がさっさと立ち去ってしまう事が日常だった。 よって、彼から声をかけられるとティナは怯えながらも食いついてくる。 それが普段沈黙に包まれる食事の時間とあらば、出来る限り会話を延ばしたいと心から願うのが彼女の心境である。 「会食って、誰と?」 「昼間は城下の貴族を招待してお前の紹介をする。晩餐には俺の私的な知人を招待する」 (私的な知人がいたんだ……) と、そこは触れないでおきつつ。 「明日午前の勉学は無しだ」 「え」 ぱっとティナの顔が華やぐ。 が、 「その分、翌日の勉学時間が延びる」 がっくり、とティナは俯いた。 柔らかい肉を小分けに切り分けて、また1つ口に運ぶ。 じっくり煮込まれた子羊は、口に入れた途端解れる。じんわり染み出る肉汁は濃厚で、それでいてしつこくない。明後日の嫌な予定を忘れるために、ティナは食事に集中した。 もう少しすれば今晩のデザートが運ばれる。 それを食べれば晩餐は終り、本を読んだりニルや侍女と軽く会話したら湯浴みをして就寝するのみ。 ティナはさっさと皿の肉を食べ尽くしてしまおうとフォークを握る手を早めた。 「ティナ」 「あ、はい」 「もっとゆっくり食べろ」 「………はい」 ティナはほとほと参った視線をニルに送った。 正面に座ってこれまた優雅に食事を進めるニルは、ティナに向かって意地悪げに片目を瞑った。 とにかく頑張れ! という激励のメッセージが添付されていそうな表情だった。 「ふぅ」 薄暗い廊下を歩きながら、ティナは溜息をついた。 今日の夕食後は自室でゆったりとした読書タイム。 先日教えてもらった書庫から薄い本を2冊選んで、せっせと手に抱えている。 1つは子供用の絵本。あまり大っぴらに言える事ではないが、ティナは絵本が好きだ。 小さい頃カステルや侍女のステラに読んでもらって嬉しかった記憶があるからかもしれない。 2つ目は、この土地――ト・ノドロからナスリカ森林周辺にかけての言い伝えなどが書かれている本である。年老いた長老が子供に聞かせる昔話のようなものだ。 小難しい本を読むのは勉学時間だけにして下さいと誰かに向かって頼みながら、人目を盗む様に借りてきた2冊を大事に抱え、ティナは自室(正確にはソルディスの部屋)へ向けて歩いていた。 ――と、向かいからニルが歩いてくるのが見える。 「あらティナ。お部屋に戻るの?」 ひらひら手を振りながら歩み寄ってくる。 「湯浴みまで本を読もうかと思って。ニル姉は?」 「明日の会食の事でロドメと色々話にね。それはそうと、城には慣れたかしら?」 「まだ不慣れな場所が多いけれど。お城の人達とも仲良くなってきたし。ただ――」 「ただ?」 「……ソルディスが」 「あの子が何か酷い事でもした?」 言いにくそうに廊下を見まわしながら、ティナは小声で言った。 「何て言うか、彼の行動がよく分からなくて。まだ会って数日しか経ってないからあの人の性格とか理解できないのは当たり前かも知れないんだけれど。それにしても……うぅん……気まぐれ、っていうか、気難しいって言うのか、その……」 「ああ」 ニルは腰に手を当てて何度も頷いた。 「あれでしょう?昨日は話し掛けてきたのに今日は話し掛けてこないとか、さっきまで機嫌が悪くて冷たかったのに、少しして会った時には心なしか優しくなっていたとか」 「そう!」 ティナは目を輝かせてニルに訴えた。 「あの子、昔はもっと行動単純だった筈なんだけれどね。ま、性格として諦めるしかないわね」 「……それと」 「ん?どうしたの。遠慮しないで言ってみなさい」 「私達、“恋人”とか“知り合い”とかっていう順番を飛ばしていきなり結婚したから、正直どう接したら良いのか分からない時があるの」 「まぁ、普通の婚約者同士より難しい問題よねぇ……何せ相手があの子なんだから」 楽しそうに笑うニル。 ティナにとっては全然笑い事ではないのだが。 「あのね、ティナ」 「ん?」 「まだ出会ったばかりで、お互い好きにはなれないかもしれないけれどね。口では言わないけれど、ソルディスは貴方のこと嫌いじゃないと思うのよ。あの性格からして、嫌いな人間と食卓を共にしたり、自分の部屋に入れたり、ましてや隣室で生活する事を許すなんて絶対にしないわ」 「……そうかしら?」 「そうよ。絶対にそう。だからね、胸張ってあの子にぶつかって行けばどうにかなるものなのよ」 じゃあ私はロドメの所に行くから、と笑ったまま去って行くニル。 ぶつかった瞬間に砕けそうです、そんなティナの思念は一切伝わらなかった様である。 より一層重い足取りで、部屋へ向かうティナ。 ようやく彼の部屋に着くと、本を持たない手でノックを二回。 低い声が室内から聞こえ、部屋に入る承諾を得るとようやく扉を開く事が出来る。 「お邪魔しますー……」 等と、一応小声で言ってみたりして。 ティナはいそいそと部屋に入ると、机に向かってなにやら仕事をしている彼を横目に自室へさっさと引き篭もる。 静かに部屋の扉を閉めると、ホッと一息着いてベッドにどさっと腰をかけた。 ――結婚した直後の、あの日。 故郷がモロゾナに侵略されそうになって、それを助けてくれた日。 ティナとしては、あまり人前では言えないけれど……あの日もといあの晩は夫婦としてかなり仲の良い時間を過ごした。実際はソルディスがティナに好き勝手な事をしていた訳だが。 けれども、それっきりである。 満月が近い、という理由でソルディスの部屋へ頻繁な出入りをする事を抑制された事もあった。それでなくとも普段の会話自体十分冷たいものである。 新婚浪漫全開のティナとしては、例えば口付けなんかはおざなりでも、手を繋いで散歩やら二人でほのぼのとお茶の時間とかそちらの方がよっぽど嬉しいのではあったが――相手がソルディスではそうもいかない。 領主という立場であるため日々仕事が多いのはティナも承知している。 ニルの話によると、出張というものもあるらしい。 新婚であるがゆえ自分にかまってと言うのは厚かましいにも程がある。 そうとなれば、ティナがとるべき行動はただ一つ。 「……本読もう」 滅入る事を考えればどんどん滅入る。 ティナはベッドに倒れこむと、うつ伏せになりながら大きめの本を広げた。 子供向けなのだろう、少し褪せた色彩の挿絵と大きな文字。 ここ近辺の伝説や言い伝えが載った本である。 きっとソルディスに見られたら馬鹿にされる。 そう思いながらも、ティナは楽しげに一頁一頁捲っていく。 言葉を喋るミニロ草の話。 4本足の怪鳥の伝説や、胸を赤く染めた子馬の切ない物語。 魔族の森に迷いこんだ少女・ミーラの不思議なお話。 「あながち本当に居たのかもね。こういう子って」 自分も、もし正式な婚約ではなくナスリカに迷いこんでいたら。 そう思うと少し恐い。 作り話かもしれないが、この物語の女の子よりは自分は幸せだと思うべきだろう。 その気さえあればレィセリオスとここを行き来できるし、自分から城を脱走しなければ命の危険に関わる事態に陥る事はきっとない。 自分は、恵まれた境地にいるのだ。 「そうよね、私もっとしっかりしなきゃ」 例え一人の男性が自分に冷たいからって、気まぐれだからって―― ティナは自分の頬を叩きながら本を読み進めた。 ************************************************************ 「まぁ、可愛らしい!」 そう言いながら、ニルは嬉しそうにティナに駆け寄った。 ティナの部屋ではニルとマリアン、加えて数人の侍女がティナの正装の着付け中。 白をベースにしたドレスで、所々に水色のレースとリボンが施されている。 普段慣れない化粧も、侍女の手により着々と進められた。 元々色白の肌であるため白粉はほんの気休め程度。 薄い桜色の紅を唇に塗り、瞼にも同じように桜色の色粉を撫でつけた。 気恥ずかしそうに俯くティナの顎をあげさせ、ニルは満足げに微笑む。 「これなら領主の正妻に相応しいと誰もが思うわね」 「ええ、勿論ですとも」 「……この頭のティアラ外しちゃ駄目?」 「駄目!」 「駄目です!」 ニルとマリアンの険しい制止に、ティナはたじろいでまたも俯いた。 諸国と国交が殆どなかったレィセリオスでは、ティナはあまり正装をする機会が無かった。 特別派手で豪華に着飾ったのは、王位継承の儀の時位だろうか。 城下に降りる時も普段のドレスを着て、特に化粧もせずふらりと歩くような人間だったため、堅苦しい場というのはめっきり不慣れである。 ティナは、先に正装を身につけて終っていたニルを見た。 すらりと伸びた背とソルディスと同じく整った顔は、どこからどう見ても美しいの一言に尽きる。 普段下ろしている長髪は後ろに束ねた後、頭上のほうへ結い上げていた。 大人らしい化粧をし、きりっとした瞳に似合う真っ赤なドレス。 女性から見ても溜息が出るほどの美貌である。 (それに比べて自分は) ちらりと、ティナは自分を姿見に映してみた。 低い身長、童顔、まだ大人とは言えない体型。 ドレスもどこか幼げで、宝石の類も似合わないような雰囲気を醸し出している。 更には、傍に居るニルやソルディスの背が高いものだからたまったものではない。 ティナは早く今日一日が終るように願いながら、心の中で溜息をつく。 「さて。私もティナも準備が出来た事だし」 ニルがそう言いながら、ティナの部屋の扉を開けた。 「ソルディス。準備出来た?」 「とっくに」 「男は良いわよね。何にもする事が無いんだから」 確かに男性は女性よりも準備が早い。 少しだけ形式ばった服を着て、髪を整えたりなんかすればそれでお終いだ。 随分前に準備が終っていたであろうソルディスは、肱掛椅子に座ってロドメに茶を淹れてもらっていた。 普段と同じく後方に撫でつけた髪型だけは変わらないが、服装は普段より正装めいている。 普段は暑苦しいからと外している黒のスカーフも、ご丁寧に襟元に折り込んでいた。 ソルディスは紅茶を啜りながら、普段と違う服装のニルとティナを見て顔を顰める。 「馬子にも衣装だな」 「失礼よアンタ」 ニルは手にしていた扇子でソルディスの肩を叩く。 「夫として新妻にかける言葉は無いわけ?ね、ティナ」 ニルはティナの背中を押して、ソルディスの前に差出した。 恥ずかしげに俯いて視線を合わせ様としないティナを、ソルディスは黙って見ている。 「可愛いでしょう。天使みたい」 「どうだか」 「まぁお酷い。私がリィネと二人で施した化粧ですよ?」 馬鹿にしたようなソルディスの態度に、マリアンは不満そうに言った。 リィネというのは、見目においてティナと同い年くらいの侍女である。 微妙にマリアンの化粧の仕方が古いので、慌ててティナの化粧を直したのがリィネその人。 ティナは、懸命に化粧を施してくれた二人に申し訳がなさそうに、ますます顔を俯かせた。 「客人の前では俯くなよ」 「そんな事はしませんっ」 俯いてるのは貴方のせいだ!と声高々に言ってやりたい衝動をティナは抑えた。 「……とは言ってみたものの――」 眩暈がした。 ティナは人に酔いそうになっている真っ最中。 客人といっても、どうせ城下の貴族の方々が数人来るだけだと思っていたのだが……この大人数は予想外だ。 広い社交用の広間には、既に何十人もの人達が立ち振る舞い優雅に会話を楽しんでいる。煌びやかなドレスや輝く宝石の装飾に包まれたご婦人達、しっかりと仕立てられた正装を身につける紳士達。 次々とティナとソルディスの元に来、掌に口づけをすると深深と礼をする。 ――ティナが人間だから、という事もあるだろう。皆が興味深そうにティナを眺めては、それでは……と各々各自の場へ戻って行く。所々に置かれたテーブルには調理人が腕を振るった料理が沢山並べられ、昼間から祝い酒だと葡萄酒を飲みつづけていた。 そんな多数の視線に晒される中、自分の存在があまりにも場違いな気がしてきてティナは思わず俯きたくもなった。結局は隣に立つソルディスに怒られるのが嫌で耐えているのだが、気恥ずかしさはなかなか拭えない。 ソルディスがあまりにも立派に見える、というのも、恥ずかしさの一つであるのだろう。 確かに第三者から見れば、彼は素晴らしい人物かもしれない。 領主と言う地位、端正な顔立ち、気品溢れる所作等々。 そこに「思いやり」や「妥協」と言った単語が加わればティナも文句は無いのだが――実体、そうではないのが悲しい所だ。 「これはこれは、領主様。本当に今日は目出度い事でして――」 何人もの人達が言ってくるお決まりの台詞。 全然目出度くないんですけど、と心の中で念じているティナの気持ちなどいざ知らず。 彼等は皆ご丁寧に、二人の結婚を祝福してくる。 「お美しい姫君様ですね」 「そう言って頂けるのは有難い」 なんて、差し障りの無い言葉を言ったりするソルディスを見るのもティナは複雑だった。 本当はこの人冷たいんですよー、本当はこの人気まぐれなんですよー、と何度も呟いている。 ……勿論それは脳味噌の奥で。 一人去って、また一人。 会食が始まって数十分、随分の数の来客に挨拶をしてきた。 段々その数は減り、とうとう面会の列もあと一人という所までになった。 ――最後のお客だろうか。 来客の殆どは親子か夫婦か家族連れか、といった感じだったのだが…… 最後の一人は、女の子だった。人間にしてみれば、ティナとあまり歳の変わらないような一人の少女。 フワフワのカールが効いた可愛らしい髪。目に眩しい程の黄金色の髪。猫の様にクリっとした生意気そうな青い瞳と、水色のドレスは、彼女の髪にとてもよく似合った。 彼女は深深と御辞儀をすると、それまでの来客と同じように顔をあげてにっこり微笑んだ。 「――ガーネット?」 それまでどおり挨拶をしようとしたティナは、上から聞こえたソルディスの呟きに思わず言葉を詰まらせる。見上げれば、あまり表情を変えてはいないものの、多少驚いた様に目を見開いたソルディスの顔があった。 「何故ここに」 「なぜ?なぜって、決まってるじゃない」 敬語ではなく、親しみが篭った会話。 可愛らしく高い声の彼女――ガーネットは、ティナを余所目にソルディスの元へ駆け寄った。 「ソルディスに会いたくて」 そう言うと、彼女はそっとソルディスの手を取り甲に口付けをした。 「お前――」 動揺したように、ソルディスは顔を顰めながら彼女に小声で囁く。 「お前は昼の会食に優待していない」 「知ってるわ。私が招待されてるのは夜の晩餐でしょう?」 ガーネットは癖のある髪を指にからめながら、可愛らしく笑った。 「そんなの酷いじゃない。私も――えぇと、何だっけ。リナちゃん?」 「ティ、ティナです」 「あぁそう。ティナちゃんと明るい太陽の下で女同士の会話を楽しみたくって。ねぇ、それより、今日のドレス綺麗?この日の為にせっかく用意したのよ!」 「あ?…ああ、それなりにな」 ソルディス以上に動揺してよくワケが分からないティナは、名前を間違えられた嫌味にも気付かず普通にそれを訂正していた。ティナと同じくらいの小柄な身長に、可愛らしいふわふわの髪を靡かせながらソルディスに甘える少女。ティナは彼女の親しげな様子にも驚いたが、何より纏わりつかれることを嫌がらないソルディスに驚きを隠せなかった。 女は面倒だと公言している彼が、このような女性を煩く思わないわけが無い。 それなのに、今の彼は煩がる様子も怒った様子も全く無く、人前だから今は控えなさいと言った感じに留めているように思えてならない。“夜の晩餐”に招待していると言っているあたり、恐らく彼女はソルディスの私的な知人の部類にあたるのだろう。しかし、それにしたって、普段の彼からは考えられないギャップに、ティナは呆然とせずには居られなかったのだ。 強く咎めないソルディスを良い事に、ガーネットはソルディスの手を引いて食事を楽しもうとさえして―― ティナは原因不明の頭痛がしてきた。 しっかりしなければ、と咄嗟に額に手を当てる。 ――途端、不注意ながらその弾みで、頭上のティアラは微妙に変な方向へずれてしまう。 「あ……」 「どうした」 急にうろたえたティナに、ソルディスは小声で言った。 「ティアラ、ずれたみたい……ごめんなさい」 「マリアンか誰かを呼ぶか?」 「お客さんの前でそれは――。とりあえず新しく来城する人も区切りがついたようだから、姿見がある所ですぐ直して来る」 「なら、早く行って来い」 「はい。すぐ戻ってくるから」 「慌てないでゆっくり直して来てねー。私達何か食べて待ってるから」 ガーネットから複雑な言葉をかけられつつ、ティナは笑顔で頷いた。 正直なところ、あまりソルディスとガーネットを二人きりにしておきたくないのだけれど……乱れた飾りをそのままにしておく訳にはいかない。後ろ髪を引かれる思いに多少の戸惑いを感じながらも、あまり来客に分からないよう、ティナはそっと華やかな会場を抜け出した。 廊下に出ると、来客の人達が数人一息ついていた。 皆が皆、広間で食事をとっていると思っていたのだが――ティナのように人込みが好きではない貴族もいるのだろう。扇子で仰ぎながら、楽しそうに会話をしている貴婦人方が輪を作り、なにやらおしゃべりの真っ最中。 ティナはその人達の前を、邪魔にならぬよう、お辞儀をしながらいそいそと通りすぎようとするのだが――不意に、その内の一人に声をかけられた。 「あぁ、ちょっと」 領主夫人に対してかける言葉にしては、少しだけ品がない様に思えよう。 が、かけられた声に思わず立ち止まって、ご丁寧にティナは返事をしてしまう。 「何でしょうか」 「貴方、人間なのでしょう?」 婦人の一人が、扇子でティナの頬を撫でた。 妖艶なる笑みを浮かべながら、つぅっと撫で上げられるその感覚。 思っても居なかった行動に、ティナは目を見開いて後ずさりしそうになる。 顔を近づけてきた婦人からは、不意に、大人らしい香水の匂いが漂った。 「変ねぇ。全然人間臭くないじゃない?」 「虐めるのはお止めなさいよ」 「だって。おかしいじゃない。何、匂い隠しでもお使いになってるのかしら?」 怪訝そうにティナを見下ろす女性達に、ティナは緊張しながらも何とか言葉を繋いだ。 「あの、私、香水とかはつけてませんけれど」 「そういう事を言ってんじゃないの、嫌味よ嫌味。ひょっとして、貴方もう領主様に“魔族にして頂いた”んじゃないかと思ってね――?」 「魔族に……?」 ――それは、確かに、あの行為を意味する言葉。 思い当たるその記憶に、あ、っとティナは耳まで顔を真っ赤にして更に後退った。 そんなティナを見て、アンジェラは真っ赤な紅を扇子で隠しながら愉快そうに笑い出す。 「まだ子供じゃない。領主様も一体どうしたのかしら?こんな人間を嫁に娶るだなんて」 ぱしっ、といきなり扇子で頬を軽く叩かれたティナは愕然とした。 先ほどまではソルディスの前でお世辞やら賞賛の言葉という言葉を並べ連ねていたこの貴婦人達が、打って変ってティナを侮辱している。あろうことか、領主婦人の頬を軽々しく扇子で叩くとは! 「さっさと人間の国に戻った方が良いと思うけど?所詮、貴方のような子供が相手出来るような御方じゃないのよ。まぁ、どうせそのお子様のような身体が飽きられたらすぐに城から追い出されると思うけれど。本当、身の程知らず――」 「身の程知らずは君達じゃないかな?」 誰かが急に彼女の声を遮った。 後ろから聞こえたテノールに、ティナは俯いていた顔をハッとあげる。 ティナの後ろに立っていたのは、一人の男性だった。 年の頃ならソルディスと変わらないだろう。 少し伸びた栗色の髪を後ろで束ね、にっこりと温厚そうな笑みを湛えている。 ソルディスと正反対の、温かい印象を持つ彼は笑みを絶やさないまま女性達に詰め寄った。 「!……ルーク、」 「ソルディスが聞いたら、君達こそ城内に立ち入りを禁じられると思うけれど」 「い、行きましょう」 その言葉に顔を青ざめさせながら、彼女達はいそいそと廊下を去って行った。 見目雰囲気は貴族そのものなのに、裏ではああいう陰口を言う者も居る。口汚く他人を罵る者も、実際に貴族同士没落に貶めんとする者も。 煌びやかな世界の裏には暗い部分もある、とはまさにこの事だろうか。 ティナは彼女達の姿を目で追った後、取り敢えず男性に深深と頭を下げた。 「あの、本当に有難う御座いました」 「良いんです。男として当然の事をしたまでですよ」 彼はそう言うと、ティナの手をそっと取り、その甲に軽い口づけをした。 「ご挨拶が遅れました。ジェノファリス城の主治医を担当しているルーク・ハルフォットと申す者です」 「ティナ・クリス――じゃなかった、ティナ・ジェノファリスです。此方こそ宜しく」 挨拶の間違いを訂正しながら、彼の温厚そうな性格に、ティナは久しぶりの安堵を覚えた。 堅苦しい正装に身を固め緊張ずくめだった会食の中で、やっと一息つけた感じだ。 「彼女達はね。自分達が結婚できない腹立たしさを貴方にぶつけただけなんです。どうか気に為さらない様に」 「えぇ、あの、大丈夫です。きつい言葉には慣れてますから」 誰かさんの嫌味もこういう時に役に立つ。 ティナは、普段から冷たい言葉を投げかけるソルディスに少しだけ感謝した。 「姫君、会場に戻らなくて宜しいので?本日の主役がこんな所に居ては会場も華に欠けますよ」 「いいえ、そんな、……――あぁ!そうだ、ティアラ、」 ティナは、自分が用事があるからこそあの会場を抜け出したのを思い出した。 ルークと名乗る彼にもう一度御礼を言って、その場を立ち去ろうとする。 が、ティナが小走りに走るのを注意しながらルークはにっこり微笑んで言った。 「また心無い方々に嫌味を言われるのも傷心物でしょう。会場に戻るまで、僕がついていって差し上げますよ姫君」 ――紳士中の紳士だ! ティナはルークのフェミニストな態度に、涙が出るような感動を覚えた。 唯我独尊冷酷領主と彼とを比べてしまうのは、ティナにとってごく自然の流れであると思う。 ティナは嬉しさに顔を綻ばせながら、ルークに付き添ってもらって姿見のある場へ脚を進めた。 「主治医さんって言う事は、ソルディスとはお知り合いですか?」 「えぇまぁ、懇意というほどではありませんが――僕の父も此方の城専属の医師だったもので」 ルークは丁寧に答えた。 「本当は夜の晩餐に来る予定だったんです」 「え?」 「だけれども、僕の助手がどうしても昼に来たい……と言い出したものですから」 困ったものです、と笑うルークにティナはふと思いついた。 「それって、もしかしてガーネットさん?」 「おやご存知で?」 話しているうちに、会場から少し離れた廊下で立ち止まる。 衣服の乱れを気にする来客の方々が心置きなく服装を整えられるようにと、廊下の所々に、綺麗な額縁で縁取られた姿見がかけられているのだ。 ティナは、鏡に映ったティアラと自身の頭を見ながら、なんとか髪を絡め無いよう慎重に位置を整えた。思いの他梃子摺る手直しに、ティナより背の高いルークは、上から助言をしてティナのティアラを上手に直させてやる。 「良い感じですよ。直って良かったですね」 「えぇ。有難う御座います、付き合ってくれて」 「そんな、滅相も無い。……それより、姫君はガーネットとお会いになったのですか?」 ルークの問いに、ティナは思わず複雑な表情をしてしまった。 「えぇ。とても可愛い人でした」 「彼女、領主様にすっかりお熱でして。夜まで待てというのも聞かずに――……あぁ申し訳無い。こんなこと、貴方に言うべき事ではありませんでした。失礼をお許し下さい」 「良いんです。本当に仲良さそうだったし」 「――嫌ではありませんか?」 「嫌って、何がですか」 「領主様と他の女性が仲睦まじそうにしているのが、ですよ」 あまりにも直球なルークの問い掛け。 その質問に、ティナは即答するのを躊躇った。 |