嬉しいか嬉しくないか。
そう聞かれれば、勿論嬉しいわけが無い。
ただ、それが恋心によるものなのか――と問いなおせば、彼女に答えを出すことが出来ない。
単に自分の夫という身分の者が他の人と……という、我侭にも似た嫉妬なのか。
それとも、自分以外の女性と親しくして欲しくないという、切実な恋心の嫉妬なのか。

なかなか直に返答をしないティナを見、ルークは目を細めた。
クスリと笑ったその口元に、考え事をしているティナは気付くことが無い。

「――申し訳御座いません。身分を弁えず失礼な質問をしてしまったようですね」

彼はそう言うと、申し訳なさそうに謝罪した。
良いんですと首を振るティナの手を取り、再びそっと口付ける。

あまりにも丁寧な彼の礼儀作法にティナは思わず微笑むが、嬉しさと同時に気恥ずかしさもあり、手を引っ込めようする。
――が、

「あ、あの……?」

いつまでも手を離そうとしないルークに、ティナは少しだけ不安を感じた。
思わず周囲を見渡すが、先程角を曲がった為、この廊下の通りには二人しか居ない。

「ルークさん、……戻りましょう?」
「――本当に、人間の匂いがしないね」
「え?」

小さく呟かれた言葉がよく聞こえなくて、ティナは聞き返した。

「すっかり魔族の仲間入りだ、と言ったんですよ。ティナ・ジェノファリス」

ルークはにっこりと微笑むと、急にティナに迫った。
びっくりして身を引くが、後ろは壁。ルークはティナの顔の横へ手をつくと、その優しげな微笑を全く崩さずに言葉を続けた。

「ソルディスと、契約を交したんですね」
「け、契約?」
「惚けても駄目ですよ。さしずめ、彼と一晩過ごしでもしたのでしょう?」
「――!」

ティナは驚いた。
どうしていきなりそんな露骨な事を言い出すのか。
どうして先程の女性達と同じように、からかった態度を急に取り出したのか。
それに加え、手を握られ続けている恐怖。廊下に二人きりという恐怖。
ティナは本能による警告を察知し、なりふり構わず手を引こうとした。

「は、離して下さいっ」
「――静かに」

ルークはティナの耳元で楽しげに囁いた。
彼の栗色の前髪がティナの耳元を擽る。

「人は来ません。ソルディスも、今頃ガーネットと楽しくお喋りでもしているでしょう」
「……っ」

動揺して抵抗を止めたティナを、ルークは見逃さなかった。
手を掴みあげて抵抗を封じ、ティナの首元に顔を埋めると、素早くその白い首筋へ唇を寄せる。
ありったけの抵抗を始めるティナだが、男の力で封じられている腕は自由にならず、上手くいかない。

「止めて!ちょっと……誰か!……あっ」

首筋をキツく吸い上げられたのが分かって、ティナは思わず身を竦めた。
さっき会ったばかりの他人に、こんな屈辱的な事を――しかも自分の不注意でこんな事態に陥った事に、ティナは自身への怒りと、ルークに対する怒りが同時に湧いた。

「やめて、離れて……!ソルディス以外の――」
「彼以外の人にこういう事をされるのは嫌ですか」
「当たり前です!」
「でも、彼は他の女性と食事を楽しんでいる」

まだルークの微笑みは消えていなかった。
屈託無い純粋な子供のような、人のよさそうな笑みを浮かべている。

「もう少し……」
「嫌!やだ、ソルディス!助けて、ソル――」

再び首筋に唇を這わせ始めたルークに、無意識に叫ぶティナ。
自分の力ではどうする事も出来なくて、ただこの場に居ない彼に助けを求めるしかなかった。
無駄だと言わんばかりにルークが執拗な愛撫を続けていた、その時。




「……ルーク!」


廊下の向こうから聞こえた鋭い声に、ルークは思わず顔を上げた。
力を緩めた彼の腕から、すかさず自身の腕を振り解いたティナはルークの熱が残る首筋を抑える。

鋭い剣幕で歩いてくるソルディス。
彼の後ろをひょこひょこと可愛らしくついて来るのは、他でもないガーネットだ。
彼女が足のコンパスの差で追いつかない事に気を配りもせず、ソルディスはルークへ詰め寄った。

「貴様、何をしている」

ソルディスは、ルークの整えられた正装の襟元を乱暴に掴んだ。
ルークは、軽く緊張したような表情を見せながら、肩を竦めて笑って言う。

「嫌だなソルディス。僕が何をしたっていうの?」
「惚けるな」

ぎり、っと一層強く掴みあげられたルークは、苦しそうに顔を歪めながらソルディスの肩を叩いた。

「ソルディス!苦しい!苦しいってば!」
「そのまま窒息したら良い」

ソルディスは冷淡にそういうと、ルークを廊下に投げ捨てた。
ガーネットは、苦しそうに咽喉元を擦って咳き込むルークに慌てて駆け寄る。
背中を擦られながら「僕は大丈夫」と笑うルークを一瞥したソルディスは、首筋を抑えたままのティナに目を向けた。

「ティナ」

首元を隠す手を退かそうとするソルディスに、ティナは拒否する様に首を振った。
恥ずかしい。
正妻という立場でありながら、ソルディス以外の男にこのような事をされてしまったというのは、経緯はどうであれティナ自身の失態だと思ったからだ。
それにティナは、ソルディスがガーネットと一緒にやって来たことを少なからず不快に思った。
別に、ソルディスが連れてきた訳ではないだろう。ガーネットが勝手にソルディスの後を歩いてついてきたのかもしれないし、その可能性が大きい。
けれど――それでも、嫌だったのだ。

ティナはソルディスと目を合わせようとせず、生理的に滲んだ涙を甲で拭った。

「ティナ」
「……ごめんなさい。すぐ会食に戻ります」
「ティナ」

ソルディスは嫌がるティナの手を無理矢理外し、首筋を覗きこんだ。

「駄目っ、……あ、」
「――」

(見られた、)
ティナの顔がより一層歪み、悔しそうに俯かれる。
生理的なものとはいえ涙は涙だ。
他の男に身体を許した悔しさを助長しているかのような真珠の如き雫は睫の上で光り、瞬きと共にぽたりと落ちた。

ソルディスは、ティナの首筋に浮かんだ赤い跡を見ると、凄まじい勢いでルークを振り返り、再び胸倉を掴んだ。放り投げ出されて倒れこんでいた彼を無理矢理立ち起こさせる。ルークも、流石に不味いと感じたらしく必死にソルディスを宥め様とする。

「ね、ソルディス。ちょっと僕の話を」
「聞けないな」

ティナは目を瞑った。
同時に聞こえた、体と体が接触する音。ガーネットの悲鳴。

あろう事か、ソルディスがルークを殴ったのだ。

ソルディスが手をあげたとき、またバドルの様に血の惨劇にするのでは……と瞬間思ったティナだったが、どうやらそれだけは避けられた様である。思いきり殴られたルークはまたも廊下に吹っ飛ぶ。そしてガーネットはまたも駆け寄る。

ソルディスはこれで勘弁してやると言わんばかりに見下ろすと、再びティナを見た。

「何故あいつの好きなようにさせた」
「なぜって……こんなことされるとは思ってなくて」
「言い訳だ」

ティナの言葉を一蹴するソルディス。
慰めも何も無いその態度に、ティナはむっとした。

「だって、ソルディスの主治医さんだって言うから」
「医者だろうが何だろうが男は男だ」
「確かに不注意だったけど」
「結婚の披露目時に他の男と居る事自体おかしい」
「……それを言うならソルディスだって!」

ティナはソルディスに食いかかった。

「ソルディスだってあの子と仲良くしてたじゃない!」
「していない」
「絶対してた。少なくとも私より仲が良さそうだった」
「どこが」
「教えない」
「ティナ」
「――ソルディスなんて知らない」

これではまるで、子供の様だ。
ふと自覚したティナは、ソルディスから顔を背けた。
今すぐこの場から消えたくなった。
どう考えても自分が悪いのに、一人でかっとなって怒って八つ当りしている。
本当は、今日は目出度い日なのに。

そう、今日は本当は目出度い日だったのだ。
正装を身につけ、綺麗に化粧をしてもらって……

そこでふとティナは、ソルディスに嘘でも正装姿を綺麗だと言って欲しかった自分に気がついた。

自分の容姿じゃなくても良い。
ティアラや、ネックレスや、ドレスでも良いから、少しだけ誉めて欲しかった。

ガーネットのドレス姿は誉めるのに、どうして自分は――

そんな馬鹿みたいな考えばかり浮かぶ自分がとても未熟にみえて、ティナは唇を固く結んだ。

「泣くな」

急にかけられたソルディスの言葉に、ティナは顔をあげた。

「泣いてない」
「泣きそうな顔をしている」
「気のせいです」

またも、敬語に戻っている。ティナが彼に敬語を使うのは、拗ねている時か疚しい事がある時だ。
あくまでも早く会場に戻ろうと言うティナに、ソルディスは滅多に見せない複雑な表情を浮かべた。

「ティナ」
「…………」
「……ティナ」

目を逸らそうとしないソルディスとの間に、どんどん気まずさが溢れてくる。
駄目だ、きちんと謝らなくては。頭ではそんな事を思っても、言葉は全然咽喉からでてくる気配が無い。
逃げ出してしまいたい、とティナはドレスの裾を握り締める―― そんな時に。



「…………くっ…」


ルークが吹き出した。

「あは、――あははははっ!あー駄目だ!もう無理!ほんと無理!」

ルークに続く様に、ガーネットも螺子が外れた様に笑い出す。
二人とも笑いを耐えていたかのようで、込上げるおかしさにとうとう陥落したようだった。

「私ももう駄目!お腹痛い……!大成功ねルーク!」
「成功中の成功だよガーネット!あぁ、君と僕は本当に天才だね!どんな英才もびっくりだよ!僕達の愛と知能に勝てる人なんて誰もいないさ!」

ガーネットとルークは、互いの肩や背を叩きながらいつのまにか抱き合っていた。
ソルディスは深く溜息をつくと、ルークとガーネットを疎ましそうに見る。

「――だろうと思った」

そう言ったソルディスは、お前等は馬鹿だと双眸に蔑みの色を見せた。

唯一訳が分からないのはティナである。
笑いが止まらない二人に、納得したようなソルディス。
さっきまでの険悪な雰囲気は一体何処へやら。

「え?えっと、あの……?」
「あ、ごめんねティナちゃん!」

ガーネットが腹を抱えながら、ご免、と片目を瞑った。

「私女優になれるかもねー!ソルディスに媚び売れるようになったんだから」
「ガーネット、君は可愛いからいつだって女優になれるよ」
「やだルークったら!貴方こそ魔族一の俳優よ!」

ガーネットはルークの頬にキスをする。
思いきり愛し合う二人モード全開である。
ティナはますます訳が分からなくなった。

「え?お二人は、あの……」
「ご免ねー、ティナ。僕達、実は夫婦なんだ」
「――夫婦!?」

ティナはソルディスを見上げた。

「ちなみにソルディスとは、幼馴染ってやつで」
「単なる腐れ縁だ」
「またまたそんな事言って。君の健康は城医の僕が握っているのも同然なんだよ?」

さりげなく怖い事を言う。

「まぁ何て言うか。“滅多に見れない活発なソルディスの姿を見学しようの会”を開催して見たわけだけれども、予想外に良い結果が出てしまったわけで」
「まさかこんなに上手く行くとは思わなかったわよね」

ルークはガーネットの額にキスをしながら立ちあがった。
曲がったスカーフを正しい位置に整え直す。

「君、ここ数百年全然動揺したり慌てたり大声で笑ったりしてないじゃないか。主治医の僕としてはさすがに不安に駆られるわけだよ。親愛なる幼馴染がもし病気だったらどうしようとか、悪い風邪にかかっていたらどうしようとか」
「嘘をつけ」
「あ、分かる?」

二人がやり取りしている間にガーネットはティナに駆け寄ると、そっと首筋を除きこんだ。

「跡残っちゃったわね。ごめんねティナちゃん」
「あ、いえ、別に……」
「私はね跡が残らない様にほっぺにチューが良いって言ったんだけど、ルークがそれじゃあソルディスが怒らないから駄目だって事になって」

どんな夫婦だ。
ティナはまだ事態が良く飲みこめてないが、取り敢えず彼等がソルディスの友人だと言う事に安心して微笑み返した。

「あ、でも、……ルークさんのおかげで男の人を警戒する癖がついたから」
「そう?でもこれってソルディスも悪いわよねー。ティナちゃん放ってのんびりお酒飲んでるんだから」
「そうだよソルディス。予定には無かったシチュエーションだったけどティナが虐められているところを、僕がアドリブで救ったんだよ?」
「――虐め?」

その言葉を聞き逃さなかったソルディスは、訝しげにティナを見下ろした。

「何の事だ」
「いや、虐めって言うよりは世間話というか」
「あー!駄目だよティナ!こういうときは旦那様にガツンと報告しないと!」

ルークは切れた口から流れた血を抑えながら、応援する様に言った。

「じゃ、お二人はしっかり話してから来てね。皆には説明しておくからごゆっくり。僕達二人は美味しい昼食をご馳走になるよ」
「あらルーク、毎日私が作るお昼は美味しくないの?」
「まさか!ガーネットの手料理に比べたらどんなお城の宮廷料理人だって顔負けさ。どんなフルコースだって君の料理の前では粗食に思えるよ」
「嬉しい。私はルーク専用の宮廷料理人ね」
「上手い事言うねガーネット」
「愛してるわルーク」
「僕もだよガーネット」

ルークとガーネットはしっかりと腕を組みながら、ストロベリートークを続けて帰って行った。
呆然と二人を見送るティナとは逆に、ソルディスは話の続きを聞こうとティナの肩を掴む。

静かになった廊下に、二人の声だけが響いた。

「虐めとは何の話だ」
「別に、大した話じゃ」
「言え」

流石、領主様の尋問は凄みがある。
その迫力に押されて、ティナは動きづらい口をもごもごと動かし始めた。

「……人間の匂いがしない、って。ご婦人方に言われて」
「当然だ」
「それで、ソルディスと、……その、色々したんでしょう、って。でも……私、子供だから今はそうでも、その内飽きて捨てられるんだって、城から追い出されて――」
「真に受けたわけか」
「私は全然気にしてないの。ルークさんが止めてくれたし……それに」

ティナは頭からそっとティアラを取って、持て余すように両手で持った。
言えば言うほど自分が惨めになるのは分かっているが、言葉は止まらない。

「子供っていうのは本当だし、……こんな素敵な宝石つけても」

言葉を待たずに、ソルディスはティナの手からティアラを取り上げた。
突然の行動にびっくりしたティナは、ティアラをまじまじと見るソルディスを見上げる。

「成る程――確かに」

肯定するようなソルディスの言葉に、ティナは傷ついた様に顔を歪めた。

「こんな物、お前には」
「……」
「――お前には、不必要だ」

ソルディスは、ティナの肩を掴んでいた手を外し、ルークにつけられた赤い跡を指でなぞる。

「こんな飾りなんか無くても、お前は十分あの場で映える」

予想外のその言葉に、ティナは目をぱちくりさせた。

「もう一発殴るべきだったな……ルークでなければ、殺していた」

ソルディスは指で触れる首筋にゆっくりと唇を寄せると、ルークに与えられた痕跡と感触を消そうとするように、順に白い肌を啄ばんだ。咄嗟に思い出される先程の自分の失態に、ティナは小さく抵抗を示すがソルディスは無視して続ける。

「ソル、ディ、ス、あの」
「不愉快だ。痕を残された」

ルークが悪戯に痕跡を残したその華を打ち消す様に、長く痕跡が残る事になろうとお構いなしに一層きつく吸い上げた。体を震わせながらも抵抗を止めたティナは、甘んじて彼の戒めを受け入れる。

「んっ……」

くすぐったくて、恥ずかしくて、くぐもった声をあげた。
ティナはソルディスの首に手を回して、彼の肩に顔を埋める。
ソルディスはティナの腰に手を回し、強引に抱き寄せた。

ティナにとって、生まれてこの方、口づけをしたり夜伽をした男性は当然ながらソルディスしかいない。それも、まだ出会って九日。経験だって数える程であり――だから、ティナはほんの少しでも、彼に抱きしめられたり、悪戯に耳元で口説かれたりすると、未だ一つ一つに敏感に反応してしまう。

「……ソルディスっ」

強くなってきた愛撫に、ティナは懇願する様な声を出した。

「ソルディス、駄目……、まだ会食、」
「黙ってろ」

ソルディスはティナの頬に手を添え、紅を塗りいつもより鮮やかに映える唇を味わおうと唇を寄せる。
と、ここで本格的にティナのストップがかかった。

「駄目!」
「――ティナ?」
「口紅取れちゃうから、駄目」
「……」
「ソルディスの唇にも移っちゃうから駄目。ね、」

だからお願い、とティナは頼んだ。
ソルディスは気が削がれたように溜息をつくが、仕方ないと諦める。
顔を上げたソルディスに、ほっと胸を撫で下ろすが……

「――続きは夜だな」

そう耳元で囁かれたティナは、気が遠くなりそうになった。







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