10
新しい夜が明けても、ティナの気持ちはずっと夕暮れであるかの様にどこかもの寂しいままで、彼女が時折一人でぼぅっとする事が多くなったのは、領主が居なくなって10日ほど経った時の頃であったとニルはふと思い出した。 小鳥の囀りに瞼を開けて、窓を放ち、冷たい朝の風を咽喉に通すと彼女は麗しい黒髪をかき上げながら今後の事を思い一人顔を顰める。 どうやら、姫君はソルディスを城に引き戻すつもりは無いらしい。 グロチウスからそう聞いたのは昨晩の事で、その頃にはティナは疲れの所為か深い眠りに落ちていたから、彼女に詳しく問いただす事も出来ず、しかしながら、彼女が目を覚ましていたら追求できたかと問われば、首を縦に振る自信はニルに無い。 ティナだって、馬鹿では無い。 自覚しているにせよしていないにせよ彼女は彼女でこの事態を深く考えているだろうし、自分の考えを無理にニルやグロチウスにまで押し通すつもりも無いだろう。ただ、彼女は気付いているのだ。婚姻を結んでから今の今まで、ソルディスと自分の間に存在し続けていた埋まらぬ差異に。 もう駄目だと、絶望しているのではない。諦めと納得。ティナの心理はそれにに等しい。 「……さて、一仕事ね」 ニルは言って、美しい双眸を細めた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 朝が開けても、セトは、ティナにすっかり懐いたままで、当然の成り行きで今日も彼女はこの幼子の遊び相手に徹する羽目になった。彼と過ごす時間は、全く持ってティナにとっては苦痛では無くて、寧ろ、時間があればあるほど余計な事を考えてしまいそうで、セトの存在はティナにとって幸いと言えるものだった。 勿論相変わらず、朝食の時間はネイビスもアリシアもティナ等も一緒である。ティナは朝からネイビスとアリシアの会話を耳にする度胸が痛んだりするのだけれど、それもようやく諦めがついてきたおかげで一々動揺する事も無くなった。それでも辛いには辛いに変わりなく、ティナは、セトとグロチウスに意識を向けることに集中する。ミルクしか飲もうとしない不自然過ぎるグロチウスを叱って、無理矢理一口サイズのパンを食べさせたりするティナは、傍から見れば彼の主人其のものの姿であろう。そんなティナを無碍にする事無く、グロチウスもまた黙って彼女のいう事を聞いて、彼女の言う事に従うことに徹していた。 同情かも知れない。ティナには分からなかった。分からなかったが、何も言わず自分に付き合うグロチウスに感謝した。 セトと森に入るときも、グロチウスは黙ってティナとセトの後をついてくる。 今日もセトの柔かな手に先を促されたまま森の奥へ入っていくが、「アリシアさんに見つかったら、連帯責任だよね」、言いながら笑うティナは、昼間にも関わらず湿って鬱蒼とした木々を見つめ、嗚呼、一人で入れば、まるで魔女にでも惑わされて永劫抜けれぬ死の森のようだと感じ、思った後、不意にこの森が彼らを誘う迷宮の如く思えた。 「――セト、深いわ」 ティナは思わず言った。「これ以上、入ると、危ないわよ」 「だいじょうぶ。おねえちゃんにヒミツの場所、教える」 「秘密の場所?」 「ようせいさんに、会えるの」 ティナは、はっとする。 確かに、森の中には俗に人間世界で妖精と呼ばれる者が居て、彼等は森の奥深く、人気の無い所に現れるのだけれども、彼らも彼らとてその実“魔”の一種であり、人間世界に置いては空想の産物とされ実在しないと認識されている存在―― 「セト、それ、お母さんは知ってるの?」 「知らない。だから、ヒミツ」 ないしょだからね、セトはそう言ってぐんぐんティナを引っ張っていく。 夫を奪った憎き魔と、愛する息子が、森の奥深くで静かに戯れを持っていると知ったら、そうしたら、もしこれが知られたら、一体、アリシアは――そこまで考えティナは、あ、私も魔族の仲間だっけ、そう気付いて顔を顰めた。 (そうだ、私、人間じゃ無かったんだ。) (誰かさんが、無理矢理寿命延ばしたんだったね。嗚呼、うっかり忘れてた。) セトの言う秘密の場所は予想よりも森の奥深い様で、彼の元気な早足が緩んだと思ったのは、ティナとグロチウスの耳に、川の水音が聞えてきたと同時であった。 川が、こんな所に―― ティナは思わず体を強張らせた。この川は、そうだ。きっと、“ネイビス”が、気を失って流れ着いてきた川だ。 「……川…」 「ここの川はきれいなの。あっちの川は、こわいの」 「あっちの川?」 首を傾げるティナに、 「――遠くに、早瀬の音が」 グロチウスが囁いた。 枝分かれをした川の枝枝は、一方で穏やかなる流れを取り、一方で激しい濁流を渦巻いている。だとしたら、ソルディスが無事に浅瀬へ打ち上げられたのは、全く幸運としか言いようが無い。 セトの言うとおり、彼らが辿り着いた所は、穏やかな川に面して少し野が開けた所で、成る程妖精でも魔獣でも何でもかんでも出そうな雰囲気を持っている。それより何よりティナが目を惹かれたのは、 「――月下零!」 黄色めいた花々を凛と鳴らし川辺に咲き乱れる一面の月下零である。 「すごくいっぱい!ねぇ、グロチウス!」 「月下零は元より水気の多い場所に咲く花です」 「わー、きれい、こんなにいっぱい!」 聞いてない。 グロチウスの声を無視して叫びながらティナはセトと一緒に花畑を駆け回る。 嗚呼、子供が二人。どうしようもない子供が二人だ。 グロチウスは顔を引き攣らせながら傍の木の根に腰を下ろし、ふと一息ついて目を細めた。 ――あの日も、景色はこの様だった。 姫君と侍女は遊びまわり、自分と領主は傍らで昼の陽気に隠れるよう休み、木陰の隅で彼女等を見守るだけで、共に千年以上も生きていると、無邪気というものも消えてくるものであろうかと二人ぼうっと佇んでいたのを覚えている。 そして、自分は主を失った。 長年連れ添い、何よりも絶対的な存在であった彼を。 それを、空しさと呼ばず何と呼ぼう。 「わ、お魚も居るのね。ねぇ、セト、この川は浅いかしら」 「うん、こわい川にくらべたら、すごくあさいよ。ネイビスがついたとこは、もっと、あさい」 セトはずっと遠くを指差しながら言った。「でも、妖精さんはここしかいないの」 「今日は、妖精さん、居ないね。お姉ちゃんとお兄ちゃんが居るから、びっくりしてるのかな」 「たまにしか、妖精さんは来ないよ。すっごくはずかしがり屋さんなの」 月下零の中にしゃがむセトは、まるで絵本に出てくるアギタの使い童子の様だった。その姿は、ただ、愛らしい。 「――お花。おねえちゃんのかみの毛の色といっしょ」 セトは月下零を一輪摘むと、彼を屈みこんで見下ろすティナの頭にそっと刺した。 「おねえちゃんと、いっしょだ」 きれいだね。 セトの行為に、ティナは目をぱちくりさせた。 (あ、) 「おねえちゃん、どうしたの」 セトはティナの顔を覗き込んだ。 まるで、誰かに頬を叩かれ目が覚めたかのように、目の前で何かが弾けたかのように、目を丸くして呆気に取られるティナを訝しげに思って、セトは首を傾げる。 「――…に…」 「なぁに?」 「前に、言われた」 それは、嗚呼、幼い遠い日、カステルと共に川辺で戯れた折だろうか。 綺麗だと、可愛らしいと、月下零の中をはしゃぐ幼いティナの頭を撫でながら、確かにその言葉を添えられながら頭に飾られた月下零。 不意に襲う郷愁に、ティナは、胸の奥に痛みを感じながら、自らの頭に添えられた月下零にそっと触れた。 「ね、お姉ちゃんに、この花、似合う?」 「うん。すっごく、きれい」 「――ありがとう」 ティナはセトの額に唇を落とした。 「ね、グロチウス、これ可愛い?」 「まぁ、花は」 「……常々、あなたってソルディスに似てるのね」 頬を膨らませるティナは、セトの手を引きながら、それでも機嫌良さそうに花の上を駆け巡った。 「ねぇ、セト。秘密の場所、どうやって見つけたの」 「ぼくも、ネイビスがほしかったから探しにきたの」 セトの言葉が今一理解できず、ティナは歩みを止めてしゃがみ込み、セトと視線を合わせた。 「ネイビスが?」 「ネイビスは、森の奥から来て、またどっか行っちゃうの。また、何回も森のおくからやってくるの」 ――ああ、それは、新神文書に描かれる“ネイビス”の事である。 風と共に、風の流るる向きのままに従い、風に乗って流離う流浪の民たるネイビスは、ふと森の奥深くから人里まで下りてきて、そうして、また何処かへ消えてしまう。彼等は、風に乗って果実と花弁を運び里までやって来て、種子と枯れ葉を携え森に帰る――つまり、そう、この蒸し暑い、夏めいた季節の擬人だ。 セトは、ネイビスを、本当に彼の伝説たる“ネイビス”であると信じているのだろう。 「ネイビスが来てから、お母さん、いそがしかったの。だから、森のおくに入っても、おこられなかったの」 何せ重症の怪我人である。付きっ切りの世話で、セトの面倒どころでは無かったのだ、しかし、当然ながら幼いセトにはその事情が呑みこめなかったのも無理は無い。 「だからぼくも“ネイビス”ほしかったの」 「セトのお家には、もうネイビスがいるじゃない」 「ネイビスは、お母さんのネイビスだから」 セトは言う。「ぼくも、ぼくのネイビスが欲しかったの」 花を弄りながら言うセトは、彼を見下ろすティナの表情に気付かない。 そうか。今のネイビスは、アリシアさんのネイビスなんだ。 思って、不意に、言葉が口を突いて出る。 「お母さんとネイビスは、喧嘩とか、しない?」 頷くセトの頭を、ティナは優しく撫でた。 「ネイビスは、お母さんやセトの事、怒ったりしない?」 「しないよ」 「じゃあ、ネイビスが、辛そうにしていることは無い?」 「わかんない。でも、ネイビスは、ときどき、笑うよ」 その言葉を聞くと、ティナはふっと溜息をついて、優しく微笑んだ。 そうなんだ。 良かった、ソルディス、安心した。 記憶が無くて寂しくても、生きていく事が辛くは無いんだ―― 「――姫君」 声に振り向けば、いつの間にか、彼女の後方には、グロチウスが立っている。 「私は、貴方の考えに賛同し兼ねます」 「私の考え?」 「ソルディスの記憶が戻る事を、拒んでいる」 しゃがんでいたティナは、立ち上がってグロチウスと向かい合う。 「拒んでいないわ」 「だが、恐れている。ソルディスの、記憶の重さと」 そして、「全てを思い出したソルディスが、貴方を拒む事を」 違う。ティナはそう首を振る。 「記憶を戻す過程で、ソルが死んじゃったらどうするの?」 「その様な脆弱な精神ではない」 「そんなの、分からない。やってみなければ、記憶の重さは」 「貴方が何と言おうと、私に主の不在は耐えられない」 ソルディスの存在を前提として成り立っている彼の立場からすれば、それは当然の想いである。 「――ソルディスは今、幸せなのよ」 ティナはグロチウスに言う。 「なら、城に居た頃の彼は不幸だと」 「違うわ」 「千年以上の歳月は、彼にとって不幸そのものと」 「違う、ニル姉も、ロドメさんも、グロチウスも傍に居て、幸せだったと思う。うん、多分、そう。――でもね、それと同じくらい、いっぱい辛い事があったのよ」 「……」 「私はソルディスの過去を知らない。教えてもらう事もしていない。その一端に触れただけで、あんなに動揺したソルディスを前に見て、もう、聞くのは止め様と思ったの。肖像画だって――知ってる?きっと、あなたも知ってるわよね。怖いくらい、迷いが無くで引き裂かれた肖像画が、それでも、まだ、城の中に飾ってあるの。あれはソルディスの記憶であって、意思であって――多分、まだ、治ってない傷跡」 グロチウスは黙った。 彼は、ティナと違い、ソルディスの全てを知っている。彼の強さも、意思も、全て。それでも、 「ずっと一緒に居ると、その人の弱さとか、辛さとか、少し、忘れちゃう事もあると思うの」 「私が主の事を見失っているとでも言うのですか」 「違う、そんな意味じゃない!」 思わず声を大きく荒げる。 びくっとしたセトが、ティナの衣服の裾をきゅっと掴んで、何か言いかけたその時、 「――騒々しい」 第三者の声に、口を開きかけたティナとグロチウスは同時に黙った。 ティナは振り返る。 彼らが歩き進めて来た先程の道に沿い、男もまた誘われて来たのだろうか―― ネイビスたる男は、静かに其処に立っていた。 セトは、ネイビスの名を小さく呼ぶが、彼の視線はティナとグロチウスを捕らえるだけ。 「子供の前での口論は、感心出来ないな」 「違……」 「違わない」 不機嫌。 ネイビスとしての彼に会ってから、未だこんな表情を見た事が無かったティナは、不思議な懐かしさと、不安とを同時に覚えた。それと共に湧き上がるのは、遣る瀬無い怒りの感情。 「口論じゃありませんっ」 無意識の内、敬語になってるティナは自分の感情の高ぶりを抑えられない。 「口論じゃ無ければ何なんだ」 「話し合いです!」 「話し合いで、普通怒鳴るか?」 ネイビスは呆れたように言う。 (子供の癖に、) 勝手に、そう思われている気がしてティナはもう自分を冷静に押さえつける事が出来ない。 此方に歩み寄るネイビスから、わざと顔をふいと逸らして言葉を捨てる。 「私とグロチウスの話し合いです。別に、気にしないで下さい」 「気にして無い」 しれっと言いやる。「俺は、セトの前で口論をするなと言ったんだ」 ――ああ言えばこう言うし、こう言えばああ言う! ちょっと落ち着けとグロチウスが顔を顰めているのにも気付かずティナは続ける。 「だったら!貴方が四六時中セトの面倒を見ていたらどうなんですか」 「仕事がある」 「セトも連れて行けば良いじゃないですか」 「物は考えてから言え。俺は普段森に入る、危険な所へセトを入れる気にはならない」 ティナはカチンと来てネイビスに食って掛かって捲し立てた。 「目を離してる隙に勝手に森に入っちゃってるんですよセトは!貴方が来てから益々アリシアさん忙しくなってセトは寂しがっちゃってその所為でどんどん森の奥まで入っちゃったりして危ないし!魔獣とか獣とかいっぱいいるかも知れない所に一人でセトが入らないようにしっかり貴方が監視するべきなんじゃないですか!私だって、あなたが思ってるよりちゃんと考えてしゃべってるし、馬鹿じゃないし、もう子供じゃないんだから!」 動悸、息切れ、軽い眩暈。 弾丸トーク的反抗に流石のネイビスも口を噤み、顔を紅潮させて涙目でキッと見上げるティナを見下ろした。 「もう、私帰ります。グロっち、帰ろう!」 「姫ぎ……ティナ、様、」 セトの頭をそっと撫でると、ティナはグロチウスの服をぎゅっと掴んでずかずかとネイビスの横を通り過ぎて去っていく。 (変わってない、変わってない、変わってない!) 記憶が無くたって何だって過去の確執がなくなったからって何だって、ソルディスはソルディスのあの性格のままじゃない! ティナは頬を膨らませたままずんずん歩き進め、ネイビスとセトの姿が見えなくなった辺りで、ようやく立ち止まり、息を切らしながら叫んだ。 「ソルなんて、グロチウスの足に蹴られちゃえ!」 「姫君、それは」 「蹴られちゃえ!」 「……」 忠実な黒馬、閉口。 |