13
――まだ、何も解決はしていない。 何一つ問題は解決してなくて、ただ、ただ、自分の気持ちだけ知って、分かって、それで納得して、何だかどこかほっとして、溜まってた疲れが少しだけ逃げていった気がした。 気が軽くなったのなんて、本当に、気のせいだったのかも知れない。 けれど、隣にある彼の温かさは本物で、自分の頬を撫ぜる優しい手がそこに在るのも確かな事実。 顔も声も全てがソルディスと一緒で、でも、クロムセリアは彼の代わりなんかじゃない。そうではなく、身代わりとかじゃなくて、変だけれど、ティナは、彼がまるで自分の映身のような気がして、何だかそれを可笑しく思った。 ただネイビスの背中を見て静かに頷くティナの頭をそっと撫で、何も言わずに、クロムセリアは彼女の隣に立って笑う。 そうして、二人、真っ暗な部屋で、手を握って――それから、ティナは、あまりよく覚えていない。 夜がただ暑くて、部屋は暗くて、何も見えないけれど逆にそれが心地よくて、ティナは、その晩、久しぶりに穏やかな眠りに入った。 朦朧とする暑さのなか、しっかりとしているのは、触れ合う彼の手の大きさだけ。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「……」 「……」 「……えーっと……」 寝癖のついた髪を手櫛で整えて、ちょっと目脂がついた目尻を指で擦って、乱れた寝巻きを整えて、姫君は惚けた声を出してベッドの上にちょこんと座って朝を迎えた。 隣には、何も言わず、苦笑めいた顔でベッドに腰を下ろす領主の弟君たるクロムセリア。 面前には、何か物言いたげに顔を顰めつつも何も言えず、ちらりと横を見るグロチウス、目を遣られた先には、腕を組んで、ふっと溜息漏らすニルお姉様。 ティナは戸口に立つ彼等二人を見て、どうしようもなく、取りあえず頭を下げて、 「……お、はよう」 「もう昼です」 呆れて呟くグロチウス。 「ご……ごめんなさい」 「良いのよ、ティナが疲れていると思ってそっとしといたのは私達なんだから」 ニルは笑って、 「でも、貴方が一緒に寝てるとは思わなかったわ」 「別に何もしていない」クロムセリアはそう返す。「唯、可愛い姫さんの手握って抱きしめて一緒に寝ただけだ」 ティナはギョッとしてクロムを見る。 「ち、違」 「違くは無いだろう」 「違わないけれど、でも言い方が、」 戸惑うティナが二人を見れば、案の定グロチウスは困ったように顔を顰めて、ニルは何かしら諦めたように肩を竦めて苦笑している。 「あなた、今が今だからこれで良いけれど、“ソルディス”が知ったら大変よ」 「別に見られていない」 「そりゃそうだけど、危機感を言うものをちゃんと持った方が身の為って言ってるの」 お姉様は心配性である。 「本当、貴方の寿命がいつまで続くか私はいつもいつもハラハラして」 「――これを」 「ちょっと黙ってて。いい、クロムセリア。私が気にしてるのは、貴方とティナが一晩同じベッドで過ごしたことじゃなくて、そういう事をあっさりやってのける貴方のそういう」 「これを」 「ああもう何よ、私は今この危なっかしい弟の貞操観念を一から叩きなおそうと――」 振り向いたニルは、一瞬動きを止めた。 ニルの目の前に差し出されているのは、ティナの為に持ってこられたと思う顔拭用の濡れた布巾で、それを差し出す手を辿れば、そこには紛れも無く、廊下に立つネイビスの姿。 あら、どうも有難う。 にっこり微笑んだニルはネイビスから布巾を受け取り、そうおっとり受け流す。 絶対ばっちり今の台詞は聞かれた筈で、ティナは心臓をバクバクとさせて、グロチウスも姫君の心情を察して苦い顔をしているのに、当の兄弟お二人は何処吹く風でクロムセリアにいたっては足を組んで傍からネイビスの見物に耽る始末。 クロムとは何もしてないんですと言ってみたいとは思うものの、そんな事をわざわざ告げる間柄でも無いし、第一、疚しい事はしていないとは言え二人そろって同じベッドで一晩明かしたことは紛れも無い事実である。 そうこうティナが考え込んで慌てふためいている内に、ネイビスはベッドに座り込んだティナとクロムセリアを一瞥すると、何も言わずに廊下をまた去っていった。 (ぜ、絶対誤解されてる…っ) 「……何か、もう、ダメかも…」 「何がどう駄目なんだ?」 布団に突っ伏すティナの耳元、弟君はからかう様に囁いた。 ネイビス、 ネイビス、 そう明るい声で言って、走り回って、上を見上げるセトは、クロムセリアの目が覚めてからというもの、すっかり彼の足元を離れようとはしなかった。 アリシアやネイビスと顔を合わせづらいティナは、朝食ばかりか昼食もろくに取らず、体も少しだるくて、自室に引きこもっている。心配だからという名目でクロムセリアはティナの部屋にそのまま居座り、彼の来訪が嬉しくて嬉しくて仕方のないセトは、ティナの部屋にひょっこりやってきてクロムセリアの足元をうろちょろ歩く。 僕のネイビスが、森の奥からやってきた。 僕にもおかあさんにも、ネイビスがやってきたんだ。 はしゃぐセトは、クロムセリアの服の裾をちょっと掴んで、「僕のネイビスは、どこから来たの?」首を傾げた。 「そうだな――森の、ずっと奥深くから」 「奥ってどこ?ね、川のそば?もっと奥?」 「セトが遊ぶ、怖くない川よりもっと奥の方からよ」 ティナはセトにそう言って微笑んだ。彼の柔らかな髪をさらっと撫でて、「“セトのネイビス”は、森のすごく奥から来たの。怖い、流れが強い川の方からやってきたのよ」 そっか、だから、ずっと会えなかったんだね。 セトは納得したように頷くと、クロムセリアに抱きついて、クロムはひょいと軽々彼を抱き上げた。 「セト、か」 「うん。そうだよ」 「――いい名前だな」 そっと笑うクロムセリアは、ネイビスたるソルディスにそっくりだ。 もう、ソルディスがクロムに似てるんだか、クロムがソルディスに似てるんだか、ワケが分かんない。 ティナがそう言って笑うと、セトは意味が分からず首を傾げて、ぎゅっとクロムセリアの服を掴んだまま放そうとしなかった。 「ね、森のおくには、もっとネイビスがいるの?」 「人が入れないようなずっと奥深くには、妖精が沢山居る」 「ほんとう?あのね、僕ね、ようせいさんと友達なんだ。こんどまた会いにいくんだ」 体が不調のティナが横になるベッドに腰掛けたクロムセリアは、膝の上にセトを抱きかかえてふっと笑った。「そうだな。いつか、皆で遊べるといいな」 微笑ましい二人の会話に、ティナは体のだるさも紛れ、ゆったりとした午後を感じた。 昨日と同じくまだ季節は暑いけれども、風の通りが気持ち良かった。 蝉が泣く音が聞える。 小さい頃、蝉の羽音が不思議で不思議で、間近でそれを見たくてカステルに捕まえてもらったのに、気持ちが悪いってびっくりして逃がしてしまった思い出があった、ティナは不意にそんな事を思い出す。 「この季節は――不思議ね」 暑さでだるくて滅入るはずなのに、どこか感傷的になる。 ティナはナイトテーブルに置かれたグラスを手に取り、その水の冷たさを心地よく思った。 夜が来て、涼しくなって、クロムセリアもニルもグロチウスも夕食を食べに階下へ下りていったため、ティナは一人薄暗い部屋でベッドに横になっていた。レィセリオスに居た頃、数年に一度猛暑が来て、城の皆が夏痩せしてた事を思い出し、自分も今それに近しい症状なのかもしれないと考えた(決してこれは、衰弱では無いと、)。 それでも、ずっと一日中横になっていれば、体のだるさにも拍車がかかるというもので、どうにも気を紛らわしたくなってティナはこっそりベッドを抜け出し、水を一口飲むと足音静かに廊下に出た。 軋む階段をそっと下りて、明かりがついた(クロムも混じっている為、恐らく奇妙な雰囲気になっているであろう)食卓部屋の傍をこっそり通り抜けて、ティナは、誰にも気付かれぬよう外に出る。 外も外でやはり暑くて、それでも吹きこむ風はとても心地よくて、ティナはほっと溜息をついた。 芝生を踏みしめ、庭に進んで、モロゾナの繁華な都市が見下ろせる所まできて、ティナの肩の力は抜ける。 こんなところに魔族が居ると知ったら、モロゾナの市民はどう思うだろう。 こんなところに魔族の領主が居ると知ったら、フィルは、ああ、一体どんな顔をするだろう。 (その前に、私達、まだアリシアさんとセトの事、騙してるのよね、) それを考えると、どうにも申し訳が無くて、彼等の父親の事を考えたら、アリシアとセトが全てを知ったらどんな顔をするだろうと考えたら、察すれば察するほど心苦しさは増すばかり。 ティナは何かを振り払うように咄嗟に顔を両手で覆い、そして、暫し瞼の奥の暗闇に耽る。 そして、そっと目を開けた。熱帯夜にぽつりと浮かぶ、銀の、半月。 (――月を、友に) 不意に、前に、クロムセリアに言われた言葉が頭を過ぎった。 (月を友とし、空を望み、その望まれぬ身を、) そうだ。私は、昔から、月だけが傍に居た。 (冷たい壁を、背に――) そうだ。私は、嗚呼、何故だろう、あの、石牢の冷たい感覚を知っている。 覚えていない、覚えていないけれど、頭のどこかでは知っている。多分、まだ、本当は覚えているのかもしれない。 王女であり、姫であった自分。規律に基づき、生き残りの王族として、女王である地位についてからの二年間。 それまで、自分が何をしていたか、何を感じて何を思って何を目指して生きてきたか、ティナは、それらを漠然としか思い起こす事が出来なかった。 ただ、一つだけ覚えている。 それは遠い昔、誰かの手を掴み損ねた事。 傍にいて欲しかった誰かに置いていかれ、孤独という払拭しがたい恐怖を、抉るように体に刻み付けられたこと。 一人だ。 父上も母上も、兄様も、もう居ない。 どうして、わたしには“かぞく”がいないの、 そうカステルに問うた時、彼が、驚くように自分を見て――呟いた。覚えていらっしゃらないのですか、と。 本当に、何もかもが分からなくて、本当に、何もかもを覚えていなくて、静かに頷く幼い自分に、暫く考え込んだ彼は、言い聞かせるように……父上様も、母上様も、兄上様までもが、病に伏してしまったのですと、そう言った。 父上の顔も、母上の顔も、兄様の顔も、一応覚えてはいるのに、確かに彼等が生きていた事は知っているのに、その喪失の瞬間を覚えていないことを、幼い自分は不思議にも思わなかった。 自分の記憶がはっきりしている時間といったら、それは、女王に就任してからの2年間の事が殆どで、15年以上もの間、自分が何をしていたのか、何を考えていたのか、はっきりとそれを示す記憶は殆ど無い。 ただ、置いていかれたのだ。 望んだ柔らかな手は、簡単に振り払われて。 そうして、また、私は、一人になるのだろうか。 今度は自分から、大きなその手を掴むことを拒否して、遠ざけて、また、一人になるのだろうか。 ティナはすぅっと息を吸うと、疎らに咲く花々に囲まれながら、木々のざわめきに混じって咽喉を奏でた。 あの長い野道を、走り抜けた 今すぐ貴方に会いたくて 星の囁く下で、二人、いつまでも其処に居て 冷たくなった掌を、まだ握り締めながら ……謡い終わって、ティナは、目を閉じる。 風に身を委ねて、息を吐いて、街の繁華の灯りの眩しさに安堵を感じ、魔族が住まう森の暗闇に恐れを抱いて、 「良い歌だ」 突然の声に、ティナは、それでも驚かずに、静かに振り返った。 「……ネイビス?」 「あの男と、見分けがつくのか?」 食事は終えたのか、其処に、苦笑するネイビスが立っていて、彼と二人で居ることを、ティナは不思議に思った。だって、昨日まであんなに喧嘩していたのに。そういう視線を投げかけると、ネイビスは、「根に持っているのは、そっちの方だ」言ってまた苦笑した。 「親族だとは、思わなかった」 「……アリシアさんは、気付いてたって言ってました」 「俺と、彼女が、似ているとは思えないが」 ニルを、彼女なんて呼ぶの、変なの、とティナは思った。 兄弟なのに他人行儀の彼等の態度に今だ慣れる事は無い。 「聞きたい事がある」 「何ですか」 「俺の、本当の名前を」 ティナは息をのんだ。 それは、何度も、何度も、彼に向かって叫びたかった名前で、それでも、どうしても呼ぶ事が出来なかった彼の名前。 「それは……ニル姉から、聞けば、すぐに」 「彼女も、それから、クロムセリアという男も、君から聞けと言ってきかない」 あんた達は訳が解らない一行だと肩を竦める彼に、ティナは、首を振った。 「なら……私も、教えません」 そう、まだ言えない。今は、まだ。 「何故」 「貴方には、まだ“ネイビス”のままでいて欲しいから」 「――君達は俺を連れ戻しに来たんじゃ無かったのか?」 何のためにここに来たんだと言いたげなネイビスに、ティナは苦笑した。 何の為に?そんな事、そうだ、ちゃんと考えた事はなかった。 「従兄弟として、……貴方の兄弟と共に、貴方の、無事を、確認しに」 それに、 ティナは続ける。 「それに、貴方は、きっと、帰れと言われて帰る人じゃ無い。例え記憶が無くたって、自分で帰ろうと思えば私達と一緒に帰るし、ここに居たいと思えば、きっと、一人ここに、アリシアさんと一緒に残る」 貴方は、いつだって、自分の意思に固い強さを持っていたから。 「――確かに、そうだな」 そうネイビスは呟く。 ティナは街を見下ろした。 不意に、街の灯りが、小指の輪に反射して、暗闇でも淀みないその銀の眩さに、ティナは目を細める。 ネイビスは、暫く黙った後、ティナの横まで来て、ふと、その指にはめられる輪に視線を落とし言った。「それは、許婚から?」 「そう、……許婚から」 「“ソルディス”から、か」 「ええ……そうです」 ティナは、自分の手を固く握った。「――彼は、もう、居ないけれど」 言葉に、ネイビスは、ティナの顔を見て、 「そうか」 「死に、ました」 「……そうか」 「――私、は、怖かった」 急な、独白に、ネイビスは言葉を止める。ティナは、目を街にやりながら、続けて、 「彼は、笑わない人でした。だから私は、彼の事、凄く怖かった。一緒に暮らしても、初めは、結婚なんていう事実が考えられなくて考えたくなくて、でも、私には、それはどうしようもなかった」 一日が、一分一秒が、全てが長かった。 打ち解けようにもそんなの無理で――その、数ヶ月前の事が、遠い昔の思い出のよう。 「ソルディスは、意地悪で、自分勝手で、私のことなんて全然大切にしてくれなくて、本当は、私は、すぐにでも彼の傍から逃げ出したくて」 「……」 「でも、本当は、違う。違かった。違かったんです。本当は、彼は、ちゃんと、色んな事考えてて、いっぱい辛い事も背負ってて、それで、笑う事が出来なくて、私にはその辛さを無くしてあげる事が出来なかっただけ」 ティナは、ネイビスの顔を見なかった。 見たら、その名を呼んで、縋りついてしまいそうで、怖くて、そんな事は絶対に出来なかった。 「すごく、優しい人だったんだと思う。本当は、優しい人で――……でも、私がそれに気付く前に、彼は、」 あの日彼は姿を消した。 再び会ったソルディスは、ソルディスだけれどソルディスじゃなくて、それでも幸せそうに暮らしていたのが、本当は辛かった。 ソルディスが幸せなら良い、 ソルディスが笑っているならそれで良い、 そう自分に言い聞かせて、抑えて、笑っていたけれども、本当は辛かった。 だって、彼の笑顔は、自分に向けられた笑顔ではなかったから。 自分の事を忘れて、全てを忘れているのに、それでも幸せそうだったから。 「私は、全部、気付くのが遅くて、」 ティナは込み上げてくる熱い物を押さえ込んで、言った。 「本当はずっと傍に居たかった。冷たくたって素っ気無くたって、指輪が一方的な物だって、それでも良かった。笑ってくれなくたって良い。頭を撫でてくれなくたって、褒めてくれなくたって、――何も、して欲しいなんて強請らない。ただ、傍に居て欲しい。私は、彼を、失ってから、――それに、気付きました」 彼を思って、何度も泣きそうになるのは、そう、何より私が彼を望み続けている証拠。 「……私――」 小指の輪を、しっかり握る。 「――私、彼の事が、好きでした」 その言葉は、もう届かないけれど。 |