14



行かないで。

その一言が言えたら、どれだけ楽になるだろう。

お願い、置いて行かないで。

でもその一言は、決して咽喉を飛び越え発せられることは無い。
(だから、馬鹿だと言うんだ)、クロムセリアに詰られそうだとティナは思った。

私は、ソルディスが、好き。

それは、無くして、無くした今更になって自覚する。

そのソルディスは自分の事を忘れていて、その彼の隣には、一人、女性が立っている。
彼女は、彼にとってとても大事な人で、一度だって見た事が無かったソルディスの笑顔を、簡単に引き出した人。彼女は、すごい。
ネイビスとアリシアの二人の関係を、もう、今更どうこうする気は無い。出来ない。今、彼からこの環境を剥し取る事なんて出来っこない。

だから、そっとしておく。
(ティナは怖かっただけだ)――クロムセリアの言葉は、的を得ているかもしれない。確かに、ソルディスが、誰かに向かって笑いかけているのが辛かった。ソルディスが、彼女と、アリシア・セレステと蟠りも無く打ち解けている姿は、目にするたびに辛かった。正直に言えば、嫉妬したのだと思う。

(でも、それだけじゃなかったの)
ティナは思う。

恐怖もあった。
けれども、やっぱりそれだけじゃない。
結局、ソルディスには、笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。
人の温かさに寄り添って、自然の豊かさに触れ続けて、最後の最後には、彼には、彼が望む所で生きていて欲しいのだ。

だって、私は、ソルディスが好きだから。

嗚呼――もう、何度だって、はっきりと言える。
私は、ソルディス・ジェノファリスに。彼に、恋をしているのだと。












告白を終え部屋に戻ったティナを迎えたのは、ソルディスではない。クロムセリアだ。
「こんな遅くまで外に出るな」言葉とは裏腹に、その口調と表情は優しい。
でも、きっと、ずっと、そこの窓から見守ってくれていたでしょう、
そう言えば、そうだ、俺の大事な姫様だから、そう言ってクロムセリアはティナの頬を撫ぜた。
(――私は、どうして、この人に手を伸ばさないのだろう)
きっと彼に縋りつけば、これ以上に無く、穏やかで、優しさと愛情に満ちた一生を送れる筈なのに。自分は今まで、そんな人生を望んでいた筈なのに。

疲れた体でそっとベッドに沈み込み、ふっと目を閉ざす。その暗闇に浮かぶのは、懐かしきソルディスの姿。ネイビスではない、ソルディスの姿だ。

(ねぇ)
(ソルディス、ねぇ。どうしたい?)

何度も問いかけた。
(貴方は、今、どこに居たいの――)
きっと、彼の中で、その答えは既に出ているだろうけれど。

「ねぇ、クロムセリア」

燭台の火を消し部屋を出て行こうとするクロムセリアの背中に、ティナは呟いた。

「クロムセリア」
「何だ」
「私、ソルディスが好き」
「――そうか」

暗闇の中で、笑った気がする。

「私は、ソルディスが、好きなの」
「ああ」
「だから、――私は、きっと“ネイビス”を置いていく」

彼は、まだ、ネイビスであり続けることを望んでいる。
その身で彼女の傍に居る事を望んでいる。

最早クロムセリアの方を見ず、真っ暗な天井を見つめる姫君に、彼は何も追求する事はなく、ただ、おやすみとだけ呟いて扉を閉めた。

蒸し暑い夜が、静かに過ぎていく。




















朝、いつもの様に咽喉の渇きと鳥の鳴き声で目を覚ましたティナは、なにやら廊下から聞える大きめの声に、ぼんやりした脳を無理に覚醒させる事になった。
片手に水差し、片手にコップを持って、咽喉を潤しながら廊下を覗けば、既に着替えを終えたニルと、グロチウスと、それからアリシアと――そしてネイビスが、ただ事らしからぬ表情でそこに立っている。

「あの、お早うございます」
「――ティナ、」

振り向いたニルが、手招きをする。

「あの一体何が……」
「貴方、セトを見なかった?」
「セト?昨日の夜、見かけたきりだけれど」

セトが一体どうしたの、ティナがそうアリシアを見上げれば、

「今朝から、姿が見当たらないの」

正にそれは泣き出しそうな震えた声。

「部屋には?居ないんですか?」
「セトとは一緒に寝ているけれど、昨晩まではちゃんと居たの。でも、朝に目を覚ました時はもう……」
「庭は?」
「探したけど、庭にも、そこの丘にも居ないの」

アリシアは、ネイビスの袖をきゅっと握り締める。

「探そうにも、検討がつかなくて」
「セトが、こんな時間に一人で遊ぶところって言っても……」

ティナは俯いて呟き考え込んだ。

あの子は、いい子だ。意味も無くアリシアが困るような事をする子じゃない。ただ、好奇心だけは旺盛で、一人歩きしてしまう感が無きにしも非ずと言った所だけど――

「どうした?」

ネイビスみたいな声に全員が目をやると、ティナと同じく寝巻きのままで廊下に出てきたクロムセリア。
事情を説明しようとニルが口を開きかけた、そのとき、

「あー!」

ティナは叫ぶ。

「……俺の顔を見て叫ぶな……」
「解った!セトが何処に、何をしに出かけたか!」

ティナはクロムセリアに駆け寄って、襟を掴んで尚も叫ぶ。

「“ネイビス”の所よ!」
「……は?」
「セトは、クロムセリアが、森の奥から――奥深くの早瀬の方から来たって信じてた。そこには、ネイビスがいっぱいいて、妖精もいっぱい住んでるって信じてた。だから、きっと、セトは、どうしてもそれに会いたくて……誰も起きてない朝に、誰にも気付かれない朝早くに家を出て森の奥に向かったのよっ」

じゃあ、セトは今森の奥に……?
さぁっと顔を青ざめさせたアリシアは、フラリとよろける。
セトが、あんなに小さい子が、一人、森の奥深くにある早瀬まで――!
彼女の脳裏に浮かぶのは、恐らく夫を失った時の恐怖。

居てもたっても居られないアリシアに、ニルは、「とにかく、皆で探しましょう」そう言って、彼女の肩にしっかりと手を置いた。

アリシアの手は、拠り所を求めるように。ネイビスの袖を震える指先で握り締める。
















「ね、グロっち、正確な場所覚えてる?」

ティナは、草を掻き分け掻き分け進んでいく前方の彼に声を掛けた。

六人まとまってもしょうがないから、分かれて探そう、
そう提案したニルに従いティナはグロチウスと共に森に入った。
無闇にアヴァスを使うわけにもいかないしな、呟くクロムセリアはそう言いながらティナの髪に一度触れて、ニルと二人、森の中へ消えていった(きっと、彼のあれは慰めだ。アリシアとネイビスの姿を見つめ続けるティナに対しての、)。

「正確な場所ですか」
「そう。セトが指差してた場所、“こわい川”の方」
「あまり記憶にありません。が、早瀬の音を頼りに向かえば辿り着くでしょう」
「ね、いっそ馬になって走っちゃおう」
「“走っちゃおう”ではありません。万が一アリシア・セレステや主に見られたらどう弁解するつもりですか」

いつも彼女は一歩考えが浅い。

「でも、グロっちは不便でしょ。普段馬なのに、人の姿なんて」
「勝手が悪い事もありますが、慣れています」

話しているうち、グロチウスが掻き分けた草の向こうに、少しだけ道が見えてくる。

「セト、ここら辺に居るのかしら」
「川の水音が近い。もっと進めば、他の者と合流出来るかも知れません」

三手に分かれたけれど、結局目指しているのは早瀬の傍だ。
グロチウスは、草むらの進み分けに苦労しているティナに手をさし伸ばしながら、「――足は、だるくありませんか」不安げに聞く。

「私は大丈夫よ。気、使ってくれて、ありがとうね」
「貴方に無理をさせると、主に叱られる」

大丈夫よ。だって、彼、今は記憶なんて無いんだから。
笑って手を取るティナの細い手首を、グロチウスは、無言のままにしっかりと掴んだ。









「――あら、」

そうして暫く進んで、ティナとグロチウスは、離れた所にアリシアとネイビスの姿を認めた。

「アリシアさんっ」

声を出して手を振るティナは、そのまま彼女等の元へ駆け寄っていく。
不安そうに、ネイビスの手を掴んで、目を泳がせているアリシアは、俯いたまま首を振って、

「居ないの。探しても探しても、どこにも、居ない」
「大丈夫、まだ、探してない所はいっぱいあるし、私もグロっちも、一日かけたって探し出すから」

ティナは、アリシアを励ましながらあたりを見渡した。

「――早瀬が――」

木々の向こうに見えるのは、紛れも無く、早瀬。セトの言う“こわい川”だ。
駆け寄ろうとしたティナの手を、慌ててグロチウスが掴み制す。

「余り向こうに行かないで下さい。貴方が、危ない」
「その前に、セトが一番危ないのよ」

ティナはグロチウスの手を振り切れないと知っているから、敢えて彼の服をぐいぐい掴んだまま引き摺って川へ向かった。
川――と呼ぶのは、可愛過ぎる。
それはまるで濁流。
ティナが覗き込むのは切り立った崖の上で、覗き込めば、ずぅっと下には、ごうっと渦巻く激しい川が流れている。
なるほど、確かにこれは怖い。ティナは息を飲みながら、グロチウスの服をぎゅっと握った。

(セトが、もし、ここに落ちてたら――)

思って、頭を振る。そんな馬鹿な考え、するもんじゃあない。

ティナはあたりを見渡した。
確かにここら辺一帯は、人が入った気配も無くて、うん、魔獣や妖精が出たって全く不思議は無い。
(変な獣とかにセトが遭遇してなきゃいいけど)、ティナが思っていると、

「――ティナ様。声が……」

濁流の激しい音に混じって、声が聞えるという。聞きなれた、声が。(ああ、そうだ。魔族は、人間のそれより遥かに聴覚が優れているのだ、)
ネイビスと、寄り添うアリシアを手招きしつつ、川に、崖に沿って木々を割って進めば、川にそった木々の中に、見慣れた、小さな姿が一つ、

「あ……、」

ティナは、誰より早く、その姿を確認した。

「セト!」

それは鬱蒼とした森の中、高い所の枝に、蹲るように座り込んで幹にしがみ付いたセトの姿。
良かった、ちゃんと、無事だった――
ティナは根元に駆け寄って、セトに叫んだ。

「セト!セト、無事なの!」
「おねえちゃんっ」

セトは、ホッとした表情で、枝上からティナを見下ろす。
彼は、可愛らしい水色の寝巻きのままで、見たところ外傷も、衰弱した様子も無くて、ティナは安心して微笑んだ。

「あのね、僕――ようせいさん、さがして」
「妖精さんに会いたくて、ここに来たのね」
「あえたんだ。あえたんだよ、ようせいさんに。でも、たかいとこに逃げちゃって――手、とどかなくて、」
「それで、そんな高いトコまで登ったの」

苦笑するティナの後ろから、追いかけてきたアリシアもまた根元に駆け寄る。

「セト!」
「お母さん、」
「セト、ああ、良かった、無事で――」

アリシアの姿に、思わずセトは身を乗り出す――
と、同時に。彼がしっかり掴んでいた枝がぐにゃりと折れ曲がって、セトは大きくバランスを崩した。

「セト!」

アリシアが目を見開いて叫ぶ。
ティナは慌てて、

「ぎゃ!と、殿方!キャッチー!」

どん、と。ネイビスとグロチウスの背中を押して、無理に彼等の体を押し出す。

「――っ、」
「!、――ちょ、姫ぎ」
「ほら落ちてきた!」
「「――っ!」」

文句を言う暇も無く、グロチウスとネイビスは、慌てて手をさし伸ばした。
アリシアが両手を握り締め見つめる中、二人は、小柄で、ころんと木の上から転げ落ちてきたセトを、彼を傷つけぬよう抱きとめる。

「――……わ…」

目を回してぼうっとしたセトは、二人の腕の中でぱちくり瞬きを繰り返す。
二人の手から、セトを受け取り、ぎゅうっと抱きしめながら、アリシアは、安心の所為か、その場に崩れ落ちて、良かった、良かった、セト――
そう何度も繰り返しては、涙を流すよう俯いた。
一方セトは、自分がなにやら騒ぎを起した事にも気付かず、きょとんとして、抱きしめて半泣きのアリシアを不思議そうに見つめるばかりで、全く状況を掴めていない。

そんな親子の姿を見ると、ティナもまたほっとしながら木の幹によりかかって、溜息をつきながら、

「……良かったぁ」
「「“良かった”じゃ無い」」

鋭い剣幕二つに刺される。

「貴方は、いつだって突拍子が無い」
「全くの考え無しだ。後先を考えて行動しろ」
「でも、私やアリシアさんじゃきっと無理だし」
「「そういう問題じゃない」」

またも重なる声と声。
飼い馬も主人も思考回路は全く同じ、それがティナは面白くて面白くて、でも今笑ったら絶対怒られるっていうか殺されると、必死にそれをどうにか堪えた。
ごめんごめんと謝りながら二人を見るが、やはり彼等は厳しい表情でティナを見つめる。

ああ、本当にごめんなさい。

ティナは目を瞑って頭を下げるが――

それでも、二人は厳しい顔で、というか緊迫した表情で、ティナは参って顔を曇らせた。

「あの、本当に反省してるから、そんなに怒った顔は」
「……静かに」
「え?」
「――歪が――」

“歪み”……?
グロチウスの声と共にティナは振り返る。

「危ない!」

どん、とグロチウスに押し倒されたティナの鼻先を、何かが掠めた。

それが、――嗚呼、忘れもしない――あの奇怪な異形の異界の生物のモノで、それがそうだと認識できたのは、ティナが体を起して前髪を払いのけた時だった。

切れる息、速まる鼓動。
ティナの目には、幹の傍に、ぱっくり割れた空間と、その向こうの混沌としたマァブル、そして、脅えるアリシアとセトの姿が映る。

「グロ、チ、ウス」
「下がって――」

ティナを後ろにやり、剣を抜くグロチウスは、同時に、アリシアやネイビスにも危害が及ばぬよう立ちはだかった。
亀裂からは、マァブルの奥、奇怪にうごめく触手が顔を出し、咄嗟にアリシアの短い悲鳴が辺りに響く。

「アレを刺激せぬよう、――静かに、逃げてください」
「でも、グロチウスが!」
「私は、貴方を二度も悲しませたく無い」

グロチウスの背に、ティナはそれ以上何も言えなかった。

そっと、彼の姿を見つめたまま――
ティナは、手の振りで、アリシアとネイビスを後ろへ下がらせた。
最も混乱しているのはアリシアと彼女の腕に抱かれたセトであり、彼等親子が巻き込まれることだけは、それだけは、絶対にあってはならない、ティナはそう思って、セトとアリシアを最も安全な方へ誘導する。

グロチウスと歪を見やれば、マァブルの中で耳障りな声をあげる異界の何かが、今まさにその狭間から此方の世界へ体を入り込ませようと激しく蠢き――ティナが、その黒馬の名を呼ぼうとした刹那、歪は、見た事も無い様、激しく大きく亀裂を為した。

吐き出されるよう飛び出したのは、どろりぐにゃりとした土留色の触手。
グロチウスは脇目も振らず、それらを斬る。斬る。斬って、退く。

「逃げろ!」

グロチウスの叫びにびくりと肩を震わせるセトは母の名を呼んでアリシアにしがみ付き、彼女は言葉に従い震える足でゆらりと後ろへ少し退く。
だが、ネイビスは、その場を蹴り出さずに、ただ歪を見やる、幼き姫君の手を強く引いた。

「君も逃げるんだ」
「待って、まだ、グロチウスが、」
「君は武器を持っていない。アレが来たら、君が死ぬぞ」

だからと言って、グロチウス一人残す事が、果たして正しいと言えるのか――
(いや、違う。)、ティナは気付く。きっと、ネイビスは、自分とアリシアとセトを逃がして、グロチウスと共に残るつもりだ。言わなくたって解る。それは、何を告げずとも、彼の瞳を見れば解る。
でも、それは――それこそ、そんな事出来っこない。
もう、目を逸らした間に誰かを失うような事は、そんなの、嫌だ。

「ネイビス、私は、」
「――危ない!」

後方から聞えたグロチウスの声に。
それに振り向く暇は、ティナに無かった。

それは、空気を切り裂く音で解る。ああ、異形が、此方へ襲い掛かったのだと。

ティナは咄嗟に腕を突っ撥ねた。

ネイビスを。どん、と、後ろへ押しやって。

横から、激しい音が聞えた。空を切り裂き、木々をなぎ倒す激しい音。
一瞬だっただろうか、それとも、数分の事だったのだろうか――、解らない、

ティナは、それを聞いた後、ずんとした衝撃に、闇を覚えた。
瞬間にして視界は消え、音は奪われ、重力から解放されて、ふっと瞼は下ろされる。

ティナが何もかもを手放す刹那、目に映ったのは、誰よりも愛しいその人。


(ネイビス、?)

(ううん、違う。ソルディス――)


叶うなら。
叶うことなら、もう一度――

ティナって、名前を呼んで欲しかった。





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