15




呆然と、しかし、地に着いた足はしっかりとしたまま、彼は、剣を握っていた。

木の幹元に、蹲るように、体を丸めて脅えた親子は、呼吸を乱して震えていた。


そっと、その彼女に触れようとすれば、ビクリとひきつけを起したかのように肩を跳ねさせ、その腕の中の幼子は、可哀想に、声を上げずに泣いている。

何が起こったか、言わなくても二人には分かった。
少なくとも、以前、同じような状況を目の当たりにした事のあるこの二人には。

「グロチウス」

黒い髪を、早瀬から巻き上がる風に巻き揺らしながら、ニルは呟いた。
だが、彼は振り向かない。
剣を握り締める手は、震えていて、それは恐怖の所為ではなく怒りの所為だと、やり場の無い悔しさの所為だと――ニルと共にこの惨状を見やるクロムセリアには分かった。

「歪みの気配がした」彼を落ち着かせるよう、静かに、「――何があった」

グロチウスは、ようやく、一つ、少し大きく息をして、

「――歪みから、異形の、輩が」
「そうか。怪我は」
「私は何もありません。親子も……無事です」
「そうか」

三人の無事に、彼は息をつく。
「それで、」一歩、グロチウスへ近付いて、「それで、――ティナとネイビスは?」

ニルは周囲を見渡した。

歪みの気配がし、只ならぬ轟音を聞いて、彼等二人が急いで駆けつけた其処は、事後の騒然とした風景だけが広がっていた。木々はなぎ倒され、人間の親子は陰で脅えたように蹲り、グロチウスは、粘質の異形の残骸をその剣に纏わせ、肩で息をしながら呆然と、そこに立っているだけで、既に森には静けさが舞い戻っている。

だが、二人は顔を顰めた。
居るはずの、誰かが居ない。

「グロチウス。二人は」
「……あれ、に、」

俯きながら震える声で呟いたのは、アリシアだった。

「ティナ、……さ、ん、」
「ティナが、どうしたの」
「ティナ、さん、が、……あれから、ネイビス、守って」

顔を上げて、彼女は脅えた瞳でニルを見上げた。

「あれに、……ティナさんが、とばされて、……ネイビスは、それを、」


(――ティナ!)

声と、伸ばされた彼の手。無意識に、動いた体。
その叫び声は、異形の呻きに掻き消されたけれど、手は、確かに、細い彼女の手首を掴んだ。

「アリシア・セレステ。二人は、今、どこに?」


クロムセリアの言葉に、アリシアは、ゆっくり、震える手で、向こうを指差した。それは、早瀬。
轟々と渦巻く早瀬の音に、ニルは、瞬時息を呑む。

崖上に、さぁ、と、夏の温い風が吹いて――、無言のままの、彼等の横を通り過ぎた。












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さら、さら、と川がせせらぐ。

濁りなく、穢れない川水を、山狸がその渇きを癒さんと咽喉に通し、川のほとりで耳をぱたりと動かしながらのんびりと寛いでいる。
ほとりのアゼナは淡白な花弁をふわりと揺らし、それらに囲まれた一面が、全てが長閑だ。

さらりと流れ行く清流をこくりと飲みながら瞬きする山狸が、また一口、川面に鼻先を近づける。

どこもかしこも穏やかで、長閑で、平穏。
その、夏間の一時が、自然を取り巻く、静かなほとり。

キュウ、と、山狸が咽喉で鳴いた。




――バシャン!!


突然の飛沫に獣は飛び退く。
浅瀬に掛けられた手に、狸は逃げ花々は折れ揺らめき、蝶が一斉に飛び去る。

山狸が遠くから恐れて見つめる中、川面から突然伸びた手は、ほとりの地を掴み、力強く一気にその体を引き上げた。


「…――は……っ…、」


びしょ濡れになって重い体を、どうにか川辺に引き上げた男は、やっと望めた温い空気を勢い良く吸って、肩で大きく息をした。足を掛けて陸に上がった彼の小脇に抱えられているのは――やはり、びしょ濡れになった、一人の少女。

彼は、彼女をまた川辺へ引き上げると、ぐったりとしたその体を草叢に横たえ、額と顔に張り付いた彼女の前髪を払いのける。

軽く、肩を揺さぶる。
だが彼女は動かなかった。

「……、おい」

あがる息を整え、声をかける。

「目を開けろ、……ティナ」

それでも彼女は起きない。
男は、彼女の体を横にして背を叩くが、水も吐かず、顔色悪く体の力を抜いたまま、ぐったり死んだように黙ったままだ。
仕方なく、彼は、ティナを仰向けにすると――その白い頬に手をかけ、濡れた唇に口付けをして胸を押す。初めはびくともしなかった体も、それを、何度も繰り返せば、

「……っ、…」

圧迫に、少女の胸が動いた。

「――…けほ…!…」

咽て、彼女は水を吐く。
意識を取り戻したよう、咳き込みながら、彼に背を摩られながら、苦しそうに手は草を握り締めた。
ティナは、咽ながら、背を摩る手に気付いて、霞む視界と、水に痛む眼で隣を見やった。

「……は…っ、ぁ、……」
「落ち着いて息をしろ」
「…ネ、……ネ、イ、?……っ、……何……、どう、」

男は、ネイビスは、濡れた髪をかきあげた。
安堵か、呆れか、大きく溜息をつく。

「俺を突飛ばした後、あの触手に、君が跳ね飛ばされた」
「……っ、…」
「小柄な君は崖の方へ飛ばされて、崖下の早瀬へ転落。ここに流れ着いた」

ティナは、ようやく苦しさが落ち着いた胸を摩りながら、肩で息をしつつ、ネイビスを見つめて、咳き込みながら問う。

「――……、…なん、で、」
「何が」
「どう、して……、あなた、が」

顔を顰めたネイビスは、目を細め、体に張り付く服を不快そうにしながら、

「咄嗟に君を掴んだが、そのまま一緒に崖を落ちるしかなかった」
「……、」
「おかげで二人、投身自殺だ」

ネイビスは苦々しそうに言うと、咳も止み幾分楽になったティナの背から手を離した。
ティナは、まだ呆然としながらネイビスを見ていて、彼がかき上げたその黒髪に、少しだけ懐かしさを覚えて、朦朧とした頭でそれだけがはっきりとした。

さて、と言いながら、ネイビスは立ち上がる。
ティナはまだふらつく体で、それでも後を追って急に立ち上がろうとして、その場に転びそうになる。

「まだ座っていろ。すぐ戻る」
「どこに……」
「どれ程流されたかさっぱりだ。近くに人が居ないか見る」

そこを動くなよ、そう言われたティナは、木々や草木をかきわけて奥へ行ってしまうネイビスを止める事も出来ず、ただ、徒労した体で――そのままその場に、再び倒れこんだ。

体が痛い。
右腕がずきりと痛んで、頭も重く、胸は苦しみが残り、体全体が水の重さと異形の暴挙に悲鳴をあげた。

あの時、最後に見えたネイビスの顔。
死んでしまうかもしれなくて、でも、彼だけはどうしても傷つけたくなくて、そうして押し退けたネイビスの表情は、あれは、驚きだったのか、呆れだったのか、呆けた頭では良く思い出せもしない。

ティナは、虫の音と、木々のざわめきと、川のせせらぎを近くに感じながら、眼を閉じた。

(――…生きてる、)

まだ、生きてる。
嗚呼きっと、ネイビスも、彼も、記憶無きままあの川に流れ着いた時はこんな気分だったのだろうと、ティナは、ぼうっとした頭で思った。








「――おい」

耳に心地良いバリトンに、ティナは、重い瞼を上げた。
ぼんやりとした視界に、徐々に鮮明に映り出したネイビスの姿に、ティナは慌てて体をぱっと起そうとする。

「……っ……」
「急に体を動かすな」

ネイビスは、溜息をつくと、

「あたりに人家は見当たらない。どうやら、ここも人里離れた場所らしい」
「じゃあ、日が落ちる前に、町を探さなきゃ」
「無闇に歩き回るのは危険だ」
「なら、ここに……?」
「水際は、獣が咽喉を潤しに来る。少し離れて、適当な場所で体を休めた方が良い」

ティナは、手を借りながら立ち上がると、ネイビスの後をついて鬱蒼とした木々の中へ歩みこんだ。
今は、まだ良い。昼過ぎ、午後の眩しい日が照り、木漏れ日が眼を差すほどだ。
だが夜になれば、真夏と言えども現状はきつい。
濡れた服では勝手が悪いし、夏の夜ともなれば獣も活発だ――野獣だろうが、魔獣だろうが。

目の前の彼がネイビスのままである限り、今、彼に全てを頼る訳にはいかない。
いつもの長剣を持っているわけでも無く、その意識と記憶が無い限り魔術を使う事も当然出来ない。

つまり、彼は無防備で――今の状況は、非常にまずいのだ。

ティナは、ネイビスの背を追いながら、それを思うとどうにも不安で、でも、どうにもしようがない自分の無力さに悔しさを覚えた。自分は、彼を救うつもりで、結局、こんな羽目に陥らせている。

「――ごめんなさい」ティナは呟いた。「こんな所まで……流されて、」

言葉に、ネイビスは草を掻き分けていた手を止めると、不機嫌そうに振り向いて、「君は、本当に馬鹿だ」言ってまた歩き出した。

「何が、……」
「後悔する余裕があるなら、この先の事を考えろ」
「――謝ってるんです、あの、……本当に悪いと思って」
「なら、少しでも良い避難場所を探せ」

どうにもこうにも喧嘩口調。ああ、何だか、こういう会話も懐かしい。
ティナは、改めて、二人の間に喧嘩の様な会話しかなかった懐かしい日々を思い出した。

ちょっと見上げれば、夏の日差しが眩しい。
濡れた服は体温を奪っていって少し肌寒いくらいなのに、気温だけが蒸し暑い。
まだ調子の悪く重い体を引き摺るように、それでもネイビスのおかげで大分優しい道を歩き進めて、ティナは、森の奥へと進んだ。

せめて、あの家に帰れるまでは。あまり喧嘩とかしたくないな、と思ったりしながら。













二人ともいつの間にか無言のまま、虫音が響く森林の中、歩き続けた。
ネイビスが踏みしめる草の上を歩くおかげでティナは大分楽だが、張り付く衣服は徒労感を蓄積させる。どれ程時間が経ったのかも分からぬままで、この散策はいつまでも続くようで、ところが、暫くしたところでティナはいきなり彼の服を引っ張った。

「ストーップ!」
「……何だ」
「発見!こじんまりとした人家!」

意気揚々とティナが指差し叫ぶ先にネイビスが眼をやれば、確かに、奔放に伸びた草木の向こうに、一つだけぽつりと木製の家が見えた。いや、違う。家じゃない。あれは、

「――小屋か」

人の住まいを目的とせぬその廃屋めいた建物は、ともすれば森の風景に溶け込んでしまいそうな様子で、ティナはこんな建物に足を踏み入れた事なんて生まれてこの方無いけれども、今はそんな事は言ってられない。ネイビスとティナはその小屋へ向かって歩み進んだ。


遠目にも、近くで見ても、人が住んでいる気配は無い。
ティナがぐるりと周りを回ってみれば、窓は二つ確認できるが、それも埃やらで曇っていて屋内を確認することは無理な状態。

「どなたかー」

その声に返事は無い。
どうせ廃屋だ、そう言ってネイビスは、錆び腐った蝶番が軋む戸を強く蹴り開けた。

乱暴だなぁと思いながら、舞い上がった埃が落ち着いてから中に入れば、中には、どうやら其処は樵が使っていたと思われる有様で、錆びて使い物にならない斧やら鎌やらが乱雑に床に置かれて、簡素な棚や寝床が所狭しと佇んでいて――

「きゃあ!ほ、骨!そこ、人骨ー!!」

ティナが思わずネイビスに飛びついて指差す先を見てみれば、棚の傍に、バラバラに崩れて劣化し風化しかけた骨が疎らに散らかっていた。ネイビスは、溜息をついて、

「ちゃんと見ろ。あれが人の骨に見えるか?」
「いや、でも、……え?」
「大方、犬か何かの骨だ」

ティナはほっと息をついて、体の力を抜いた。
……。

「……わ!」

自分が彼に抱きついている事を急に思い出して、咄嗟にティナはネイビスを押し退け――ようとするが、その手はあっさり掴まれる。

「あ、あの、あの……っ、」
「二度も君に突き飛ばされるのはご免だ」

皮肉に言ってから、ネイビスはその腕を放した。
「それに、」彼は続ける。「下手に意識するな。そんな仲でも無いだろう」

言葉に、ティナは、うっと言葉を詰まらせる。

それは……確かにそうだけれど。
けれど、そんな、ちょっと女の子に抱きつかれたら、びっくりするとか慌てるとか、寧ろこっちを突き飛ばすとか。それくらい反応するものじゃないの?、ティナはネイビスから離れると、全然女性として意識されていない自分を悲しく思った。

やっぱり、アリシアさんみたいに、落ち着いた女性じゃないと駄目なのかな。
(それとも、アリシアさんじゃなきゃ、駄目なのかな)

急に、濡れた衣服が、変に冷たさを増した気がして、ティナは小さく身震いをした。
項に張り付いたブロンドが、無機な銀質の様に感じられて、ティナはネイビスに背を向けてそっと自分の体を抱きしめる。

疲れと寒さと、思い出す体の痛みから、ティナは思わず俯いた。
どんなに彼女が寒さに震えても、炎天下の廃屋には、日光が差し込まない。








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