17




ソルディスの、匂いがする。

瞑った瞳でそう思った。
ふと薄く開いて、ぱちくり瞬いたその双眸に、真っ先に飛び込んだのは、輪。
はて、これは何だろう、
薄暗い中、湿気と、肌寒さにモゾリと身を捩りながら姫様は考えた。

眼球の直前まで迫ってぼやけた正体不明のそれを明かさんと、彼女は、ちょんとその輪をつまんで見る。
みて、初めて、それが指輪である事がはっきりした。

……ソルディスの、指輪。

ぼーっとした頭のまま、ティナが視線をちょっとあげると、自分を抱きしめるように静かに眠り込んでいる愛しい人の姿が其処にあった。ああ、間違いない。これは、ソルディスの首に掛けられた、お揃いの指輪。そして、自分が寝ているのは、紛れも無い、その彼の腕の中。
(――ソルディスの腕枕、)
こんなのって久しぶりだ、一体、これは夢だろうか?ティナは思って、彼の首から下がるそのリングを見つめながら、まだ、自分のこの状況が信じられないという気持ちで、それでも目の前に居る彼を見ているうちに昨夜の事を鮮明に思い出して、それで、彼に縋りつきたくて、もう一回ソルディスの腕の中に収まった。

ソルディスの腕に緩く抱きしめられて、目の前には、彼と自分の思い出を繋ぐ指輪がある。

居なくなってから、好きだと気付いて、居なくなってから、その大切さに気付いて。
全部が遅くて、彼の腕もこの想いも、全部、何度も何度も諦めかけた物だったのに――もう駄目だって思ったのに。

でも、まだ、遅くは無かった。だって彼は、ここに居る。
朝鳥が鳴く森の中、薄暗がりの中眠る彼は、もう、ネイビスじゃなくてソルディスだ。
ティナはそう思うと、そっと、まだ眠るソルディスの頬に手を伸ばした。

ちょっと、体を起こして、彼の寝顔を静かに見つめる。

(ソルディス、何を考えているのかな)

ティナはふと思った。
彼は、自分の家族を見つけた。多分、自分には戻らなければならない場所がある事も分かってる。
けれど、それと、“ティナの隣に戻る”のとは、また別の話だ。
あんなに、前日まで喧嘩し続けて、全然優しくなくて、アリシアさんとの扱いはそれはもう酷いと言っていいくらい差があったものなのに、彼はこの体を抱きしめて、口付けをして、一晩中抱いていた。

(変な人、)もう、何度も思った気がする。
全然、掴めないなぁ。

奥さんだった子を放って置くのが可哀想だからって、同情しただけだったらどうしよう。
そう思いながら、ティナは、さらっとソルディスの前髪をかきあげて、その額にそっとキスを――

「……!――きゃっ!?」

途端、シーツの中に引き摺りこまれて悲鳴をあげる。
もがいた後にぷはっと顔を上げれば、眉を顰めるソルディスの顔。

「人の寝込みを襲うな」

その言葉に顔を真っ赤にするティナを、からかい甲斐があると彼は苦笑した。
普段は、見る事が出来なかったその笑顔に、ティナはちょっと言葉を止める。

「……何だ?」

無言でじっと見つめてくるティナに、訝しげな様子だ。
ティナは、ううん何でもないと言って、再びソルディスの腕枕に頭を預けた。
何でもない、ただ、眠いの。
言いながら体を寄せてくるティナを抱きしめながら、ソルディスは咽喉で笑った。「一晩中起きていたお前が悪い」そう言って、ティナの髪を梳き掬い上げる。

「そ、それは、私のせいじゃなくて」
「なら、誰の所為だ」

問い返す彼の言葉に、ティナは顔をこれ以上になく染めながら、口ごもって、視線を逸らした。
私の事困らせるの、本当に得意なんだから。
記憶が無くなっても、それだけは、何故か、変わっていないんだから。

「記憶があっても無くても、私には意地悪なのね」

言葉に、ソルディスは苦笑する。
記憶に無い頃の事を責められても、どうする事も出来はしまい。
だから、彼は、何も言わずに、ティナの前髪をかき上げて、その額にそっと口付けをした。
唇を受けた姫君は、擽ったそうに目を細めながら、そうだ、よく彼は額に口付けをしてくれていたと、遠い昔の様に懐かしんで――再び心地よい眠気に誘われた彼女の頬を、ソルディスは軽く触れた。

「寝るな。もう少ししたらここを出るぞ」
「――もう?まだ、外は薄暗いけれど」
「森が静かなうちに、人気がある所へ出たほうが良い」

ティナの体を、シーツの上から愛おしそうに撫ぜて、「それとも、まだ足りないか?」静かに囁いた。

その言葉に、羞恥に涙ぐむ瞳のまま、姫君が首を振ったのは言うまでも無い。



















一晩置いたらほぼ完全に乾いた己の衣服をまとって扉を開けると、ティナは、朝の冷たい空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。冷涼なそれは、ちょっと、咽喉に痛いけれど、何だかとっても心地が良い。(こんなに胸の苦しくない朝は、一体何日ぶりだろう、)

髪を手櫛で整えて、ワンピースの裾を延ばしながら姫様が草を踏みしめれば、そこは湿った朝露の上。チチチ、と、微かに鳥の鳴き声が聞え、後は、静寂に包まれる其処は深い森の中。
本当、とんでもない所に流されてきちゃったな、ティナは思ってまたソルディスに対しすまなく思った。
思ったけれど、だからと言って、この状況が変わるわけは無い。
大声で、それはもう張裂けんばかりの大声でグロチウスとかの名前を叫べば、もし近くまで来てたら魔族の彼等に声は届くかもしれないけれど、それはそれで鬱蒼とした森に住まう野獣やら魔獣を刺激する。そんな馬鹿な真似は、出来っこない。

身形を整えたソルディスは、ティナの隣に立って溜息をつくと、さて行くかと彼女を促した。

行くって、何処へ。
何処へでも。

適当に答える彼の背中を見ながら、ティナは遅れぬ様その後をついて歩く。
暫く彼の後ろを歩いていたけれど少しして、ソルディスはティナを振り返り、余り後ろをついて歩くなと文句を言った。

「どうして?」
「隣に居ないと、お前が見えない」

お前には俺が見えていても、ティナがいつの間にか消えてしまいそうで気が気じゃない、
言われて、ティナは、頷いて、ソルディスの横にととっと歩き出た。背の高い草は余り無くて、歩きやすく、別にソルディスの後ろを歩く理由も無い。

「――なんか、戻ってる」
「何が」
「私のこと、“お前”って」

ずっと、君って呼ばれてたのに。すごく、ずっと、他人みたいだったのに。

「お前を見てると、お前と呼びたくなってくる」
「……馬鹿にされてる?」

被害妄想だ、そう言われてもティナは何だか納得いかなかった。

「他人の時は優しかったのに、近付くと、冷たくなるのね――前は、他人の時も冷たかったけど」
「お前は矛盾しているな」
「矛盾って?」
「“本当は、優しい人”――あの時言った言葉は、間違いか?」

ティナは、ぎゃっ、と口を噤んだ。
そうだ、確かにそうだった。あの時自分はネイビスの前で、ソルディスの事を言って、自分の想いを打ち明けて――そうだ、確かにそんな事も言ったっけ。いくら記憶が無いからって、本人の前で、あんな恥ずかしい事言うべきじゃ無かったなぁ、ティナは思わず項垂れた。
ソルディスは、そんな落ち込むティナを見て、そっと頭を撫でてやった。

「ねぇ、ソル」希少価値的な優しさを持つ彼を見上げて、「ソルは、これからどうするの」

「森を抜ける」
「――じゃなくて。アリシアさんの家に、戻った後」

ソルディスは黙ってティナを一瞥した。
例えば、このまま無事にあの家に帰れたとして、ソルディスはどうするの。
(だって、彼女の恩に応えたいと願っていたのは、あれは、紛れも無い本心だったと思うから)

「――そうだな――」

彼は、ティナの頭からそっと手を離すと、遠くを見つめて黙った。
彼は多分、いや、絶対、アリシアさんの事、嫌いなんかじゃないと思う。これは勝手な予想だけれど、きっと、記憶が戻ったって、ソルディスは、アリシアさんの事、嫌いになったりなんかしない。どうなっても良いなんて、絶対に、考える筈が無い。
ティナは、別に良い、とソルディスに言った。

「もし、戻らなくても」

ソルディスはティナを見下ろす。

「何処を望んでも、それが私の傍じゃなくても、それでも良いの」
「――」
「ソルディスが、納得する様な決断をすれば、それで満足だから」

待ってろって言ったら、いつまでも、待ってるからね。
ティナは言って笑った。

ソルディスは、少しの間黙って、それから、そっとティナの小さな手を取った。
逸れる様な距離でもなく、見失うような風景でもないけれど、ソルディスは、ティナの手を握ったまま、そのまま離そうとしなかったから、だからティナもそっとその大きな掌を柔い力で握り返した。

手、冷たいね。
やっぱり、これ、ソルディスの手だ。

ティナが彼を見上げて微笑んだ、その時――

「止まれ」

ソルディスが歩みを制した。
え、とティナは思わず躓きそうになるが、何とか立ち止まり、ソルディスの険しい表情に息を飲んだ。

「何――」
「物音がする」

野獣か、(はたまた魔獣か?)緊張に、ティナは、ソルディスの手を固く握り返す。
ざわりと、森が鳴いた。
ティナにだって、ここまで来れば分かる、何かが此方へ近付いてくる音。
人の足音?いや違う。
あの木々の間から、不自然に、木々を、草葉を掻き分ける音が、耳に届く。

ティナは、どうしよう、惑わしで何か燃やして追い払おうか、それともソルディスと共に逃げ去ろうか、焦った。焦って、戸惑うティナを見て、ネイビスはそっと囁く。

「そこの樹に登って、お前は隠れていろ」
「――嫌、私一人なんて、」
「しかし」
「もう、置いていかれるのも、置いて行くのも、嫌」

ティナは詠唱の準備をしながら、ソルディスに言った。
最悪、ここで死ぬような事があっても、それでもソルディスと一緒なら悔いは無い。
彼を守るように一歩進み出、両手を先へ構えるティナを見て、ソルディスは黙った。

音は、容赦なく此方へ近づく。
遠くに聞えていたそれは、徐々に、此方に、嗚呼、もう目の前まで差し迫り――


(――来た!)

飛び出してきた其れに、思わず手を伸ばし呪文の詠唱を行なわんとするティナは、しかし、庇う様に手を引き身を挺すソルディスに、行為を遮った。
ソルディス、ダメ、また、貴方が犠牲になって――

ティナが声をあげようとして、手を伸ばしたとき、


「ああ――やっとこさ、見つかりましたぜ」


聞きなれた声。
え?と、ティナが目をやると、

「……アヴァス……!」

その姿に、ティナは駆け寄った。
木々の合間を飛び抜けて来たのだ、きっと、その音だったのだ、ティナは安心して、駆け寄ったその魔族たる彼に飛びついた。
驚くやら照れるやらで、翼類の彼は、頭をかきながら、所在無さ気に姫君を宥める。

「ああ、もう、野獣だか魔獣だと思ったじゃない!」
「遅れちまいました、何せ、森が広いもんでさぁ。クロムの旦那に頼まれて、探しても探しても、声一つ聞えやしないもんでねぇ」

ふよふよと空に浮かび、その背には翼を持ち、くしゃりと皺の寄った笑顔で笑うアヴァス。
昨日の夜も、今日だって早朝から、ずっと、探し続けてくれたのだ。ティナはありがたくて、本当に救われた喜びを感謝に変えて、空に浮いたままの彼を抱きしめた。そんな歓喜に溺れる姫君と、明らかに人間で無いそれを――黙って彼を見ているのは、ソルディスだ。

あ、と。
ティナが気付いた時にはもう遅い。
彼の目の前にいるのは、紛れも無い、人にあらぬ者――魔族。ティナは、その翼類を、知っていて、抱きついて、……嗚呼、もう。何も言い逃れる事は無い。

「あ、あのね、ソルディス……」
「――」
「彼……あのね、彼はね、その、ね。人間じゃなくて、でも、良いヒトで……あの……つまり、その……えっと……ま、魔族、なの」
「知っている」

見れば分かる、そう淡々と応えたソルディスに、ティナはうっと言葉を詰まらせる。
分かるって言われても、あの、普通もっと驚いたりするんじゃない?

「あのね、驚かないでね。私、……彼の知り合いで、……あーっと、……じ…実はね、」

ティナは唾を飲み込んで、「私も……実は……ちょっと、魔族の仲間なの」

ソルディスは、肩を竦めて、

「知っている」
「――え」
「俺が魔族という事も」
「えぇ!?!」

ティナは思わず仰け反った。

「な、なんっ……ソル、何、」
「あのな、……」

パニックになるティナに、

「考えてもみろ。犬が記憶喪失になって、自分を猫だと思い込むか?」
「……はっ…」
「それに、人間のアリシアと一ヶ月も暮らしていれば、自分が彼女と違うことくらい馬鹿でも分かる」

何だ、お前は。ずっと俺にそれを隠していたのか?
言われてティナは、完全に閉口した。
信じられない、今までの気遣いは一体何!
今までの気苦労が全くの無駄……ティナは泣きそうな顔でアヴァスを見上げると、「諦め下せぇ。姫様は、どうしたって、あの御方に振り回される運命なんだ」、声をあげて笑い飛ばした。





それから彼等は、森を抜ける為に、ただ、ひたすら安路を歩き続けた。
歩いてみれば、思ったより、遠くに流されていたけれど、アヴァスが良い道を見つけてくれていて、おまけに彼が魔獣も野獣も寄せ付けないようにしてくれたから、ティナとソルディスは、危険も無く、元居た場所へと帰る事が出来た。


結局、アリシアの家の近くへ、三人が辿り着いたのは、昼頃。


アヴァスは、アリシアの家へ着く直前に、それじゃあと姿を消した。アリシアやセトに見られぬ為だ。ソルディスとティナが家へ近付くと、外に居た、皆が、二人の姿を見留めて、駆け寄ってきて、

「ティナ!……ネイビス、」

異形に体を打たれたと言われたティナに取り立てて大きな怪我が無いのを見て、ニルは、ほっと安堵の溜息をついて彼女を抱きしめた。それから、二人が、思うよりも元気そ うなのを確認して、また、溜息をついて、笑う。「――本当に、二人とも、無事なのね、良かった、」

再度、ぎゅっと抱きしめる義姉を抱き返しながら、ティナは、大丈夫、と笑いながら――その耳元で、「あのね、ニル姉。彼、もう、ネイビスじゃないの」静かにそう囁いた。
え?と顔を上げて、咄嗟に、アリシアと言葉を交わすネイビスを見やるニルは、その意味が読み込めず、不思議そうに彼を見つめた。
見かけは何も変化無いし、確かに、まだ、記憶は戻っていない。だけれども、そこに居るのは、以前までの彼じゃない。少なくとも、ティナにとっては。

後で、説明、長くなりそうだけれど――
さて何から彼等に説明すべきか悩みつつも、無事元居た家へ帰れてほっと一息ついたティナが、ふと見れば……一歩引いた所に、ありえ無い程そわそわして挙動不審のグロチウスが、クロムセリアに小声で宥められていた。

「……ソルディス、無事なのに……」
「ああいうのは、自分で触れて確かめないと落ち着かない性質なのよ」


ああ成る程。可哀想だけど、可愛いなぁ、なんてこっそり思った。












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「――そう。あの子、自分で気付いてたのね」

紅茶の入ったカップを置きながら、ニルはティナを見て言った。「道理で、私達の正体ばれても、動揺の欠片も見せなかった訳」

「これから、どうするかは、まだ聞いてないんだけれど」

肝心の所を聞いてないとティナは反省した。

「でも、何だか、記憶が戻る事に対して抵抗は無いみたい」
「だったら、同意を得て、ナン・ランの所へ連れて行っても問題は無いわね」
「――それは、」

言葉にティナは目を丸くした。

「でも、それは、……万が一、ソルディスが」
「覚悟があるなら大丈夫よ。問題なのは、記憶に対する恐怖や不安を抱えたまま魔力を脳に受ける事。それに、あの子自身の魔力だって脆弱な訳じゃない」
「――ソルディスは、死なない」

ティナの頭に手を置きながら、クロムセリアは優しく言った。

「大丈夫、ソルディスは死なない。不安な気持ちは分かるが――このまま、記憶も無く君の傍に居る方が、不安と感じる事だってある」


言われて、ティナは彼を見上げた。


(ソルディス、)ソルディスは、私の隣に、居てくれるの?(、隣に、居たい?)
言葉で言わなきゃ、何一つ、分からない。

彼の口から聞かなければ――ティナには、何一つ、分からない。


















「ネイビス」

アリシアの声は、彼の背中にかけられた。
帰ってきてからずっと、物思いに耽る様に、自室の窓から外を見つめるその男に、彼女は、一息置いて、

「――体の、調子は?」
「悪くない」
「そう……なら、良いの」

アリシアは彼の背の後ろに立って、黒いシャツの上から、彼の傷口をそっと撫ぜる。
この肩口から鮮血を流し、流れ着いたとき、着ていたその衣服を見て、アリシアは、目を細めた。「あっと言う間だったわ」声は、静かで、落ち着いている。しかし、色は悲しい。

「一ヶ月と、少し。貴方には、長かったかしら」
「……そうだな」
「でも、あの人たちが来てからは、早かった」

アリシアは微笑む。
癒えた傷に手を添えたまま、

「ネイビス、私、」

続きを、アリシアは、噤む。

「……アリシア、」

振り返るネイビスに、アリシアは顔を伏せた。

「ごめんなさい」声が震える。「別れには、慣れている筈なのにね」

「アリシア」
「私、貴方に会えて、良かった」

楽しかったもの、貴方に会えて。

「――」
「それから、あの人達にも会えて、嬉しかった」

きゅっと服を握るアリシアの手は、震える。
ふわりと肩に、眼にかかった美しく柔らかなブロンドを、そっと撫ぜたネイビスは、世話ばかりかけた、そう呟く。
アリシアは無言で首を振ると、そのまま、ネイビスの肩に頭を預けた。

ネイビス……行っちゃうのね?

彼女の吐息が肩にかかる。
ネイビス、そう呼ばれた彼は、彼女の体を引き離す事も無く、ただ、眼を伏せた。
目の前の彼女は、頼りなく、再び誰かと別れを迎える事を恐れている。
いつの間にか、大事な存在となっていたネイビスを。心の寄り処を、失うことを。

「君に、助けられた」

ネイビスは優しく言い聞かせるよう、

「記憶が無い俺を、支えたのは、君だ」
「……うん、」
「だから、君に辛い顔はさせたくない」

アリシアは、そっと顔を上げた。
泣きそうで、それでも泣かずに、言葉を聞く彼女は、震える唇で、うん、と呟いた。

「ネイビス」

そっと、掌を伸ばす。
ネイビスの、首に、頬に触れて、彼の感触を確かめるように、


「お願い――」


そうして、アリシアはまた、彼の名を囁いた。








その扉の向こうで、足を留めていた姫君は、俯いた。
彼女は、何も見ず、何も言わぬよう、眼を口を固く閉ざして立ち尽くし、――力無く踵を返すと、音も立てずに立ち去って行ったのだった。








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