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一体、何があったのか知らない。 だから、姫君は、ただ戸惑ったように首を傾げた。 ただ一つはっきりしているのは、記憶を無くした彼女の夫が、自分が元居た場所へと帰る、そう告げてきたと言う事だけ。ただそれだけだった。 ティナは知らない。 彼が、彼女と――アリシア・セレステと何を語り、何を確かめ合ったのか。 ティナは聞かない。 果たしてその意思は、本当に貴方が望むものなのかと。 笑顔も困惑も何も見せず自室へ去っていくソルディスを見て、不安と疑問に挟まれながら、それでもティナは、束の間の安堵に肩の力をそっと抜く。 長く続いたこの事態にも、ようやく、何か一つの区切りがつくかもしれないと。 早々に、この家を去る事が決まってしまって、ティナは慌てて荷造りを迫られる事になった。 そんなに焦らなくても良いのにと思ったけれど、逆に、ここに居座り続ける事を考えたら、きっと自分は、アリシアさんやらネイビスやらそういう事が気が気で無いだろうから、逆にその方が良いのかもしれない、と、そう思った。若しかしたら、これは、ニルの、自分への配慮かも知れない。そう感じて。 背後から、声が掛けられたのは、そうして、ティナが荷造りに勤しんでいる時だった。 声の主はアリシア・セレステ。 いいかしら、そう言われて、ティナはちょっとびっくりしながら手を止めて、彼女を部屋の中へ誘う。 「もう、発つのね」 「ニル姉が、今出れば、夜が耽るころには着くからって。バタバタして、本当にゴメンなさい」 「ううん、良いの。セトは、寂しがって拗ねちゃってるけど」 微笑むアリシアに、ティナの胸が痛んだ。 「あの……、」 「ん?」 「あ、いえ、」 何も言う事が無いけれど何か言わなくてはいけない気がしてティナは戸惑った。 でも、なんだか、彼女には、お礼を言っても言い切れないと思って、「――本当に、お世話になりました。有難う、何もかも、本当に、」そう言うティナに、アリシアは、彼女の両手をそっと取って、首を振る。 「見ず知らずの私達を家に置いてくれて……、それに……ネイビスにも、親切にしてくれて」 「私は何もして無いわ」 「でも、彼は、笑っていました」 ティナは言う。 「あの人、笑わない人なんです。そういう、人だった。だから、彼が、この家で笑っているのを見たとき――アリシアさん、貴方のおかげだと思いました」 「でも、あの人も、もうここを去ってしまう」 ふっと儚げに笑う彼女に、ティナはかける言葉も無い。 共に日を過ごすうち、アリシアにとってネイビスが大事な人になりつつあるという事は、言われなくても分かっていた。恐らく、その感情が、自分が持つそれに似たものであるという事も。 そしてアリシアも多分、ティナの感情に気付いている。ティナもアリシアも、互いに言わないだけだ。 「……アリシアさん、」 「あの人は、貴方の傍を選んだの」 アリシアは、ティナの手をきゅっと握って、「大切な人の前では、時に、人は笑顔を見せないものなの」だから、 「だから、あの人を――自信を持って、愛してあげて」 ティナは何も言わなかった。言えなかった。 アリシアは、もう一度優しく微笑むと、ティナをぎゅっと抱きしめて、その後、部屋を去っていく。 彼女の、香りが部屋に残った。 野に咲く花々そのものの様に、森の女神の様に、温かく、優しい香りが。 母であり、女性であり、一人の人間として、彼を愛した、彼女の香りが。 別れの場を、親子は、遠くから見つめていた。 家の傍から眺める風景は、どこか寂しくて、遠くに見える馬車も、去り行く彼等の姿も全て小さくて、アリシアは目を細めた。 外は、そろそろ風も冷たくなってくる頃合。早く発たねば、森を抜けるグロチウスの足やら目やらに苦労をかけるからと、隠し置いていた馬車を早々に引っ張り出してきて、ニルと、クロムセリアが先に乗り込んだ。 ソルディスも続けて、乗ろうとするけれど、遠く、小さくぽつりと見えるアリシアの家をぼうっと見つめるティナに気付いて、彼女の手を引いて、「――ティナ、」声をかけ、その身を馬車の中へ促す。 ティナは、手を引かれるままに馬車へ乗り込むが、その顔は晴れなかった。 あの親子を残して去っていく自分。 ネイビスの手を引いて、彼女の元から去っていく自分。 そして、アリシアを――彼にとって少なからず大切な存在となっていたであろうアリシアを、ソルディスから引き離す自分。 果たして、これで良いのだろうか。 本当に、この選択は間違っていないのだろうか。 (だって、帰りたいと望んだのは、ソルディスじゃない、) そう自分を納得させようとしても、どうしたって気は晴れなかった。 やがて、グロチウスが歩き出す。 居心地が悪い馬車の中、ティナは、隣に座るソルディスの姿を確認して、そして、そっと溜息をついた。 「――疲れた?」 「ううん。大丈夫よ、ニル姉」 「疲れているんだ。無理しないで、着くまで寝ていろ」 クロムセリアは苦笑し、ソルディスを顎で差して、「どうせなら、兄上様の肩でも借りて眠れば良い」言って、窓の外をふいと見やった。あらそれもそうね、ニルも笑って、彼女もまた窓越しに馬車の外の風景を見る。 ――ティナは困った。 ええっと、と困惑の視線のまま見上げれば、ばっちり合う視線と視線。あは、と笑っても、ソルディスは、笑いもせず、けれども、以前の様に顔を顰める事もしないで「――お好きにどうぞ」言って、彼もまた窓の外へ視線を投げた。 ああ、やっぱり、笑わない。笑わないけれど……こんな、すんなり承諾する彼も珍しい。(つまり、しても良いって事なのよね、) ティナはちょっと悩んだ挙句、そっと、ソルディスに寄り掛かって、まるで、幼子の様に彼に縋って、目を瞑って、ほっと溜息をまたついた。 (――アリシアさんの、匂いがする) 鼻先を掠めたいい香りに、ちょっとティナはまた心の奥に痛みを感じた。不安に心を曇らせたけれど、ソルディスの腕が、肩が、彼の確かな存在を教えてくれるから、ティナは何も言わないで、そのまま眠りに落ちていく。 今、ソルディスは、私の隣に居る。 私はもう、どうしたって、きっとこの人から離れたいなんて思わない。 其れに気付いただけでも、この幾日もに渡った葛藤と絶望は、意味があったかも知れない―― 姫君は、そう思いながら、静かな、深い夢に浸っていった。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ふわり、と、生温い風が丘に吹き上げた。 それにかき回されるよう乱れた髪を撫で付けながら、彼女は、遠くを見つめ、消えた馬車に双眸をそっと細める。区切りのついた、この日々を思い返し――ふっと溜息をついたその後ろから、 「――行ってしまいましたね」 物静かで、柔らかな声がかけられた。 彼女は、振り向く。 そこに居るのは、一人の、青年。 少年というには大人びて、男と称するにはまだ幼い。黒の髪を風に靡かせ、その奥には美しい碧眼。その彼は、まさに幼い笑みを浮かべ其処に立っていた。 「そうね、」 「寂しいですか、“お母さん”」 彼女は口端を引き上げて、笑った。 「その呼び名は止めなさい、“セト”」 呼ばれて、彼は、苦笑した。「ならば、貴方も、その呼称と口調を止めて下さい」不自然ですよ、彼はそういって、くすっと笑う。「セトなんて、名前――新神文書から引っ張ってきた呼称でしょう」そう言われれば、 「その通り。お前は、賢いな」 アリシア・セレステはそう言って笑い上げた。 「だが、今日限りだな。もう、名を違える必要もあるまい」 「ええ。今この時から、僕はまた僕として貴方に仕える」 「そいつは光栄だ」 「それで――収穫は?」 青年の問に、彼女は腕を組んで、「まぁまぁだな」思慮を巡らす。 「ふざけた余興だが、なかなか楽しませて貰った。あの男も、記憶が無いわりに芯が図太い奴だ。まぁ、奴等に接触を為しただけでも良しとしよう」 「あの魔獣は疑ってましたよ。此方の、異様な魔気に」 「だろうな。だが、主人の状態が状態だけに、其方への気は回らなんだ」 口端を歪め皮肉に笑う。 「ティナは――あの子は、どうでしたか」 「良くも悪くもやはり人間だな。血は交えども魔族でも無し。神とは、程遠いよ」 「期待外れですか」 「そうでは無い。アレはアレで良いのだよ。我等にとって、そういう存在である為に」 アリシアは青年を見て、「お前は、良いのか」目を細める。 「――ええ。僕は、とっても満足ですよ」 あの子に会えて。 彼は微笑んで、告げた。 彼は後悔を見せない。彼は、何も苦痛を見せない。それを、アリシアは愛らしく思った。心の底から、この、忠実な従者を。 アリシアは、満足げに、青年へ手を差し出した。 「忠誠を」 言葉に、彼は、跪いた。 貴方の望むままに――彼は、そう言うと、風に乱される彼女の髪を愛おしそうにそっと掬って、その流れに、口付けをする。そして、その手を取ると、恭しくその甲に唇を落とした。 彼は彼女へ忠誠を示す。 心を、命を賭して敬愛する彼女の御許に。永劫仕える事を誓った、彼女の御許に。 さぁ、と、再び丘に風が流れた。 二人の後ろには、かつて、廃屋であった誰かの家が、無言で其処に聳えている―― |