果実は確かにまだ青かった。
姫様の頬みたいに、この小さな真丸い緑の果実も突けばすぐに赤く染まれば良いのに、リィネが笑いながらそう言えば、顔をそっと染めながらそんな事無いと意味無い反抗を喚く姫君は、遠目にそれは、からかい甲斐のある幼子供にしか到底見えない。

よく疲れもせずはしゃぐものだ、ソルディスは木陰で休むグロチウスの腹を撫でながら内心呆れた(姫君の予定に合わせてあの書類の山を三日で消し去った彼の見事なまでの手際の良さに彼の姉こそが心底呆れかえっているのであるが)。

グロチウスに沿うように寝るのは姫君の愛馬アナスタシアで、気持ち良さそうに木の根に背を擦り付けながら草むらに寝転がる彼女は、姫君がはしゃぐ見慣れた光景に目を細めながらうとうとと瞬きをしている。新雪の様に斑紋無い毛並みを悠々と風に靡かせ眠り込もうとする気の抜けた姿は、ある意味飼い主に似ている所があるかもしれない。もっともティナに言った所で彼女がそれを認める訳は無いだろうし、ソルディスだって、以前ティナに「グロチウスってソルに似てる」等と伝えられた言葉を、全くの戯言としてしか捕らえていないのが現実であった。

平穏――今彼等の周りにはその言葉しか見当たらない。
以前、指輪を姫に手渡して以来訪れていなかった河原には案の定月下零の黄色い花々が咲き乱れていた。成る程、やはり季節上、今の辺りが一番綺麗に花を眺められる時期なのだろう。ティナは己の最も好き好む花が辺り一面咲き乱れている事に心躍らせ侍女と共に走り回り、持ってきた麻袋に、方々に成るレッドベリーのまだ青い実を摘み取って、それはもう、失礼ながらまるで子犬の様だ。


「ソル、見て、こんなにいっぱい!」

見えている。
素っ気無く呟いて、彼は溜息を付いた。

「ねぇ、そんな木陰に座ってないで――あ、リィネ!そっちにもいっぱいある!」

(少しは思考を落ち着かせろ、)ソルディスは疲れたように眉間に皺を寄せながら、グロチウスの腹に凭れ掛かった。どうせリィネを連れて行くのだから何人増えても同じだと、姫君のお守り且つ領主様のお世話役を担う下男も、所在無く若い女性二人を遠目にぼうっとするばかり。結果ティナ達が集めたベリーを運ぶ任務くらいしかあるまい、そう思いつつも彼等はそこらで遊び呆けたり姫君から目を離す事を怠る訳には到底いかない。(何しろ、最恐にして絶対君主たる領主殿が直其処にいるのだから!)

「ねぇ、あなたも一緒に実を摘みましょ」

そうティナに微笑まれてもうっかりと表情を緩ませて遊びに興じる訳にはいかないのが下男の辛いところか、彼は首をゆっくり振り、作った笑みで、私は結構ですなどと丁寧な返答をする。

そんな下男の葛藤を知るべくも無く散々実摘みに夢中になったティナは、ふと、己の指先を見つめて、「わ!枝触りすぎて、手がベタベタ!」びっくりしたようにリィネに言う。

「川の水で洗いましょう。今日は天気が良いですもの、冷たい水も気持ち良い事でしょう」

リィネに手を引かれるまま遠ざかるティナを見ながら、ソルディスは、欠伸をするグロチウスの背を撫でて、「無防備だな」顔を顰めてそう言った。あいつ等は馬鹿か、グロチウスに話しかけるように言うが、愛馬は咽喉を鳴らしながらソルディスに鼻を摺り寄せるばかり。天気が良すぎてお前まで馬鹿になったか、ソルディスはグロチウスの長い鼻を軽く撫ぜながら眉を顰めた。




「――わ、本当に冷たい!」
「姫様、落ちないようにお気をつけください」

見かけでは判らぬ程この川の中心は深く早瀬でもあり、一度足を捕られればティナほどの小柄な身体は一気に流れに持っていかれ下流まで勢い良く流されてしまうだろう。リィネはティナの身体を軽く支えながら、共に冷たい川の水に手を差し入れた。

「本当に冷たいですね。姫様、あまりつけていると身体を冷やしてしまいますわ」
「大丈夫よ、リィネ」
「領主様がご心配なさります。姫様はお風邪をひきやすい身体ですから」

ソルディスが?
ティナは言いながらクスクス笑った。

「私が元気すぎて困っているくらいよ、心配なんてしないわ」
「領主様はいつも姫様の事を考えていらっしゃいますわ。姫様だって声に出さなくても領主様のお体を心配なさるでしょう?それと同じ事です」
「わ、私が!?」

過剰反応。言われてティナは顔を赤くし、リィネに返す。「私……普段そんな風に見えるかしら」

「ジェノファリス城へ初めて来た頃より領主様と仲がよろしく見えます」
「本当に?」
「ええ、本当ですとも」

微笑み返すリィネの言葉に、ティナは口をもごもごとさせて少し返答に困った様で、しかし暫くすると何やら俯いて黙り込んでしまった。

「……私ね、本当の事言うと、良く分からないの」

ティナの言葉を不思議そうに受け止めるリィネに、

「生涯一人の妻を娶って共に暮らす様な城下の人達と私は違う。正妻なんて本当は形ばかりで、好き好んで通う女性は別に居る――それが私達の世界の常識でしょう。だから、私それを覚悟してここに来たのに、実際は全然違う」
「姫様」
「ソルは私しか城に置かない。その理由も良く分からないし、私のことをどう思っているかも判らない……一番困るのは、私自身、ソルディスをどう思っているか分からないこと」

ティナは顔を上げてリィネと視線を交えた。「ソルディスと一緒に居る時は楽しいし、いなくなった時は寂しいと思う。でも、そんな風に前より仲良くはなったけれど話しかけられるとドキドキして落ち着かなくて偶に怖くなったりもするの。これって、何だか変かしら」

そこまで聞いて、リィネは思わず微笑んだ。

「可笑しい、かな」
「いえいえ姫様。それは、とても良い事です」
「良い事?どうして?」
「それを、世間の方々は、俗に恋慕と仰いますもの」
「れ……!」

ティナはいきなり立ち上がると、それはもうさっきよりも顔を紅潮させて「ちちち違う!違う、そんなんじゃない!」ぶんぶん首を振って言葉を詰らせる。「私、恋なんてした事ないもの!」

「ですから、今、姫様は領主様に恋を」
「違う!」
「違うのですか?」
「違う……と思うけど」

事実恋なるものを経験した事の無いティナに、その理解は不可能であろう。
各言うリィネも、城に勤める庭師の男や下男に度々恋をした事はあるが如何せん立場の違うティナに自分のそれを当てはめる訳にもいかない。

「でも、領主様の事はお嫌いではないでしょう」
「意地悪する時は、嫌いよ」
「姫様が可愛らしいから、つい虐めたくなってしまうのでしょう」

だからそんなんじゃないって、ティナがまた首をふって否定しようとする。
途端、リィネの顔から笑顔が消えた。

「姫様」
「だから、私は」
「姫様、お静かに、――音が」
「え?」

リィネの強張った顔に、ティナが黙った。
音?
何が、そう思ってティナは耳を澄ます。


――パキン、


まるで、卵の殻を雛が破っていくような、小さく、それでいてか弱い破壊音。
軽く小さいけれど、確かにその音はティナとリィネの耳に届いた。

ねぇ、ソルディス。

ティナがソルディスを振り返る。だが彼女が、告げるまでも無かった。
振り返ったと同時に引かれた体は、さっきまで向こうで暇を持て余していたはずのソルディスの腕によるもので、同時にリィネの身もまた人化したグロチウスにより抱え込まれ川辺から強制的に引き離される。次の瞬間彼女達の目に入ったのは、あまりにも奇妙な光景だった。

突然何も無かったその空間に、まるで壁に入った亀裂のように、細い細い筋が入り込み、割れゆく音を立てながら、それは、徐々に大きさを増していき、ティナはその異様な光景に我を忘れ息を呑むしか出来ない。

「な、…何」
「ティナ、下がれ」

ソルディスの背後ろに隠される様に押しやられたティナは、抜剣までして構えるソルディスとグロチウスの行動に異様な緊張感を感じ取ると、自ずと足を後ろへ退いた。
彼女の恐怖に比例して破壊音は大きくなっていく。
殻を破るようだったそれは徐々にガラスが割れていくような強い音になってゆき、宙に浮かぶ皹は益々大きさを広げていく。歪の間から覗く世界がティナの眼前に現れる。それはまるでマァブルのように、混濁した意海の様に、ぐにゃりと、見た事も無い輝きと歪みを持って渦まいて、ティナは思わずソルディスの外套を握りしめた。

「――歪だ」

ソルディスの言葉にグロチウスは顔を強張らせ、彼もまた剣を強く握る。
ティナは、ただ、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、何も分からずただそこに居るしか出来なかった。
(何。何なの、コレ)

「ソル」
「前に出るな。死ぬぞ」

ティナに問い掛けの余地を与えずソルディスは言葉を投げた。
歪の出現、すなわち、それは異界の者の介入を意味する。
訳も分からず異界の地へやってきた者達は、それが獣であれ、理性を持ったものであれ、彼らもまた混乱の内に此方へ攻撃的になっているのが常なのだ。

ひゅ、と風を切るような音がした。
束の間、罅割れの音が止み、静寂が流れる。
鼓動。ティナの耳に届くのは自身の鼓動。そして川の水音。



「――来る!」

グロチウスの声と同時に、歪が大きく割り開いた。

歪の奥から、混濁の中から、突如“何か”が飛び出してくる。それが、長く異色の奇怪な「手」であると理解したのは、ソルディスが振った剣にばっさりと切り落とされ濃紫の血液を流しながらティナの足元に転がってからだった。
(何、手…何これ)
ティナは転がり込んできたそれを避けるように後退り、ソルディスから距離を取る。

歪からはこの世の物では無い呻きが響き、一度大きく開いた歪はまたその幅を狭めていく。
このまま歪は空間から消え去るか?
皆が息を呑み場を見守った、その時、

――ごぅ!

風切る音と共に狭まるその狭間から再び触手の如き手が溢れ出た。

「え、」

迂闊だった。
気を緩めた一瞬、消えゆく歪の間から伸びてきたその手は大きく弧を描きながら、遠く後ろへ退いていたティナの元へ、脇目も降らず襲い掛かる。

「……ティナ!」

碌な魔力も無く、武器も持たず、異界の者を初めて目の当たりにし恐怖に体が固まる彼女は、ただ己の両手で身を守る事しか出来なかった。固く目を瞑り、衝撃に耐え、未知なる力の痛みを喰らう――

その筈であった。

強く弾き飛ばされ背面の河に打ち付けられる筈であったティナに、しかし、その衝撃は襲い掛かってこなかった。代わりに聞える鈍い音、そして水の弾ける音、誰かの声。全ては混乱の内、瞬時に過ぎ去り、ティナは、恐る恐る目を開ける。


――歪は消えていた。
先程まで混濁を見せていた世界も、皹も、破壊音も、何もかもが、元から何一つ無かったかのように消え去っていた。だがしかし、ティナの目の前から消えたのは、それだけでは無い。


「……ソルディス?」


呟きは、河の流れ行く音に掻き消されるほど小さかった。
足元には異形の輩の残骸と、かの人の剣が其処にあるのみ。








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