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そう、どうしようも無かったのね。 門先に立ち腕を組んで溜息を付くニルの言葉に、膝を地に着かせ頭を垂れながら今すぐにでも自害せん勢いで唇を噛締めるのは、他でもなくグロチウスだ。 隣に並んで何度も何度も謝罪と無念の言葉を口にしながら同じく顔を上げる事が出来ないのは、リィネを始めとする従者の者達で、それもこれも全ての原因は彼らにとって誰よりも何よりも絶対的な存在である領主の不在であって、それを自己の責任と感じているからに他ならない。 ――領主様は、奥方様をお守りする為に、異界の者によって負傷いたしました。 それだけならまだ良かったかもしれない。 魔族の自己治癒力は人間のそれに比べて格段に優れ、少しくらいの負傷なら、魔力の強いソルディスにそれ程苦痛を与えはしない。この緊迫すべき状況を作り出しているのは、即ち、異界の者に負傷を強いられたソルディスが、そのまま触手に弾かれ抵抗をする暇も無きままに、早瀬に呑まれてしまったと言う事実であった。 「私が、……私の不覚で」 「仕方が無いわ。貴方、泳げないものね」 苦笑しながら――こんな状況で苦々しくとも笑いを浮かべられるのは彼女だけであろう――言ったニルの言葉に、しかし、グロチウスは慰められる事も無くただただ垂れる頭を重くするだけであった。 「ソルディスの意思よ。自分よりティナや侍女の身の安全を守れと日々常々言っていたのはあの子。そうでしょう?」 「ですが、このような事態になるとは」 「……気を取られたのね」 (ティナに、) ニルは、そっと視線を人の姿で項垂れる黒馬から、その隣の、一人の少女に移し変えた。 その姫君は、小さな両手でドレスの襞を握り締めながら、ただ、ただ一点だけをじっと見つめて、呆然と其処に立っている。彼女の視線の先は、他でも無い、小さく輝く銀細工の指輪であり、それは今ここに居ない彼の人の名残。 『私の所為なの』、開口一番言った言葉は彼女が思う全てを物語っていた。 それきり、涙を流すわけでもなく、混乱するわけでもなく、ただ、ぼぅっとした彼女は、とんと押せば今にも崩れ落ちてしまいそうな脆さを纏う。客観的に思っても、彼女に非があるとは到底考えられなかった。血儀を行なったとは言え、彼女は強い魔力も持たぬ人間に非常に近い生態そのもの――いわば、まだ幾年にも満たぬ魔族の幼子と同じ程 度の存在だ。そんな彼女が、異界の者を目の当たりにして恐れ戦かない訳は無い。ソルディスの忠告を守って後ろに身だって引いていたし、異界の者を刺激するような行動も行なわなかった。 全ては不運だったのだ。 そう納得するしか術は無い。 「スコッチフェルトが飛んでくれてるし、アヴァスに頼んで下流の方を探して貰っているけど。気失ってたら、結構流されているかもしれないわ」 ニルは溜息をついて、 「取りあえず中に入って休みなさい。落ち着くにしても、こんな場所じゃあ冷静にもなれないでしょう」 項垂れる家臣を立たせ、ニルは髪をかきあげた。 ――こんな事になるなんてね、 内心そう思っては居る。 グロチウスに責任がある訳でも、下男下女に、はたまたティナに責任がある訳でも無い。これは事故だ。 だが、こういった状況故のソルディスの不在と言うのは、後にも先にも例が無いことで、ああ、でも何年も前にどこぞの北方領主に誘拐の如く引連れられてふらりと片田舎へ消えたっけなぁとかどうでもいい事を思い出した。 「ティナ」 一人動かない(違う、動けない)ティナに声をかけた。 弾ける様にハッとしたティナの手をそっと握って、彼女も門前を後にする。 外は夕方。もうじき夕闇が辺りを支配する。 遠くで鳴く怪鳥の声を柄にも無く不吉に感じながら、ニルは、城の玄関へ足を向かわせた。 晩餐は咽喉を通らず、肩を叩かれるまで下女の声も耳に届かず、グロチウスの謝罪にも、ただ、貴方は悪くないと言う事を伝えるのだけが精一杯で、結局ティナの頭がしっかりと冴えて来たのは、主の居ない領主の部屋で一人佇む就寝の時間であった。 城の中は全くもって騒然としている。 唯一、執事たるロドメが、ニルと似た平生を保ってはいるが、その笑顔から普段の穏やかさは少しばかり欠けている。だって、“彼”は居ない。 スコッチフェルトは帰ってきた。だが、ソルディスはそこに居ない。 日が沈んでアヴァスが城へやって来た。ソルディスはそこに居ない。 今日はもうどうしようも無いのだという。漆黒の世界で無闇に動けば、逆に野獣を刺激する。下流の方は、レィセリオスやモロゾナの近隣を通っているから、もしかしたらという事でカステルに連絡だって送ってある。だが、未だに吉報は無い。 あとでクロムセリアがこっちへ来るから、そう伝え離れへ帰っていったアヴァスは、明日もまた下流を探してくれるのだという。 ありがとう。そう言うティナに、彼は、姫様は気丈な方だと、ただただ力不足で申し訳ないと、そう言って去って行った。 ティナはソルディスの机の前に立った。 ああ、終わった書類が積んである。 (今日、お出掛けする為に、終わらせてくれたんだっけ) 思ってティナは目を伏せた。 不思議なほどに涙は出ない。落ち着いているのか混乱しているのか、それすらも良く分からない状態だった。 ふと、彼の居ない部屋を見渡し、そして、誰も居ないベッドを見る。 自分の部屋で寝ても、ここで寝ても、誰にも咎められないのだけれど、ティナはそこへ腰を下ろした瞬間何ともいえない寂寥感に襲われた。 そのまま毛布とシーツの間に体を滑り込ませて、体を横たえる。 燭台の火を消した部屋は暗い。音も無く、聞えるのは、自分の吐息。感じるのは冷たいシーツの感触、広いベッド。 昨日、一緒に寝たのにね。 ティナはシーツに蹲って目を瞑る。 寝れない、当たり前だ、だって、今になって気付くけれど、結婚してから彼はいつだって傍にいた。 彼の言葉を聞いて、彼に頭を叩かれたりして、彼の手に触れて、触れられて、温もりを感じて――その度に彼はティナの中で大きな存在になっていく。指にだって、ほら、小さくたって彼の正妻を証明する輪がそこに在る。 ティナは、何だか前にもこんな事あったな、と思って、それは、そうだ、カステルがソルディスとの結婚話を急に持ってきたときだと思い出した。 でも辛いけれど、あの時とは比べ物にならないくらい、何か、違う痛さが体と頭を支配する。 何か、自分の周りの世界が壊れたような気がして、――いつの間にかソルディスが傍にいる生活が平生となっていた自分に、ティナは驚いた。体の奥を本当にぎゅっと握りつぶされるような心の痛さは、拭おうにも拭えない。 冷たく冷えたシーツを握って、その痛みに一人耐える。 そのまま眠れず孤独で静かな夜を彼女は過ごした。 定期的に秒針は、主の居ぬ部屋で時を刻む。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ その男は、静かに瞼を開けると、目の前に見えた視界がぼんやりと滲んでいて、すぐにまた目を閉じた。 耳には、鳥の声と、水の音と――嗚呼、誰かが此方へ来る音が聞える。 誰だ、 この、歩み寄る足音は 彼は脱力した体を動かそうとしたが思い通りに動かせず、思わず咽喉で呻く。 ――生きてる? (声がする、) ――息、してるわね。 そっと触れられた頬に伝わる温もりに、再び目を開けようとして、ようやく少しだけ明瞭な輪郭が瞳に入った。滲む視界に、眩しいほどの日差しと、そして、誰かの影。誰だ、そう問おうとしても声が出ない。 「大丈夫。もう、安心して良いから」 見える淡いブロンドに、痛む頭で、無意識に、誰かの姿と似てると少し考えながら、そうして彼は再び目を瞑った。 徒労した体に触れた温もりに、安堵を感じたのは、嗚呼、幾年ぶりの事だろう。 |