5
月下零の咲き乱れる河のほとりを下っていけば、水の流れは穏やかになっていく。 レィセリオスと近いモロゾナの傍を通る流れもまた、実に穏やかなものだったから、成る程ここなら流れ着く者も流れ着くだろうとティナはぼんやり納得した。 ソルディスの生存を聞いて、一晩。 昨夜は変な夜だった。一睡も出来ないのに、何を考えていたかも覚えていない。 彼の元へ行く為に用意された馬車は、乗り心地が悪かった。 いつもの馬車じゃない、程度の悪い馬車である。少しの揺れでも腰に響き、どことなく狭い。 身分を隠す質素な服は逆に着心地が良かった。飾り物もつける必要がなく、今のティナはどこらどう見てもモロゾナかレィセリオスの一市民の小娘で、その風貌は、横に座るニルも同様、自分自身少しばかり奇妙な気がするものだった。 グロチウスは休みもせず、黙って馬車を引いていく。 空を舞いながら周囲を警戒するアヴァスもまた、人間に姿を見られぬようふらりふらりと物言わず旋回を続けているようだった。 空はまだ明るいが、時期に夕闇が来る。 それまでに、己を忘却しているというソルディスの元へいかなければ。ソルディスのもとへ、逸早く―― (会って、どうするの) 小窓から流れる木々と蒼い空を見上げながらティナは思った。 負傷したソルディス。 自分の事を忘れたソルディス。 領主の事も魔族の事も城の事も何もかも、ティナの事すらも忘れているソルディス。 会ってどうする? 無理矢理引き戻すのか、そう聞けば、出来ない事も無いけれども会ってみない事にはどうしようもないと溜息をつくばかりのニル。様子はどうだったのかと聞けば、すっかりありゃあ庶民ですぜと苦笑するアヴァス。顔を青くするリィネ、曇った表情のグロチウス。 誰もがこの状況に、頭を悩ますばかりであった。 アヴァスの偵察が正しければ、ソルディスはモロゾナの領地内における、街外れのある家で体を休めているのだと言う。 ――休んでいるのか暮らしているのか、微妙なところね。 昨晩のニルの言葉に、ティナが思わず言葉を詰まらせたのは正直な反応だった。 「ティナ」 はっと、思考の世界から引き戻される。 ティナが目をぱちくりさせながら振り返れば、ニルが手を握りながら問うてくる。 「大丈夫?馬車、止めて休ませる?」 「まさか、全然平気よ」 言って、ニルの手を握り返す。 ティナは首を振りながら、少し困ったように笑って、 「ニル姉と二人でお出掛けするのも、初めてだなって思ったの。こんな遠くまで――モロゾナの街外れって、来た事も無かったし。すごいのね、お花、いっぱい咲いてる!」 月下零じゃなくても、綺麗な花はいっぱいあるのね、 笑うティナに、ニルは一瞬呆気を取られて、しかしすぐに笑顔を返した。 「そうね。今度は、ト・ノドロの城下町にも下りたいわ」 「本当?やった、皆で城下にお出掛けね!すごい楽しみ」 喜ぶティナの笑顔がどんなに明るくても、ニルにはそれを気の毒に思う事しか出来ない。 出城の話一つすら辛く感じるこの状況が心底疎ましい。 ああ、でも、窓から見える野道の花々は、本当に綺麗だとニルは思った。自然はいつだって美しい。 空に朱色が滲み始めたころ、不意に馬車が止まった。 キィ、と軋む音がして、続いて、扉が開かれる。人を為したグロチウスが、ティナの手を取り馬車から下ろし、続いてニルの手を取り同じく馬車から静かに下ろす。 外は生暖かい風が吹いていた。 さぁ、と髪を撫ぜる風に身を任せるティナの目の前に広がる光景は、長閑な自然。 向こうには森。魔族が蔓延るナスリカから続く森。遠くにはモロゾナの中心街が見え、街のざわめきは此方まで届かない。遥か遠くには、あのフィルが居るであろうモロゾナの城が建つ。 そんな、家々が密集している中心地からやや離れた、この小高い丘にその家はぽつりとあった。 二階建てで、庶民の一軒屋と呼ぶには少し大きく、でもとても質素な木造りの家。 遠目に見ても人影は無い。声もしない。まだそれ程暗くもないから、家の中から蝋燭の明りも見えなかった。 空を見れば、既にアヴァスは居ない。 ここはもう人間の住む領地だから、彼の姿は当然人々に混乱を与える。(彼等は今だ、魔族の存在を信じては居ないのだから、) 「アヴァスは、クロムセリアの元へ戻ったのね」 「そうよ。彼はあの子の執事だから」 「クロムのいる離れへ?」 「クロムには今日からジェノファリス城に来て貰うことにしたわ。私達と入れ替わりにね」 そのズレは、貴方とクロムを会わせない為だと、ニルはその言葉を言わなかった。 そんなニルの心情に気付かぬまま、ティナは、なら城は安心ねと微笑むと、目前の家へと小走りに駆け寄っていく。 「ティナ、」 「大丈夫。ちゃんと、身分は隠すから!ねぇ、ソルディスは家の中に居るのかな?」 まるで親族の元へ会いに来た少女のように、ティナは明るい声で短く刈られた草の上を駆けて行った。 ああ、転ばなきゃ良いけれど―― 思いながらニルは眉を顰めながら腰に手を当て溜息を付く。 どんどん遠く、家のほうへ走っていくティナを見ながら、ニルとグロチウスもまたゆっくりと歩き出した。 「――奇妙だ」 そっと声を潜めたのはグロチウス。 「気配が、奇妙です」 「分かってる。変な魔気、すごく感じる。記憶の無い誰かさんが、自分の力を調節出来ていない所為かしら?」 「分かりませんが、やはり、何か違和感が――」 「まぁ、行ってみない事にはどうしようも無いわ。取りあえず、あの子に会わなくちゃあね」 言ってニルはひらひら手を振った。 人間にあらぬ者達の草を踏みしめる音だけが、静かな丘にそっと鳴る。 玄関のベルを鳴らしても音がなく、窓から中を覗こうにもカーテンが閉ざされていたので、ティナは一人首を傾げながら困り果てた。人の声も、物音も、犬の声も何もしない。虫の音が響き森の向こうから木々のざわめきが聞えるだけで、あたりは静寂に包まれている。 ニルとグロチウスが来るのを待つ間、ティナは、仕方無しに家の周りをぐるりと回って、庭と思われる辺りを歩いたりしてみた。 もしかしたら、ひょっこりとあのソルディスが現れて、遅い一ヶ月も迎えに来ないで何をしていたんだと不機嫌そうに冷たく言い放つ様な気がして、ティナはぷらぷらとそんなことを思案しながら草の上を歩いた。 民家にしては大きな家だ。何か、商売をしているのだろうかと思い、家の二階を見上げる。 一階と同じく灯りも見えず人影も無く、誰も居ないだろうと思われるその上部を見上げながらティナは草を踏みしめた。 変な気分だった。 会いたくて会いたくて仕方の無い人を探して会いに来たのに、こんなにも風景は長閑。 ティナは、もしかしてアヴァスは幻覚を見たのではないか、なんておかしな事を考えて、一人苦笑した。 その苦笑を合図にするよう、一際強く、丘に生温い風が吹きつける。 わ、髪、グチャグチャ―― 今はその身形の崩れを咎める者も居ないのに、ティナは頭を抑えながら目を瞑った。 指先で淡いブロンドを整えながらも、そっと目を開ける。 「おねえちゃん」 唐突に聞えた声に、前方に目をやった。 「おねえちゃん、だれ」 まるで、今の風に運ばれてきたようだ。そこに居たのは黒い髪で、蒼い目をした一人の男の子。 少年というよりは少女に近い顔立ちで、まだ五つ、六つの年頃の子だった。 ティナはしゃがんで、歩み寄ってきたその子と視線を合わせる。 「この家の子かな」 「そうだよ。僕の家、ここ」 「お母さん、いるの」 「むこうにいる」 「そう――」 「おねえちゃん、遊ぼう?」 少年は、ティナの手をきゅっと握った。 「おかあさん、野苺をつんでばかりなんだ」 「あのね、お姉ちゃんね、実は」 「セト」 不意に、家の影から声がした。 自分の名を呼ばれた訳ではないのに、弾けた様にティナが顔をあげれば、夕日を背に、一人の男が其処に立っていて――不思議と、その姿をはっきり見つめようとした筈なのに、何故か、ぼやけて、ティナは思わず目を細めた。 少年は、男を振り向いて、「ネイビス」そう、名を呼んだ ネイビス、 ティナは頭の中でその名を繰り返した。そして、目の前の男を見た。 さぁ、と風に揺れる黒髪。 その前髪の奥に見える漆黒の双眸は、何故だろう、酷く恐ろしいはずなのに酷く懐かしくて、思わずティナはその場を蹴って走り出し目の前の彼を抱きしめたい衝動に駆られた。それは、固まったままの体じゃ出来ない事だけど、心だけは、彼を、これ以上に無く強く抱きしめているような感覚で、ティナは知らぬうちにセトと呼ばれた少年の手を強く握ってしまっていた。 男は、セトと共にそこにいる少女を、不思議そうに、いや、寧ろ無感情な瞳でじっと見据えていた。 風に揺れる前髪を煩そうに目を細め、一歩、その場から歩み寄る。 「セト、その人は」 「おねえちゃん」 「客か?」 「僕と遊ぶの」 セトは、ティナの手をぐいっと引っ張った。 「セト、夕食の時間だ。家に入って」 「いや」 「困った子だな」 そういって、ネイビスたる男は笑った。 ――笑ったのだ。 ティナは、その瞬間思わず目を見開いた。 こんな風に笑う男を、姫は、見た事が無い。無かった。 「君は、客人か」 幾日も聞きなれた筈の心地よい声が、見ず知らずの他人のそれに聞えた。 ティナは慌てて立ち上がり、自分でも何だか変だと思うような笑みを浮かべて、セトに手を繋がれたまま返事をしようとしたけれど、声が上手く出なかった。 ティナは呼びたかった、彼の名を。 ――ソルディス、と。 会ったら言いたい事がいっぱいあった筈なのに何一つ頭に浮かばない。 そんなティナの沈黙を奇妙に思ってか、男もまた、訝しげに口を閉ざした。暫しの沈黙。セトは不思議そうにティナを見上げ、そして、黙って首を傾げる。 「セト、ネイビス」 その沈黙を消し去ったのは、一つの柔らかな声だった。 その声は、ネイビスと呼ばれる男の後方から聞え、その声が聞えた途端セトは可愛らしく笑顔を浮かべる。 「おかあさん」 ティナの手を離し駆けて行く先に、野苺をいっぱい摘んだ籠を抱えて、あらあらと微笑みながら歩み寄る女性が一人。 綺麗なブロンドだった。 綺麗な笑みで笑っている。 儚げで、美しく、どこか温かく、可愛らしいその人は、少年と同じ蒼い瞳で―― 肖像画の人みたい。ティナは、何故かそう思った。 「一人で森の奥まで入るなと言っただろう、アリシア」 「だって、ねぇ、見て。こんなに美味しそうな実がいっぱいあったのよ?」 男の言葉と女の言葉が、遠くに聞えた。 ティナは紅い瞳で二人を見る。 体は一寸も動かないほど凍っているのに、風は、こんなにも温かい。 |