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「もう少しソルディスの様子を見たい?」 ニルは、確かに固くて寝心地の悪そうなベッドに腰掛け、入り口の所に立って此方を見据えるティナを見た。グロチウスはニルの傍に立ったまま、少しばかり驚いた様子で姫君を見る。 「うん、……もう少しソルディスをそっとしておきたいの。ニル姉も、すぐにソルディスを城に連れて帰るつもりじゃ無かったでしょう」 「まぁ、それはそうだけど」 さして深刻に困った様子も無く、ニルはちょっと首をかしげて考えた。 「ソルディス、きっと疲れてるの」ティナは言う。「今まで、凄く疲れてて、今ちょっと休みたがってる――そんな気がするの。だから、もう少しここで休んでいて欲しい。クロムや、城の人たちには迷惑かけるかもしれないけれど」 「仕事の方は大丈夫。気にする事無いわ」 でも、「ティナ――貴方は良いの?」 言葉に、ティナは、静かにそっと目を閉じた。 落ち着いた声で、「ソルディスが、それを望んでいるの」そう続ける。 “ネイビス”は、ティナに言った。 目が覚めたとき、何も分からぬ自分に、安堵感を与え介抱してくれたのはアリシアだと。 記憶を失い取り留めの無い日々を送る自分に、花の彩と木々の青さを教え、甘い果実の実に触れさせたのは彼女だと。 もうじき、傷は治る。いつかは、自分が元居た場所へ帰らなくてはならないかもしれない。 しかし、今は、何もかもを忘れている今は、こうして彼女がしてくれた事の恩を返していたいのだと。 「ソルディス、きっと今まで凄くいっぱいの事抱えて疲れてたんだと思う。私はそれに気付かなくて、何もする事が出来なかったけど……でも、だから、今はソルディスがやりたい事をさせてあげたいの。わがままな話かもしれないけれど」 それを聞いてニルは、考え込むように唇に指を当てながら、グロチウスの方を見て、 「どう思う?」問いかけるが、グロチウスは困ったように顔を顰めて、姫君のほうを見るばかり。 彼にしてみれば、主人には主人の居るべき場所に居て欲しいだろうし、一刻も早く記憶を取り戻して欲しいというのが本音だろう。しかしながら立場の関係、そんな己の主張を声にして姫君に押し付けるのも気が引ける。 「――無理矢理、記憶を戻そうと思えば出来ない事も無い、筈なのよ」 ニルは呟いた。 「以前仰ったように、ナン・ランに頼むのですか」 「それも考えてる」 「ナン・ラン?」 首を傾げるティナに、「ト・ノドロに住む、老齢の術師よ」ニルは答えた。 「魔術には、色々あるのよ。火や水を使う術や、治癒回復のような基礎的な呪いから、記憶や言語能力を操る高度な術まで。ティナも、幾つかソルディスから教わったでしょう?」 「火や水系は少し。ちょっとした蝋燭くらいの発火をさせたりとか、雫を少し出せるくらいだけど」 「そういうのは、貴方の様に魔力が低くても使える初歩的な魔術に類するのよ。でも、複雑な上級魔術は体力の消耗を強いられる。魔力が強くないと出来ないし、まぁ、自分と術の相性っていうのもあるしね。そういうわけで、限りなく高度な術って言うのは使える魔族も自然と限られていて――特に、そういう記憶や精神に関する魔術を扱えるのは、ト・ノドロでは主に二人くらいしかいないのよ」 「二人?」 「一人はナン・ラン。もう一人は、ソルディスよ」 ニルは溜息を付く。 「ナン・ランの所へソルディスを連れて行けば、確かにソルディスの記憶はすぐにでも戻せるかもしれない。以前――アレは何百年前かしら、城下でナン・ランがある男にその術を施した事があったわ。彼も、記憶が無くて何処の誰かも分からない人だったけれど」 「その人は、今」 「今は居ないわ」肩を竦めるニルに、グロチウスは瞼を伏せる。「死んだのよ、彼」 「死んだ、」 「そう、死んでしまったの。急激に、数百年分の記憶を取り戻して、体にも頭にも、何より精神にも負荷がかかり過ぎたのね。きっと、負の記憶の方が多かったんでしょう」 「記憶は時に生きる糧とも成り得るが、同時に、死すら齎す過重な荷とすら成り得る――」 グロチウスが続けた。 「それは、貴方もご存知の筈です」 ――嵐の夜。 頭の中の、ほんの片隅に押しやっていた記憶によって、あの様な事態を引き起こしたのは誰だったか。 ――クロムセリアの言葉に。 その忘れていた筈の薄く浅い記憶にすら苛まれ、彼の言葉を遮り逃げ出したのは誰だったか。 「そうね……ティナが、誰よりも分かっているわね」 ティナは息を呑んだ。 「過度な負の記憶を一気に背負わせる事は、ともすれば死を齎す。……ティナが言うとおり、あの子には、休む時間が必要だったかも知れないわね。時間的なものでなくて、精神的に安定できるような休息の時間が」 ニルは髪をかき上げながら、 「良いわ、もう少し様子を見ましょう」 「ニル姉、」 「ただし、一ヶ月。もう一ヶ月経って何も変化が現れない様だったら、記憶の有り無しに関係なく“ネイビス”は強制的にト・ノドロへ連れて帰るわ。今は、ナン・ランには事態だけを伝えておいて、最終的には彼女に術を施してもらう。最期の手段って事ね」 「――ありがとう」 そっと、安堵の溜息。 笑みを浮かべて礼を言うと、ティナは、足早に自分の部屋へ戻っていった。 城の事は大丈夫。 城下の事も心配ない。 ナン・ランによる施術だって、大丈夫、きっとあの子なら重い記憶にも耐えうる筈。 今の所、何も、慌てて心配する事は無いのだけれど――その一ヶ月、ティナ、貴方は、本当に「耐えて」いられるの? 最後の最後に問いかけそうになったその言葉は、しかしニルの口から発せられる事は無かった。 言えば、きっと姫君は笑う。「大丈夫よ」と何事もない穏やかな顔で。 「言えばあの子、きっと崩れるでしょうね」 髪をかき上げ顔を顰めるニル。グロチウスは少し不思議そうに、「何をですか」 「あの女、似てるのよ」 「アリシア・セレステですか」 「そう」 「――“彼女”に」 「そうよ」 視線を合わせる二人。 ニルはベッドから立ち上がり、グロチウスの前に立つ。 一瞬の沈黙も束の間、ニルはそっと悲しそうに微笑んだ。「ソルディスの記憶、無くなってて良かったかも知れないわね」 だって、あの子きっと動揺するわ。 ニルは言いながら指先で、つぅ、とグロチウスの頬を、唇を、顎を、首先をなぞり――ふと、心臓の位置でぴたりと動きを止めた。 「エリザ・クリスティーン」 嗚呼、その名は。 幾年も昔に封じたその名をニルが再び口にするのは、どれだけ久しい事だろう。 「バン」 ふざけた様、ニルは言って、指先でグロチウスの胸を突いた。 それはまるで、何かの、何かの再演であって、 「エリザも、よく、ソルディスに向かってああいう風に笑っていた」 「……ニル、」 「“ソルディス、貴方、変な人”」 (――ソルディス、貴方って、変な人ね。それじゃあ、まるで、魔族じゃないみたい――) 「ソルディスは、きっと、寂しかったのよ」 「――ニル」 「だから、あの子は殺したの」 彼女の言葉を止めさせようとするグロチウスの手。 踵を返し、するりとニルは窓辺へ逃げた。 「貴方も見ていたでしょう。全てを」 「私は常に主の傍に居りましたから」 「エリザは泣いていた。でも、笑った。笑ってくれた。きっと、死ぬ時も――……。ああ、グロチウス。ティナは、一体いつになったら泣くのかしら」 夜闇をぼうっと見つめるニルの背中を見、グロチウスは、暫しの考えに耽り、そして、沈黙の後静かに答えた「あの方はいつも泣いておられる様に思えます」 その言葉に、ニルは少し笑って、「正解」そう言って頷いた。 |