ふ、っと、頬を触る暖かな手。

面白げに私の顔にあるその柔らかな膨らみを突く指は、飽きる事を知らないようだ。
眠たい頭のままで、私は、私を弄って遊ぶその指をそっと緩く掴んで返した。

(ソルディス、)


子供じゃないんだから、止めてって言ったのに。
どうせ抓って、触って、怒る私を見て楽しむんでしょう

ああ、ほら、またそんなにからかって本当に、本当に、意地悪な人。
でもね、知ってる、本当はね、貴方は、とても、

とても、


「おねえちゃん」


聞き慣れない声に、びくっと肩を揺らして、咄嗟に重たい瞼を開く。

「……あ、……セト……?」
「おねえちゃん、朝ごはんっ」

少年は、くりっとした、あの優しげな女性と同じ蒼の双眸と、漆黒の、ソルディスと同じ黒い髪をその身に持って、此方を可愛らしく覗き込む。


(視界に広がる世界、いつもと天井が違くて驚いた)
(ちょっとだけぼうっとして、そして、ああ、ここは城じゃあないのだと気付いたと同時に胸の真中の奥が一層激しく押し潰されそうになったのは、そう、きっと、私の気のせいだ)














暖かなスープと、果物、一欠けらのパンを目の前に、そして、親子の様な三人の姿を眼前にして、ティナは、頂きますと静かに笑った。

朝食。
それを、これほどまで辛く思ったことなど無かったのに、一ヶ月前から、ティナにとって、食事が億劫。
億劫という言葉よりは、空虚という言葉の方がしっくりくるのかもしれない。
思いつめて思いつめて食欲が混乱しているという現象は、珍しい事だったから、そんな状態になっている自分を自覚してまたティナは一層思い詰める羽目になった。思考の、負への加速は、誰にだって止められない。

それでもティナにとって、唯一救いだったのは、何もかもが純粋で無邪気なセトが、彼女に屈託無く話しかけてくることだった。


「おねえちゃんと、ご飯食べたら、遊ぶの」

ミルクを飲みながら言うセトに、調理の際に結い上げたままの髪を美しく揺らしてアリシアは、嬉しそうに笑った。

「あらあら、セトったら。ティナさん、貴方、セトにとっても気に入られちゃったみたいね」
「おねえちゃんと、遊ぶ」

一人早く食事を終えたセトは、まだ椅子に腰を下ろしてミルクを飲むティナの脚によじ登り、抱っこの体勢で抱きついた。

「あ、わわ、セ、セト…っ」
「あらティナ、良いわねー。まるで姉弟みたいよ?」
「ニル姉ったら、ちょ、…セト!危ない、落ちる、落ちるってば!」

小柄なティナの体に抱きついて動こうとするセトを慌てて抱きしめながらもこぼれ掛けたミルク入りの杯をしっかり押さえる。
柔らかなセトの小さい体を抱きしめながら、ちょっと戸惑ったけれど、彼の無邪気な可愛らしさに、思わず笑みを漏らしたティナは一息ついて、

「そうね。ご飯食べたら、おねえちゃんと、お外に出よっか」
「うん」
「ニル姉とグロチウスもね」
「私はアリシアさんの仕事を手伝うわ。グロチウス。貴方、ティナについていってやりなさい」

アリシアの仕事というのは、つまりは、家事だ。
グロチウスは、そんな仕事をニルにさせることに少し眉を顰めたが、第二の主とも言える彼女の言葉である。そこは渋々ながらも飲み込んだ。

アリシアは、セトに遊び相手が出来たことを純粋に喜んでいるのだろう。
本当に嬉しそうな笑顔で、

「ティナさん、貴方が来てくれて本当に良かった」

優しくそう言った。

「セトはね、初めて会う人にあまり懐かないの。ネイビスが初めてこの家に来たときも、全然懐かなかったのよ。すっかり怖がっちゃって、顔を合わせようともしなかったもの」
「そういえば、そうだったな」
「きっとね、ティナさんは、子供に好かれる素質があるのよ」

ネイビスは苦笑しながら、食事を全て食べ終えると、一足先に、仕事があるからと席を立った。
仕事?
ソルディスが仕事?もしかして家事とか、家事とか、家事とか、家事とか……?

思ってティナは、咄嗟に少し笑ってしまった。

「おねえちゃん、なあに?」
「あ、……ううんゴメンね何でもないのよ」

慌てて手を振るティナを不思議そうに見ながらも、ネイビスは、特に何も言わずその場を去った。

――高い背。揺れる黒髪。物静かなその動き。

見慣れた、けれども今は他人同然の彼の後ろ姿を不自然でない程度に見送りながらティナはセトの頭を撫でた。
セトの柔らかな黒髪が、彼のそれを彷彿させて、セトの純粋に澄んだ瞳が、アリシアのそれを彷彿させるのは、ティナにとって何故か不思議と心苦しかった。敢えてその理由は考えない。この子は、目の前にいるセトは、本当にとても愛らしい。この子を見る度辛い思いを抱くなど、そんな、嫌な思いはしないに限るに決まっている。

あまりに無邪気に懐くセトを見ていてティナは、
(ああ、子供って、何だか良いな)
生まれて初めて、そんな事を考えた。












アリシアの家は小高い丘の上にある。
モロゾナの中心地である、繁華な城下街を一望できるこの丘には、常に風が吹いていた。
昼夜問わず吹き込むそれは、時折鬱蒼とした森の方から湿った空気を運んで来、また時折城下の方から乾いた風を持ってくる。

ここは、騒がしい城下のそれから隔絶された暮らしに思えた。
彼女の大きな家を背にしてティナとセトが立つこの地は、城下の熱気に中てられた風が身を休める憩いの地にすら感じられる。


モロゾナ前国王バドルが死んでから数ヶ月――ティナの目の前であの暴君が血達磨になって最早数ヶ月が経つ。
かの産業大国は、相変わらず工業を主とした産業を糧としていて、しかしながら国の頂点に立つ人物が彼の聡明なる青年フィル・リノマンに指し換わったおかげで、国民の過労は大分激減したと小耳に挟んでいたティナは、城下街とそして聳えるモロゾナの立派な城を眺めながら、フィルは今頃頑張っているのだろうなと心の隅で懐かしく思った。

丘からぼうっと景色を眺めるティナを訝しげに思ってか、セトはティナの手をくいっと引っ張って、可愛げに顔を覗き込んできた。

「おねえちゃん、何、見てるの」
「――ん」

ティナはセトの視線に合わせてしゃがみ込み、「ずっと、ずっと向こうにはね、おねえちゃんのお友達が居るの」優しく微笑んだ。

「お友達」
「そ、お友達」
「おねえちゃんも、僕の、お友達?」
「そうね――うん、そうよ。私、セトのお友達よ」
「ホント」

セトはティナにぴったり抱きつく。
そうか、そうよね、城下街から離れたこの地に暮らして行れば、同年代の子と会う機会も少ないかもね、――ティナは思って、セトをぎゅっと抱きしめた。

抱きしめて、穏やかな気持ちになって、ティナはセトの黒髪を見ながら、(ソルディスと私に子供、居たら、こんなだったのかな)、ふと思った。思って、その思いは強く掻き消した。そんな考え意味が無い。彼らには、子供は居ない。


「ね、セト」
「なぁに」
「おねえちゃんと、何して遊ぼっか」

ティナはセトの手を握って首を傾げながら言った。

ティナにとって、ティナを王族とも貴族とも知らず接してくる子供と触れ合う機会など生まれ持って初めてで、実際どういう遊びをこの年代の子供が好むのか、残念ながら王女様には到底検討が付かない。
セトが楽しくてティナもちゃんと付き合える、そんな遊びは一体何か。取りあえずちょっと考えこんで、

「えぇと、二人でかくれんぼとか」
「二人だったら、すぐ見つけちゃう」
「じゃあ、一緒にお花摘みとか」
「お母さんと、いつもお花つんでるよ」
「お、おねえちゃんと一緒に、あのお兄ちゃんで遊ぶとか……」

遠くで指差されたグロチウスはぎょっとしながら一体貴方は何をするつもりですかと顔を顰めてティナを見つめた。
うん、ごめん、ちょっと馬になって欲しいとか考えたけど、セトの前でそれは無理よね、
ティナは困り果てて首をかしげて、セトを見下ろす。

「セトは、何がしたい?」
「おねえちゃんと遊びたい」

返って来る答えはいつも一つだ。

「――じゃあ、お散歩しよっか」

ティナはセトの手を握って笑う。

「ここら辺の案内、してもらえるかな?おねえちゃん、来たばかりでここの事何にも知らないの」

言葉に、セトは嬉しそうに大きく頷いた。






















セトに手を引かれながら歩くティナを、そしてその後をついて行くグロチウスを、堂々と迎え入れるのはナスリカから続いてくる生い茂った巨大な森だ。

「セトはいつも森で遊んでいるの?」
「お母さんには、ないしょ」
「どうして?」
「一人で入るのはあぶないからって。お母さんと、ネイビスと、いっしょじゃなきゃダメなんだって」

ネイビスと言う名を聞くたび胸が疼く癖は治さなきゃダメだなぁとティナは思いながらも、セトの手を握り返した(獣とか、出ないのかしら)

「でも、グロチウスがいるから、安心ね」
「――あまり過剰に頼りにして遊び回らないで下さいよ」
「ソルディスが居なくても、ちゃんと私の護衛しなきゃ。後で、グロチウスが怒られるんだから」

小声で囁き屈託無くクスクス笑う姫君の笑顔に、少し複雑そうな思いを抱くグロチウスを他所に、セトはティナの手を引いてぐんぐん森の奥に入っていく。
鳥の鳴く声、木のざわめき、三人の歩く音。
青々とした木々には赤や橙の実が成下がるものもあり、また、足元に咲く花々には、桜色や山吹色のもの、ティナが好きな月下零も混じっていた。花の香りと木々の香りは濃くつんと鼻にきて、それは思わずむせ返りそうになる程である。――空気が少し蒸し暑かった。ああ、もう、そんな季節が来たのだと。ソルディスが居なくて、彼の帰還を待つ間にも鬱陶しい嵐の時期は去り、既に熱帯夜が襲うあの季節が来たのだと。夏虫の鳴く声も耳に掠めながらティナは改めて思い返した。

上を仰げば、目に差す木漏れ日。

眩しげに目を細めながら、ティナは、「セト、あんまり奥に入ったら危ないわよ」注意を促す。

だが、セトはティナの言葉が聞えていないかのように、寧ろその歩みを急かす様にぐんぐん森の奥深くへ歩みを進める。ティナは不安に思ったが、いざとなればグロチウスが居る、ここで無理にセトを引き返させようとはしなかった。

急げ、急げ、

そう言われている様な、セトの歩みに、ティナは知らずうちに小走りになる。

慣れない薄手の衣服の裾を、ドレスの癖でしっかり掴み持ち上げながら、ティナは、転びそうになりながらも幼子の後を息を切らしながらついて行った。



「――あ、っ」


咽喉で小さな声を漏らしたのは無意識であるため抑える事は元より不可能だった。

セトが歩みを緩めたかと思えば其処には、少し拓けた野と、そこに立った、一人の、見慣れた男の姿が。


「ネイビス」

セトはティナの手を掴んだまま、その、麻袋を地に置きながら此方を見据えて草むらの中立ち尽くすネイビスの元へ駆け寄って行く。

「くさびよもぎ」
「セト」
「くさびよもぎ、取れた?」
「ああ。やはり、ここら辺が一番生えているらしい」
「――楔蓬?」
「楔蓬は、傷の治療に用いられる薬草の名です」

聞き慣れぬ植物の名に一人首を傾げるティナに、助け舟を出すのはグロチウス。

「お母さん、いつも、くさびよもぎのはっぱでお薬つくるの」

セトはネイビスが持っていた袋の中をごそりと覗くと、片手いっぱいに、その独特な形をした薬草を握り締めた。

「困ったな。すぐに葉が潰れるぞ」
「おねえちゃんと一緒にとるの」
「手伝おうと思って、ここまで入り込んできたのか?」

言って、ネイビスはセトを抱き上げた。

あ、なんか、変なの。

思わずティナは目を見張る。
記憶がある頃の彼から、こんな小さな子を抱き上げる姿なんて想像が出来なかったからティナとグロチウスにとってこの光景は奇異だった。ティナは、ああ何だか本当の親子みたいだなと他人事のようにぼんやり思いながら、その姿から目を逸らすようにして、辺りの地面を見渡した。

「わ、グロチウス、本当にここいっぱい生えてる。さっきまで全然見当たらなかったのに――」
「楔蓬は森の奥深くにしか生息しません」
「何だか綺麗ね、棘々した葉だけど、形、すごい整ってる」
「外的から身を守るための保護要素です。迂闊に手で触れれば切れますよ」

言葉に、ティナは、彼の顔を覗き込んで、「……そういう、つれない答え方」、不機嫌そうに言った。

「……なんですか」
「情緒が無いそういう言葉、まるでどこかのご主人様にそっくりよ?」
「――」
「やっぱり、似ちゃうのね。あー、私なんだか悲しいわ」
「奥方様は昼間から夢見がちなのですよ」
(ちょっと、酷い!ソルが戻ってきたら、しっかりと言いつけるからね!)

自分で囁いて、ティナは、少し噴出した。(――やだ、何か、ソルとお話してるみたい)

そういえば、グロチウスとこういう風に二人きりでいっぱい話すのはじめてかも。
ティナは嬉しそうに言って笑い、彼は彼で複雑そうに顔を顰めて目を逸らすばかり。

そんな二人を見上げてセトは、首を傾げながら、


「おにいちゃんとおねえちゃん、仲いいの」

頬を膨らませていった。

「だめ、おねえちゃん、僕のお友達」
「あ、うん。そうね、ごめんねセト」

目の端に涙を溜めて笑いながら、ティナは彼の頭を撫でた。

「さ、ほら、三人でネイビスさんの薬草取り、手伝わなきゃね。お昼までに戻らなきゃ、アリシアさんに怒られちゃうわよ?」
「――ネイビス、で構わない」

ティナに言う彼は、辺りを見回しながら溜息をついた。

「敬語はあまり好きじゃないんだ――ほら、セト、あまり其処にしゃがむな。毒虫が居るぞ」

あ、はい、ごめんなさいと言葉を詰まらせながら、ティナは渋々頷く。
――ソルディスって本当は敬語嫌いなんだ。そういえば会った当初も、ソルディスに対して敬語だったと懐かしく思い返しながら、ちょっとその思考の端には、彼とよそよそしさもなく打ち解けるアリシアの口調を思い出しながら、ティナはグロチウスを見上げる。

(敬語は嫌いだってさ)
(なんで私に言うんですか)
(いや、ね。どうせだったら記憶が無いときくらい、ソルディスに乱暴な言葉使ってみるとか)
(失礼な……後で怒られるのは私なんですよ)
(無礼講無礼講。どうせなら気軽に肩でも抱いて主人飼い馬共々中睦まじく語るって言う)

「おにいちゃん、おねえちゃんとっちゃダメッ」

セトは、グロチウスとなにやらボソボソ(彼から見れば)楽しげに話すティナに抱きついて、キッとグロチウスを見上げた。こんな年頃の男の子に慣れていないグロチウスは、戸惑った表情を見せながらも、ティナから一歩距離を取る。

「あら、セトに嫌われちゃったみたい。ごめんね、おねえちゃん、お兄ちゃんとばっかり話してて」
「……て、誰」
「ん?」
「おねえちゃん、ソルディスって、誰」


唐突。

突然彼の可愛らしい唇を割って出てきたその名に、ティナはどうする事も出来ず言葉を失った。

「……セト、何、どこで」
「朝、おねえちゃん起こしに行ったとき、僕の手にぎって呼んでた。ソルディスって、」


ねぇ、おねえちゃん、ソルディスってだぁれ?


無情にも繰り返されるその言葉に、ティナは、視界の端に楔蓬を映しながら、駆け巡る思考と共に返答を詰まらせた。





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