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――決して、避けられない速さでは無かった。

ゆっくり背を屈めたソルディス。ティナの顔を擽る彼の前髪。
流れから考えても、常人ならば彼の行動の意図に気がついただろう。
それでも、ティナが身動き一つせず従順に彼の唇を受け入れてしまったのは、経験不足による判断の遅さとしか言い様が無い。

深夜、城の者に気付かれずに、そっと重ねられた唇。
低体温の指とは違って微かな暖かを伴なう其れは、ティナの薄桃色の唇を有無を言わさず支配する。

「…ん…っ、…」

ティナは一種のパニックに陥った。

異性に関し、彼女は経験らしい経験が無い。
強いて言えば、兄のリオと手を繋いだ事とか、お出かけの際カステルに抱きかかえられた事とか。無理矢理加えれば、つい先刻腰を抜かした際にソルディスに抱き上げられた事とか。外交上行う礼儀のキスも、手の甲が一般的で、頬にされるのすら極めて稀な事である。

そんな彼女にとって、男性――それも、つい数時間前に顔を合わせたばかりのソルディスとの口付けは、明らかに刺激が強すぎた。掴まれていない方の手を宙に迷わせ、体も固まったままである。

ソルディスはさ迷うティナの右手を自身の左手で絡み取ると、目を細めた。
ティナが全く抵抗しないのを良い事に、薄く開いた唇の隙間から舌を挿し入れる。

「……っ、…!、」

ようやくここで、ティナの体が反応した。
ビクリと体を震わせて、掴まれたままの右手で必死にソルディスの胸を押し返す。
後ろに逃げ場が無いのだ、彼が其処を退くしかない。

当然退く気など無いソルディスは、愉快そうに、咽喉の奥で笑いながらティナの口内を弄ぶ。
他者の侵入に行き場を無くしたティナの舌を優しくなぞりあげると、思うよりも敏感に反応する。
立つ力も抜けるほどの刺激に思わずティナは座りこみそうになるが、ソルディスは咄嗟にティナの手を解放し、代わりに腰にその手を回した。
再び自由になった右手で、ティナはソルディスの黒いガウンを握り締める。
どうすれば、どうしたら――
必死に頭を回転させるが、ティナが勉学の時間にならった知識等この場では全く役に立たない。
縋るようにガウンを握る右手は、本人の意思とは関係無くソルディスの加虐心を刺激した。
逃げまわるティナの舌を軽く吸いあげ、戒めるように緩く噛む。

「…、…ぁ、…っ…」

耐えきれず出した声に、誰より驚いたのはティナ自身だ。
自分の咽喉をついて出たとは思えないほど甘い声に、一気に顔を紅潮させる。

永遠に続くのでは、と思えるほどに長く濃厚な口付け。
必死になったティナは、咄嗟に一つの打開策を考え付いた。



「――――っ……」

何かに反応したように、ゆっくりとした動きでソルディスが唇を離した。
吐息が伝わるほどの至近距離。名残惜しそうに、ティナの唇を柔く舐める。

「噛みついた女は始めてだ」

言いながら屈めていた体を起こし、彼女の体を解放した。
ティナは肩で息をしながら口を押さえ、そのままその場に座りこんでしまう。
顔が、熱い。解放されたばかりの唇も、まだ感触が残っている。
初めての経験に、体の節々に電流が走ったような痛みがした。それは疼きのような痛みであり、わずかに快感も加えられた刺激。

ティナはそっと視線だけ上にあげた。
息も整えることが出来ず混乱する彼女を、無表情ではあるが楽しそうに見下ろすソルディス。

「魔族の回復は早い。こんな傷は直に治る、が――」

ソルディスはしゃがみこんでティナと視線を合わせた。
明かに怯えて視線を逸らそうとする彼女の顎に手をやり、優しく自分の方へ視線を向かせる。

「随分とキツく噛んでくれたものだ」
「あ…っ、あなたも、…」
「確かに俺も噛んだ。だがお前が悦ぶ程度に、だ……違うか?」

言葉に、ティナはさっきの自分の声を思い出し、羞恥に顔を歪めた。

「俺は血が出るほど舌を噛まれた……お前が言っていた、仲良しこよしの初夜とは程遠い」
「――あ、…」
「暴挙を働いたのはお前自身だ」
「ち、違います」
「何が違う」
「優しくしてくれたら、も、もっと…」
「では、乱暴だったと?」

ソルディスは、なるほど、と呟きながらティナを抱きあげた。

違う。確かに、乱暴だったわけじゃない。性急過ぎて訳が分からなくなり、驚いただけ――そう言って押しのけたかったが、体の力がすっかり抜けたティナは抗う間もなく彼に従う。
ソルディスは入り口の燭台の蝋の灯を静かに吹き消した。全く明かりの無い暗闇の中、慣れた様に足を進める。ティナは自分がどこにいるのか、どこへ連れて行かれているのか全く分からないまま息を潜めた。

少しして、ソルディスは立ち止まる。そのままティナの体をゆっくりと下ろした。
ギシ、と軋む音と、体を下ろされた場所の柔らかさに、ティナは自分がベッドに下ろされたことに気がつく。と、ソルディスは突然、天蓋幕の向こう――窓のカーテンに手を伸ばし、思いきり脇へ引きやった。

途端眩しい程差しこむ月光。
膨らみかけた半月に、まばらな雲。

ティナはベッドの上、ゆっくりと体を起こしながらその光景を見た。
月の光に照らされたソルディスの顔肌は透き通るようで、彼の目は遠くを見ている。


「――見ろ」

ティナに対してか、誰に対してか。呟くようにソルディスは言った。
月とソルディスを交互に見るが、ティナは彼の真意が分からない。

「魔族は、満月の夜になると血が騒ぐ」
「――」
「元から理性の無い野獣達は本能の限り餌を食い漁り一晩中唸りをあげ、理性のある魔族は、気を抜くと自身の理性を崩しそうになる」

ソルディスは視線をティナの方へ戻した。
訳が分からず思慮を巡らす彼女の体を腕で押し倒し、ベッドへ沈ませる。

「あと七日も経てば月は満ちる。俺も当然本能が狂う……どうか理性ある付き合いをと頼まれても、聞く耳を持たないくらいに」

まだ冴えない表情をするティナを見下ろし、ソルディスは楽しそうに目を細めた。
体を屈ませると、反射的にティナは右手で自分の唇を覆う。が、その右手を掴み、無情にもティナの手をシーツの上へ縫いつけたソルディスは、そっと彼女の耳元へ唇を寄せ低い声で静かに囁いた。


「お前は運が良い――理性が無くなる前の俺に、『優しく』相手をしてもらえるんだからな」
「……っ!」



全身を駆抜ける疼きに反発する間もなく、彼女の抵抗の声はソルディスの唇によって封じられた。












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「はぁ……」


時は同刻。

城の者は夜勤兵以外誰もかもが眠りについている真夜中に、廊下に立って燦燦と照る半月を眺める男が一人。レィセリオスきっての一流剣士及び大臣、カステル・ジニア。

制服のまま着替えもせずに、彼は落ちつかない表情で外の風景ばかり眺めていた。

15の時に兵に志願し、城に勤めて早30年。45歳の現在に至るまで、様々な仕事を行ってきた。
辛い仕事も過酷な仕事も、形振り構わずやってきた。

が、今日ほど寂寥感を感じた日は無かった、と彼は思う。


いつも定時刻にかけられる、就寝の挨拶。
ふざけて頬にキスをしようとしたり、裾の長い寝巻きを踏んで廊下に転んだり、お腹が空いたと夜中ひょっこり庶務室に顔を出したり――当たり前だったあの笑顔が今夜から消えてしまった。

別に彼女が死んだわけじゃないから、悲しむ必要は無い。
無いのだが――何とも言えない虚無感はそうそう消える物では無い。


「ジニア」

不意にかけられた声に、カステルは振向いた。
片眼鏡をかけながら、同じく制服のまま城をうろついていた人物。
モーガン・アスタル。
ティナの身辺の世話をするニキィの父であり、カステルと同じく聖レィセリオスを支える臣下である。

「アスタル」
「姫様が居なくなって寂しいだろう」

確信を突いた問に、カステルは顔を顰めながら苦笑した。

「居たら居たで、落ちつかないものだが」
「そういうものだ。娘が嫁に行く気分さ」
「……かもな」

モーガンは窓の外、城下に広がる村々を眺めた。

「姫様の心配も大事だが……そろそろモロゾナが動き出すぞ」
「――あの産業大国、モロゾナか」

(国民の労力を搾取するしか脳がない、あの馬鹿王が――)

カステルは厳しい表情をし、再び溜息をついた。
そんな旧友を宥めるようにモーガンは、「姫様の事なら、心配するな」、フッと笑う。

「なに、あのお方の事。姫様を大事に持て成して下さっているだろうよ」
「だと良いのだが…」
「今頃は姫様もぐっすり寝ているだろう。我々もそろそろ体を休めよう」
「……そうだな」


肩を叩き合い各々床につこうとする臣下達。
森を隔てた魔族の城で、その姫様が大変な「持て成し」をされているなど―――彼等は知る由も無かった。





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