11





朝。
背に感じる、慣れない体温に目が覚めた。
うっすら目を明ければ、カーテン越しに部屋に差しこむ薄暗さ。
まだ部屋の中も十分暗い。

ちょっとだけシーツからはみ出ていた指先が、涼しい外気に触れる。
熱を求めて……背に感じる温かさに体を捩ると、それは不意に離れて行く。

(――寒い)
私はゆっくりと寝返りを打つ。体を寄せて、温かいそれに腕を回した。
寝不足気味で溶けそうな眠気の中、それが“人”だ、というのが何となく分かる。

「……カステル…?」

脳裏に浮かんだその人の名前をそっと呟く。
朝になったからきっとカステルが起こしに来てくれたんだ…
そう思って、朝くらいは良いだろうと甘える様に縋りついた。
広い背中。柔らかいガウンの感触、ほんの少しだけ香る香水の匂い。
いつも、抱っこして、ってふざけると顔を赤くして怒るカステル。
厳しい彼が、どういうわけか添い寝してるなんて――

何だかおかしくなって、私は目を瞑って寝ぼけたままクスクス笑う。

私に抱きつかれたカステルは、目が覚めたらきっと顔を赤くして怒鳴るだろう。
いつもみたいに、やれ国の代表たる者、とか、言って…

不意に、目を覚ましたのか、カステルが体を動かした。ギシリとベッドが軋む音が耳に聞こえる。

抱きつく私の腕を掴むと、ゆっくりと引き剥がして――……
外気の冷たさがシーツの間に入りこむ。

ますます体が冷えそうで、カステルの背中にまだ抱きついていたいと思うけれど、私の腕は無理矢理掴まれて不自由になる。

カステルにしてはちょっと乱暴。
彼は私の手を掴んだまま離そうとせず、そのままベッドに押しつける。

「んー」

自由を求めて体を捩るけれど、カステルは腕を解放してくれない。
薄っすら目を明けると、暗がりの中見えるのが、これまた真黒なガウン。
カステルってこんなガウン持ってたかしら、と。何となく不自然に思いながらも再び目を閉じた。

とにかく眠い。眠すぎる。
あぁ、何でこんなに眠いの?

「ティナ」

低く、心地の良い声が耳元に響いた。
国家の代表を呼び捨て?カステルも角が取れて丸くなったのねと一人納得して、枕に頭を埋める。

「……眠い」
「なら寝ていろ」

“寝ていろ”?
少しだけ違和感があって、私は眉を顰めた。
言葉遣いを注意しなさい、上品に喋りなさい。カステルがいつも言っていることなのに。

「乱暴ー…」
「まだ言う気か?」

カステルはベッドを軋ませながら、ゆっくり私に覆い被さる。
私の手を解放し、首元に唇を寄せた。
擽られる感覚と眠気と恥ずかしさに、私は彼の首に手を回す。

「……ちょ…、カステ、ル」

それって越権行為――……

そうカステルに言おうと思って、目をスッと開けた。










「旦那様。朝で御座います」

いつもの日課である。
毎朝の仕事、今日も今日とて執事のロドメは、主であるソルディスの部屋の前に立った。

機嫌を損ねやすい若主の目覚めを託されて早数百年、彼はこの仕事を苦に思ったことなど一度も無い。

寝ぼけた主にどんなに詰られようと。時刻迫った会議にどんなに主が遅れかけていようと。
気を緩めた笑みを浮かべてノックを二回。そして主が完全に目を覚ますまで笑みを絶やさず、延々と朝を知らせる言葉を口にする。


そんな長年変わらぬ朝を迎えているロドメだったが、今日ばかりは首を傾げた。
何やら部屋の中が騒がしいのだ。

言い争うような少女の声と、淡々と低い声で喋り続ける男の声(当然主の声である)が扉越しにぼやけて聞こえる。ロドメは、はて、と首を傾げる。

しかし、すぐに少女の声が嫁入りした姫君の声だと分かると、目を細めて楽しそうに微笑んだ。

何十年ぶりかのすっきりとした主の目覚めに満足し、執事は人知れず一礼して部屋を去る。
皺を伸ばした主人の服と、目覚ましのお茶を部屋に運び入れる為に――








「酷いです!」
「何が酷い」
「寝ぼけた人を力まかせに襲うのは酷くありませんか!」
「寝床で他の男の名を呼びながら抱きつく方が酷いと思うが」

賑やかな朝のベッド。
薄暗い部屋とは正反対に、この部屋の一画のみやけに明るい。
明るいというよりは、騒がしいと言った方が適切かもしれない。

新妻はネグリジェの乱れを直しながら、顔を真っ赤にして旦那様に枕投げ。
旦那様は旦那様で、妻の反抗に対しどこ吹く風でベッドに腰を下ろしている。

「大体朝から喧しい。少しは静かにしたらどうだ」
「煩いのは貴方のせいです!」
「そうやって昨晩の様に部屋の物を壊す気か?」

その言葉に、ティナはぴたりと口を噤んだ。
思い出した様に冷や汗なんぞを流しつつ、視線をさ迷わせながら苦笑い。

「ですから、あれは自然の流れで」
「どこがだ」

ソルディスはベッド脇の水差し棚に目をやる。
その上には無残に割れた、美しいガラス細工のグラス。

彼曰く、先代――つまり彼の父が幼少の頃からこの城にあったもので、大変貴重な物だという。
青と藍と白濁のガラスで彩られた繊細な細工は、昨日まで確かにその美しさで城の者を魅了させ、若き領主の部屋でひっそりと静寂なる美を主張していた筈であった。

そう、確かに昨日までは。







昨晩。
時は深夜。この状況を月明かりだけが静かに見守る。

冷たい月光が照らすのはベッドの上で必死にもがく姫君。
そして、暴れる若妻を一瞥し、その抵抗を気にも留めず寧ろ楽しそうな様子の城主。

何もかもが初めての経験で半ば錯乱状態のティナは、何とかソルディスを突き放そうとするが、誰が考えても到底無理な話であった。

「ま、待って……ちょっ、お願い」
「黙ってろ」

ゆっくりと白い首筋を唇で辿りながら背中に回した手を動かすと、ビクリと背を反らして反応するティナ。
全然手を休める様子の無い城主に本格的な危機感を感じたティナは、解放された自由な手でありったけの反抗を始めた。彼の背中を叩いてみたり、枕を投げつけようとしたり。

そんなティナの様子に呆れるソルディスだったが、その内大人しくなるだろうと行為を止める事はしない。

首筋をより一層キツく吸い上げると、案の定ティナはその刺激に抵抗を弱める。 薄く笑いながら、彼が手をティナのネグリジェの締紐にかけた――その時、

「え?や、……だ、駄目ー!」

ティナの切実な叫び声。
それと同時に聞こえたのは――破損音。

瞬間、部屋の空気が固まった。
右上から聞こえた破損音、それと同時に右手に感じる痛み。ティナは頭が真っ白になる。
ソルディスはゆっくりとティナの首元から顔を上げ不機嫌そうにベッド脇を覗く。

そして……深い深い溜息を1つ。

萎えた、と言わんばかりにティナの胸元の乱れを直してやり完全に体を離した彼に、ティナの方は安堵の溜息をつく。しかし、その安堵は、ソルディスの言葉で瞬時に緊張へと変わった。


「――家宝が割れた」










「だから、昨晩のあれは本当に悪かったって言ってるじゃないですかっ」
「誠意が感じられない」
「ちゃんとカステ――、いえ、レィセリオスから正式に弁償しますから」
「成る程。お前の国は金で解決するような小国か」

ああ言えばこう言う。
髪を整えながら反抗的な謝罪をするティナに適当な対応を続けるソルディス。
これでは堂々巡りである。

ティナは何とか死守した貞操と引き換えに、嫁ぎ先の家宝破損と言うあってはならない事態を引き起こしてしまった。

頭を抱えるティナ。
ソルディスはガウンを整えながら、ベッドから立ち上がる。

「あんなに暴れる女は前代未聞だ」
「私の国には守操義務がありますから」
「それは配偶者以外の男に対するものだろう」
「そうですけど」

でも、とティナはそっぽを向く。
一応16歳になった折、城のメイドや侍女達から度々お夜伽の話や女としての貞操義務の話は聞いていたのだが――まさか新婚早々寝床を共にするとは思ってもいなかったのだ。

「……馬鹿な私だって驚きます」

ソルディスは急に大人しくなったティナを傍から見つめながら、机上の水差しからグラスに水を注ぎ込んだ。そして、何も物言わず再びベッドに潜りこんだ姫君に歩み寄り、再びベッドに腰を下ろす。

「ティナ」
「……」
「――朝食は要らないのか」
「食べます」

朝食、という言葉を聞いてシーツから顔を出すティナ。
あまりにも単純、あまりにも幼稚に見えるティナにソルディスは呆れながら、冷たい水の入ったグラスを手渡す。体を起こしたティナは、それをありがたく頂き咽喉に通す。

「そういえば、こちらにはコックさんがいっぱいいらっしゃるって」
「コック?」
「なんでも40人も常時待機とか」
「誰がそんな事を」
「誰って……あなたが城に送った紙に書いてありました。お妾さんの人数とか、メイドさん、侍女さんの数とか……」
「――あぁ」

ソルディスはヒラと手を振って、訂正する様に付け足した。

「あれは間違いだ」
「間違い?」
「あの情報は大分古いもので――祖父がまだ健在だった時のものだから、せいぜい千年近く前の物だ」
「古!」

ティナは危うく手持ちのグラスを取りこぼしそうになった。
あぁ、さらば夢のコックさん。さようなら、人生の希望。

「調理人だけじゃない。一族の人数も、大分減った」

ソルディスは虚ろな目をするティナの手からグラスを取り戻し、残っていた水は全て自分が飲み干した。

「それに、妾も最早この城には居ない」
「いない?」
「暫く以前に、全員城から追い出した」

ソルディスは嫌な事を思い出したかのように顔を少しだけ顰めた。

「……どうして、お妾――」

ティナが不思議そうに問いなおしたその時。




「旦那様、姫様。失礼しても宜しいでしょうか」

扉の向こうで奏でられる、おっとりとした声。
緊張を感じさせず安堵するその声に、ティナは顔を緩ませた。

「入れ」
「失礼致します」

ギィ、と扉が開くと同時にロドメが室内に入ってきた。
紅茶を乗せた銀の台車をゆっくりと運び入れる。

深深と一礼すると、優しい笑顔を湛えたまま顔を上げた。

「目覚めの茶をお持ち致しました。本日は何が宜しいでしょう」
「黒葉を」
「畏まりました」

ロドメは丁寧な手つきで、銀色のポットから湯を注ぎ入れた。

「姫様はいかがなさいましょう」
「……すみません、お茶とか疎くて。何かお薦めを」
「では、一番甘みの多い黄茶に致しましょう」

それぞれカップに用意すると、ロドメは溢さぬよう、主と姫君の元へ運んでいく。

手渡された器。
熱すぎず温すぎず、朝に適した湯加減の茶を手渡されたティナはその上品な香りに心奪われた。
カップの中には、黄色と橙の狭間をした色のお茶。一方ソルディスが無表情で口に運ぶ茶は、黒々と濁り、見るからに苦そうな香りがした。

「……苦そう」
「生憎甘い物は苦手だ」

そうですか。
私と正反対だなぁと思いながらも、ティナは黙って自身の茶に酔いしれる。
正直言って、とても美味しい。決して自国のお茶も不味くは無かったけれども、このお茶には負けるかも……ティナは密かにそう思った。

「ロドメさん、有難う。とても美味しいです」
「何よりで御座います」

本当に幸せそうな笑顔のティナに、カップを返されたロドメは微笑んだ。

「さて。そろそろ姫様お付の侍女と、それからニル様がいらっしゃると思いますが」
「ニルが?」
「ええ」
「アイツに言ったのか」
「恐縮ながら、起床早々詰問させられまして」
「……あの阿呆が」
「あの、ニルさんって、どちら様?」

額に手を当てて苦々しそうに呟いたソルディスの後ろから、ティナが聞く。

「教えるまでも無いような奴だ」

言葉に、ティナが不思議そうに首を傾げる。
と同時に、バァン!と扉を突き破る様に押し開ける音。

突然の事にティナがぎょっと目をやると、そこには一人の女性が息を切らしながら物凄い剣幕で立ち尽くしていた。

「ちょっとちょっとちょっと!アンタどういうつもりなのよこの馬鹿男!」

腰まで伸びる長い黒髪。きりっとした美しい顔、黒い双眸。
赤のドレスを身に纏って、その裾を踏まぬよう掴みながらズンズン部屋に入り込む。

鬱陶しそうに眉を顰めて顔を背けるソルディスの胸倉を掴んで、揺さ振りながら女性は尚も叫ぶ。

「私はロドメに、帰ってきたら何時であろうと城の者を叩き起せって命じていたのよ!」
「お前の命令より俺の言葉が絶対だ」
「あぁ、可愛くない!可愛くないわこの男!私とちっとも似付かない!」
「似てたまるか」

ソルディスは彼女の手を外すと、視線で後ろを見るように促した。

「何よ、何――」

長い髪を耳にかけながら、覗きこんだベッド。
ソルディスの後ろに隠れる様にちゃっかり居座るその姿に、彼女は瞬時言葉を失った。

「……あ、あの、どうも。ティナ・クリスティーンで」
「っきゃぁぁ!」

女性は頬に手を当てながら、瞳を潤ませて叫び声をあげた。

「煩い」
「煩いのはアンタよ!黙ってなさい」
「あ、あの」
「あぁごめんなさい。貴方ね?貴方がティナね?何て可愛らしいの、小さくてまるで子犬みたい!」

小さくて子犬?
誉められているのか暗に小動物だと言われているのか分からない言葉に、ティナは混乱しつつも笑顔で応じた。

「あの、……?」
「初めまして。私はニル・ジェノファリス。ここにいる馬鹿男の姉よ。宜しくね、ティナ」

興奮しながら喋るニルの言葉に、ティナは目を丸くして驚いた。

「――お義姉様!?」
「やだ、お義姉様なんて。“ニルお姉ちゃん”とか“ニル姉”って呼んでくれれば良いのよ。この城、男の兄弟ばかりで誰もお姉ちゃんって呼んでくれないのよ。参っちゃうわ」

ニルは大袈裟に涙を拭くマネをしながら、ティナをキツく抱き寄せた。














「良いです、良いです!自分で着ます、自分で着れますから……!」
「いけません。姫様のお召し物を着付けるのは私の役目です」

場所は変わって、ティナの自室。もう城の者は全員起きて各々の仕事をこなしている時刻である。
ティナは姿見の前で、困った様に体を手で隠した。
ちらっと後ろに佇む女性を振り返る。

どんと腰に構えた手。
きっちり纏めあげた白髪混じりの頭髪。
豊に蓄えられた恰幅の良さ、その体に身に付けられた侍女の服。

見た目中年の堂々としたこの女性は、ティナ専属の侍女となったマリアンである。
若いメイドや侍女にはまだまだ負けません!と全身で主張中。
ジェノファリス城が誇る、熟練侍女。

「姫様、こちらの地味なドレスよりももっと華やかな物が御座いますが」
「良いんです……ニル、姉様もそう思いますよね?」

ティナが縋る様に見つめたのは、勝手知ったるとティナのベッドに腰を下ろし楽しそうに見つめるニルである。足を組んで目を細めながら、細く長い指を左右に振ってティナに注意を促す。

「お姉様、じゃなくて――」
「二、ル、姉」
「そう。良く出来ました」

ニルは手を叩いてティナを誉めた。

「私はそのドレスで十分だと思うけれど」
「そうですか?大奥様のフリルがついたドレスがよろしいかと思いますが」
「マリアン、あのドレスはもう古いしティナには大きすぎるわ」
「フリルは永遠の浪漫だと思います」

(フリルって。)
一生着ません、と心の中で決意しながらティナは自国から持ってきた薄水色のドレスを身につけた。
自分は髪を持ち上げて、マリアンに背の締紐を結んで貰う。

「ねぇティナ」
「はい、何でしょう」

問いかけたニルは、苦笑した。

「良いのよ、家族なんだから敬語なんて――それより、貴方、昨晩あの阿呆に何かされなかった?」
「……っ!」

(昨晩!)
核心をつかれた言葉に、ティナは素直に顔を赤くする。

「あら。やっぱりされたの?」
「いいえ、されたというか、……未遂です」

ティナの小声にニルとマリアンは怪訝そうに首を傾げた。

「未遂?」
「はい、まぁ……辛うじて。添い寝といった感じで」
「添い寝!?」

ニルがベッドから勢い良く立ちあがり、マリアンは驚きのあまり後に退いてティナの机にぶつかる。
目を丸くするニルは口元に手を当てながら、不自然にぶつぶつ何かを呟いた。

「あの子が添い寝、……ねぇ」
「ニル様、若旦那も立派になられました」
「泣くのはまだ早いわ。何かの病気かもしれないじゃない」
「いいえ、私には分かります。旦那様は大人になられたのですわ」
「……」

(あの人どんな人生送ってるんだろう)
只ならぬ身内の動揺に、ティナは今更ながら遠い目をした。

「そ、そういえば此方にはお妾さんがいらっしゃらないそうですね」
「えぇ。そうなの、そこなのよ」
「私はてっきり、旦那様は姫様に」
「マリアン。それは禁句よ、口を慎みなさい」
「――申し訳御座いません」

ティナはいよいよ不安になった。
何だか、婚約者の前科をひっそりと仄めかされている様である。
心配そうにうろたえるティナに気付いたニルは、あぁ、と優しく微笑んだ。

「ごめんなさい変な事言って。大丈夫よ、心配する事は無いの。とにかく着替えて朝食に行きましょう」

さぁ、とティナを促すニルとマリアン。


思ったよりも好意的な城の住人に多少安心はしながらも、ティナの心にはまた一つ不安の影が落とされた。
それは、ソルディスの素性。
あの深い深い闇のような双眸を持つ自分の婚約者は、一体何なんだろうかと――明かりのない洞窟に立たされた様に、ティナは手がかりも無いまま、一人彼に心悩ますしかなかったのだ。





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