12




ティナは廊下で溜息をついた。


朝食後、ほんの少しの休憩。
窓の桟に手をついて、ぼんやりと城の庭を眺める。

もう少ししたらお勉学の時間が待っている。
憂鬱で億劫な気持ちになる御勉学だが、貴族である以上勉強や学識から離れる訳にはいかない。

一日のうち何時間も、堅苦しい書物が並ぶ部屋に押し込まれ、先生を呼んで日々努力――なんていう、あのレィセリオスでの辛い日々が思い出される。確かに、即席で置かれたような国家代表だったから、短期間のうちにありったけの知識を叩きこまれるのも仕方が無い事だったのだけれども。


ティナはそっと後ろを振り返る。
後ろにあるは、領主様の部屋――つまり、自分の部屋への入り口だ。

今部屋に戻れば、婚約者であるソルディスが、部屋で領主としての仕事か何かをしてるのだろう。
自分が先に部屋に戻れば良かったのだが、マリアンの案内で城をうろうろ歩いていたら、領主様は何時の間にか自室の中へ。自分としては、おずおずと慣れない男性の部屋を通る勇気が沸かない。

ソルディス・ジェノファリス――
黒い双眸で冷たく自分を見下ろす彼は、ティナにとって、まるで夜闇そのもの。
全てが謎で、予測不可能、慣れ辛い。

それでも朝食の折、ティナは彼の事を少しでも知ろうと懸命に観察をしたのだ。
ロドメや下男が運んでくれた食事を口にしながら、短時間でも色んな事を飲み込もうと。

まず――家族が、彼の姉・ニルしかいない事。
見目若い彼の父母が寿命で亡くなったとは考えづらいから、何かしら事情があるのだろうが、――ティナは自分の身と照らし合わせ、あえてそれを聞くのはやめた。しかし、ただでさえ大きい食卓の端にポツンと三人で朝食。気まずかった事この上ない。

それよりティナがまいったのは、ソルディスという男は、食事中全くと言って良いほど喋らないという事だった。辛うじてニルとティナが会話をしていたおかげで食卓が無言に包まれる事は無かったが、ソルディスはその間余計な事は一言も喋らなかったのだ。ほんわかコミュニケーション好きのティナとしては、この無言の食卓は拷問に近い。


そして、何よりひしひしと感じられた事と言えば!
ソルディスが、ティナを婚約者として大事に扱う気が無いという事である。
これは、何よりも辛かった。

今朝の食事の時間のことである。
ティナは緊張と疲れと眠気で体調があまり良くなかったが、残しては失礼だと思い無理矢理食事を口にしていた。が、途中、とうとうティナが残さざるを得ないものが差し出されたのである。体調の良不良に関わらず、口にできない物。
それこそが、真紅に揺らめくあの葡萄酒。

彼女は酒がめっきり飲めなかった。
体調の悪さに加え、嗜好に反する物が咽喉を通る訳が無いと判断したティナは、一口もつけずそれを残そうとしたのだが――

ソルディスはそれを赦さなかったのだ。

どんなにやんわりと断ろうとしても、残すなの一点張り。
それでもどうしても飲めなくて、体調が悪い・自分は下戸だと正直に言ったのだが――

(――“関係無い”だなんて!)

ティナは心の中で愚痴をもらした。

結局はニルが宥めて「半分だけ飲む」ということで妥協してもらったのだが、ティナは心の中で今も抗議真っ最中である。

「でも、デザートは美味しかったけれど」

嫌な記憶を一転、ティナはうっとりと外を眺めながら呟く。
ソルディスが鳴らす鈴の音で運ばれてくるデザート。
朝食ということもあり、軽めの量の物だったが、甘党のティナには最高のご褒美である。

レィセリオスで勉学の時間挫けそうになったとき、ティナの心の支えとなったのが他でもない食事である。
一次的な欲求に支えられるほど悲しい事は無いかもしれないが、自分の心に嘘はつけない。
毎日毎日、美味しい食事とデザートの為にここまで頑張ってこれた。
生まれ変わったら御菓子職人になりたいと密かに思っているほどだ。

「ともあれ、後は新婚生活よね」

ティナは眉を顰めて困った。
正直言って、お互い愛情も何も無い、契約結婚。
恋心なんてこれっぽっちも無いし、寧ろ互いに嫌悪感を抱いているのかもしれない。
今の所ティナは嫌悪感というより恐怖心を抱いているが、ソルディスは確実にティナを嫌悪している。

しかしまぁ、貴族同士や王族同士の政略結婚のために、夫婦間の愛情が無いのは珍しくない事だ。
夫が側室を大量に抱え込んでしまうという話もよくある。

ティナは王族であるため、その事は一応、侍女に言い聞かされていた。
だから、見知らぬ相手と結婚するのも、相手が側室を娶るのも我慢できる。

――ただ、自分に優しくさえしてくれれば。

いくら妾がいなくても、自分に冷たいのでは……寂しすぎる、とティナは心からそう思う。
夫ならそれらしく、少しは優しくても良いと思うのは我侭だろうか。

「何て言うか、こう」
そっと頭を撫でてくれたりとか、
「後ろから、ギュって……」
抱きしめてくれたりとか、
「愛してるよ、とか言って微笑んだり?キャッ」

「……………………」

妄想の限度越えで、思わず叫んでしまったティナ。
頬を両手で抑えながら赤ら顔で振向いた先にいたのは、真黒な服をきた領主様だった。

「ど、どうも」
「何をしている」
「何って――、」

妄想に耽ってましたとは口が避けても言えなかった。

「用が無いなら大人しく部屋でじっとしていろ。部屋の外でうろつかれるのは気に障る」
「へ、部屋は……」
「あの部屋では不満か?」
「じゃなくてっ」

会話をする度生じる行き違いに、ティナは手を振りながら撤回した。

「勉学の時間まではせめて自由にさせて下さい」
「勉学は窮屈か」
「あまり好きじゃありません」
「――だろうな、その頭じゃ」

からかっているというよりは、馬鹿にしている。
ティナは見下されているようで眉を顰めた。

「随分と不機嫌だな」
「――別に」
「嘘をつくな。さしずめ昨日対面したばかりの男に言われたくない、と言った所か――だが」

ソルディスは無情に言葉を続けた。

「お前は我侭を突き通せる立場じゃない。“人質”なんだ。何と言われて来たか知らないが」
「でも、…ソルディスさんは、その人質と結婚してるんですよ」
「だからどうした」
「結婚したら人質でも何でも、奥さんらしく接して……下されば、嬉しいな、なんて」

何となく昨晩と話の流れが似ている。
昨日、ソルディスに少し乱暴な事をされたからだろうか、ティナは一歩下がって、目を逸らした。

「――妻らしい扱いか」

ソルディスは窓から庭を見下ろした。

「どうやら俺とお前の考えには行き違いがある」
「行き違い?」
「俺は根本的に女が面倒だ」

突然の吐露に、ティナは目を丸くした。

「女は情に流されやすいし、喚くか泣くかしか能が無い」
「――」
「妾を取らない理由もそこにある。女が必要なら、その時だけ城下の娼婦を買えば良い」

ティナは愕然と口を開けてソルディスを見上げる。

「昨日今日あったばかりの女に“婚約者らしい立ち振る舞い”を求められても所詮は無理な話という訳だ」

とうとう、ティナは俯いた。
――最悪だ。あまりにも、自分の思考とかけ離れた人間だ、この人は。

「……じゃあ、私はどうして正妻なんでしょう。人質だったら、侍女とか、下女とか……色々引き取り先があったんじゃないですか」
「お前がそうしたいならそうしてやっても良いが、生憎体裁というものがある。お前をぞんざいに扱うと周りが煩い」
「周り?」
「ニルや侍女、お前の国の臣下達の事だ」

ティナは何だか変てこな気分になった。
城の者に虐められて王子様だけが自分の味方、なんていうお決まりの構図と全く逆である。
意地悪な継母役は、ここではソルディスだ。
理不尽に虐げてくる城主に、ティナはどんどん恐れよりも怒りが湧いてきた。

「…分かりました…っ」
「そうか。分かったならさっさと部屋に」
「私、下女になります!」
「――は」

ソルディスは不意打ちを食らった。

「私、結婚する人が魔族って聞いた時、どんな人でも優しければ良いと思ってました。貴方って確かに人間と同じ姿で、意味も無く強そうで、背も高くて、顔も端正ですけど――全然優しくないし、いきなり乱暴な事するし、すぐに意地悪な事言うしっ」

確実に粗暴な事を言っている。
自覚しながらも、ティナは顔を真っ赤にして興奮しながら言った。

「私、確かに馬鹿で阿呆ですけど貴方にそこまで言われて黙ってる人間じゃありません」
「――」
「勿論国を守らなきゃいけないから、この城で暮らし続けます。でも娼婦さんと同じ扱いをされるのは我慢出来ません。だったら下女や侍女になって誰か優しい人と結婚させて頂きます!」

最後の方はあてつけだ。
結婚生活2日目にして早くも離婚。怒るなら怒れば良い、とティナはそっぽを向いた。
初対面の男性――それも格段に歳の離れ思考の差がある魔族の領主と夫婦として暮らすなど、どのみち初めから無謀だったのだ。カステルに、侍女になりましたなんて言えば確実に卒倒するのは目に見えているが――
それでも良い。契約違反ではないし自分が望んでそうするのだから。

そう興奮して顔を染めたまま怒るティナを、ソルディスは黙って見下ろしていた。
が、

「――ソルディス!」

二人の沈黙を破ったのは、廊下の向こうから走ってきたニルだった。
ニルの真剣な表情に、それ以上ソルディスもティナも口を噤む。

「あぁ、ティナもいた――ちょうど良いわ、これを」

ソルディスは顔を顰めながら、ニルが差し出した書簡を受け取った。
何だか知らないが騒がしい、そう思いながら、封蝋されていた形跡のある羊皮紙に目を通すソルディス。
背の低いティナは手紙の内容が読み取れない――が、ニルの言葉の様子ではティナにも関係のあるものなのだろう。
ティナは気にする様に手紙を見上げている。

「いつ届いた」
「スコッチフェルトがつい先程」
「そうか」

ソルディスはティナに視線を移した。

「な、何ですか……」
「よく聞け」

ソルディスは静かに言った。


「聖レィセリオスが、侵略される」

















「ティナ、水よ」
「……あ、有難う」

ティナはソルディスの部屋でベッドに腰を下ろしていた。
隣に沿うように座るニルはティナの顔色を覗うが、その表情は見るに耐えない。
水の入ったグラスを持つ手震えてる。視線も定まらない。
ソルディスはベッドの傍に立ったままだ。

「……私、何が何だか」
「お前にとっては、そうだろうな。ジニアも俺も黙っていた」

声が震えるティナを余所に、落ちついて話すソルディス。
書簡の送り主は、他でもないカステル・ジニアその人からで、その内容こそ、レィセリオスの危機を伝えるものだった。

「あのモロゾナが、どうして」

ティナは混乱した。

産業大国モロゾナ――
それは、レィセリオスからやや離れた場所にある隣国。
ティナが国家の頂点に立って2年。その間、双国の間に盛んな外交は無かった筈だ。
噂では、あの国は、国民に過労を強いて国益をあげているということで、あまり良い印象がない。


「あそこはいつでもレィセリオスを狙っていた。今の国王になってからずっと……ジニアはそれを知っていたが、お前には教えなかった」
「まだ、私が不甲斐ないから」
「そうだ。モロゾナも自国の労力搾取に躍起だった。ジニアも、安心していたんだろう。あいつにしては稀に見る誤算だな」

ソルディスは皮肉に笑った。

「だが――モロゾナの密偵がレィセリオスの兵に紛れていたらしい。密偵伝いに、お前が“魔族”などという絵巻物の生き物に嫁ぎに行くという情報が耳に入ったらしい。モロゾナは焦っただろう。あそこの国には妾がいるが正妻がいない。万が一本当に魔族なんぞに嫁がれたら、お前をモロゾナに嫁がせてレィセリオスを支配しようという計画は丸つぶれだ」

ティナは目を瞑った。
そんな計画が、自分の知らぬところで進んでいたなんて。やれ結婚だ魔族だと、全然周辺国の状況なんて気にしていなかった。
膝の上で握り締めるティナの手を、ニルがそっと上から握る。

「密偵は、レィセリオスと魔族との間に軋轢を生じさせようと一手を打った」
「一手?」
「先日、ナスリカの森で兵士が二人行方不明になったらしいな」
「――どうしてそれを」
「行方不明になった下官は密偵だ。後を追いかけてきた上官を、魔獣に食い殺させる。これで、レィセリオスが魔族への嫁入りを帳消しにすると思ったんだろう」

結局、そんな事におかまいなしにお前はここまで嫁いできたが――
そこまで聞いてティナは嘆いた。
あの時はただの不可避の事故だと思っていたが、――まさかそれまでがモロゾナの手先の仕業だったとは!

「あの……でも、レィセリオスが狙われる理由が分かりません」
「資源も豊富、住民も気質穏やかで抵抗が少ない。何より、手っ取り早く領土が一気に広がる」
「そんな理由で――?」
「国が国を攻める理由なんてそんなものだ」

ソルディスは平然と言うと、手にしていた書簡をニルに返した。

「モロゾナは既にレィセリオスに向かっている」
「レィセリオスはどうなるんですか」
「さぁな。お前の国には大した軍事力も無く、戦争で負けるのは目に見えている。ジニアがあの能無し国王の要求を飲むとは思えないところからして――さしずめ実質国を動かしているジニア辺りが見せしめに首を切られて、侵略終了じゃないか?」
「そんな!」

ティナは跳ねる様に立ちあがった。拍子に水の入ったグラスが床に毀れる。

「私、今すぐ戻ります」
「戻る?国にか」
「そうです。お願い、馬車を貸してください」
「何の為に嫁ぎ日を早めたと思う。ジニアがお前の安全を確保する為と無理を言って、早急に出国させたんだぞ」
「あの城に必要なのは私ではなく、臣下と国民です」

ティナは急いで自分の部屋に戻り、外套を身に着けた。
それと護身用と愛用していた、短剣を腰に差す。万が一、の為である。

自室から戻ってきたティナに、ニルが歩み寄る。

「戻ってどうするの」
「取り敢えず、カステル達が死なないように――それと城下の国民に被害が及ばない様な方法を、国に着く間に探します。どうにかします」
「そう……ごめんなさい、魔族は人間同士の諍いに口を出さないっていう暗黙の了解があるのよ」
「良いの。昨日来たばかりで慌しかったけれど、私、ニル姉さんに親切にしてもらって感謝してます」

ティナがそう言うと、ニルが不安そうにティナを抱きしめた。

「――気をつけて」
「はい」

今朝あったばかりの人間だったが、ニルはティナに優しく接してくれた。
ありがとう、そう思ってティナはニルを抱きしめ返す。

「……」

ニルからそっと離れたティナは、ソルディスの方を見た。
先程まで口喧嘩をしていた事もあって、しおらしく別れの言葉を言える雰囲気ではなかったが、これが最後の別れとなるかもしれないのだ。

「見送ってくれますか?」
「――良いだろう」

ソルディスは、ティナを連れて部屋を出た。













ティナがレィセリオスに戻る事を予想していたのだろうか。
外に出るとアナスタシアが馬車とベルトで繋がれ、既に準備が整っていた。傍にはロドメが立っている。

「今から出れば夕刻にはレィセリオスに着く」
「あの、アナスタシアは――」
「あれはロドメがト・ノドロへ戻ってくる時にまた使わせてもらう。お前が死んだら世話をしてやる、丁度白馬が欲しかった所だ」
「その時は宜しくお願いします」

ティナはソルディスを見上げた。

「一日だけだったけれど、」

ティナは、ごそりと外套の内側から一切れの羊皮紙を取り出した。
ソルディスは黙ってそれを受け取る。

「何だこれは」
「離婚の署名。いつかは使うかもしれないと思って、カステルに内緒で書いてました」

早速使います、と寂しそうな笑顔を浮かべる。

「多分、私、モロゾナの王様と再婚することになると思います」
「そうか」

ソルディスはそれを折りたたんだ。

「口喧嘩ばっかりでしたけど」
「お前が一方的にな」
「こういう時は嘘でも“楽しかった”って言うんですよ」

この人は最後までこういう人だ、とティナは諦めた様に笑う。

「それでは――、さようなら」

ティナはそっとソルディスの手を取ると、甲に口付けをしてすぐさま馬車に乗りこんだ。
主であるティナの口笛で、アナスタシアはゆっくりと歩き出す。

ソルディスは、その姿を見送ると、手に握られた羊皮紙に目を通した。
慣れないペン字。あまり書簡を書いたことが無かったティナが一生懸命書いたのだろう、精一杯丁寧な字で正式な文章が書いてある。震えた文字は幼さを湛え、就任して作り立ての判が恐る恐る押された跡があった。

拙いその手紙を読み終えると、羊皮紙を内ポケットに押し込む。
彼は無言のまま城に戻った。
















「行ったわね」
「ああ」

城の中に戻ると、廊下にニルが立っていた。
窓から外を眺めていたのだろう。先程までの騒々しさは無く、落ち着いている。

「貴方も悪人」

ニルは、レィセリオスから送られてきた書簡をひらひらと振った。

「“姫様を絶対にト・ノドロから出さないよう”。可哀想に、カステル・ジニアのお願い、完全無視じゃない」
「知った事か」

言いながら、ソルディスは内ポケットからティナの手紙を取り出しニルに渡す。

「何よこれ」
「離婚届らしい。国を守る為だろう、モロゾナに嫁ぐと言っていた」

ソルディスの言葉に、ニルは目を丸くした。
モロゾナに嫁ぐ決意をしているどころか、ティナがそんなものを用意しているとは予想外。
ニル同様、それはソルディスも同じ事だろう。

「怯えてばかり居ると思ったら、意外なとこで肝が据わっているじゃない。面白い子」
「俺の正妻だ。そのくらいの度胸が無くては困る」

ソルディスは淡々と言った。

「で、どうするの?離婚する気なんて全く無いんでしょう」
「無論だ」

ソルディスはニルの手から引ったくり返すと、嘲笑いながら握りつぶした。

「こんな紙切れで俺から離れられると思ったら大間違いだ」
「――そう」

久しく楽しそうに口端歪む弟に、ニルは肩を竦めた。
この笑みを浮かべる時のソルディスは、自分には止められないとニルはよく自覚している。


「あいつは、俺の女だ」


ソルディスは闇の双眸を輝かせ、颯爽と廊下を去って行った。







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