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「ハァ、ハァ…っ!」 耳に響くのは自分自身の死へ迫る呼吸のみ。 草を踏み分け、木々を駆け抜ける、夢中にも夢中、奔走は圧倒的な死期に掻き消されている。 彼は己を疎んだ。何故に、何故にこのような鬱蒼とした道へ外れてしまったのかと。 そして何故に、何故に白昼にもかかわらず、後方から遅い来るアレは、意気揚揚姿を為しているのかと。 「ハァ・・っ、、う、ハァッ、…!!」 酸素不足、足も縺れ途端に彼はじめじめした草葉の上に転げ倒れた。 両手を泥に塗れさせ、おまけに石で掌を擦り切った彼はそれでも必死に立ち上がろうと体を両腕で支え、そして咄嗟に後ろを見やった。 「――――ひ」 声にならない声は轟音に掻き消された。 獣の唸るような声と唾液の飛び散る音、木々が軋む音――肉を切り裂きしゃぶりつく音。 ヴヴヴ、と低く耳障りな音は、人間の発する其れではなかった。 浅ましいかな、その姿は湿った陰樹の中に紛れ、飛び散ったどす黒い赤い血飛沫は、そのまま魔の森へ生きる糧として吸収されていったのだった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「“婚儀は、無い”?」 ティナは食事を進める手を止めた。 「ええ」 「無いって言うと」 「無いのです」 「それじゃあ、私は何も正式な手続を取らないで嫁ぐっていうこと?」 「正しく言えばそれは違いますな。もう手続は済んでおります」 「……いつ!?」 「先週の日曜日に」 坦坦と。しかし渋い表情で苦痛そうに、カステル・ジニアは返答した。 彼は今、この混乱極まりないお姫様の相手をすることに全精神勢力を費やしている真っ最中。自分の食事は二の次の次。 手元に置かれた、ティナのスープは冷えていく。 彼女の手に握られたフォークは、いつ彼をめがけて突きしてくるか分からないように、奮える掌のなかに収まっている。 ティナはまだ落ちつかない様子でカステルを見つめ続けた。 背中まで伸びた淡いブロンドの髪を耳にかけ、緋色の瞳を揺らめかせて必死に側近へ語り掛ける。 いささか興奮している所為か、頬は多少ばかり紅潮気味。 有り得ない!とばかりに必死に抗議をするティナは、怒りというより必死感に溢れていた。 それもそのはず、何せ、人生に一度の結婚に正式な婚儀が無いと言うのだから。 「カステル、私は結婚するのよね」 「そうです」 「しかも人間じゃない、魔族の人と」 「そうです」 「なのに、夢にまで見た結婚式も無いなんて!」 『将来の夢は、素敵な結婚式をあげること』。 そう信念を持っていたティナは、尽く夢を破壊され打ちひしがれた。 「相手方が嫌がっておられるのですよ。なかなか人前に出るのを嫌がるお方でして、正式に断りを入れられました」 「い、嫌がっている!?」 (嫌がっているなんて!こっちだって覚悟をして婚姻を承諾したばかりだっていうのに!) 「ひょっとして、私……正妻じゃなくて、魔族のお妾になるのかも」 ぼそりと呟くティナに、カステルは、声を荒げた。 「それは断じてありません!そんな輩のところへなど、我々が挙って貴方を嫁がせるわけが無いでしょう!お願いです、そのようなことはお考えなさらないよう」 (うん、魔族っていうだけで凄い輩だと思うのだけれど) ティナは虚ろな目で目前に置かれた冷や水を見つめた。 そりゃあ、全てが大国のように何もかもが一流品で立派なわけじゃあない。 城には老若男女すべて腕利き申し分ない家来、月に一度は盛大なパレード――なんて、そんな大国なわけじゃあない。 そうじゃ、ないけれども。 (それでも自分は国に大変満足しているし、国民も至って平和に暮らしているのではあるし、だから魔族の森に一歩入る覚悟をする事だって散々悩んだ結果ではある事なのに…) と、まぁ、つまり彼女が言いたいことは。 突然参り込んできた魔族との結婚に際して、それなりの覚悟は出来ているし、突っぱねるような捻くれたプライドなんて無いけれども、それでも永遠なる乙女の夢・結婚式くらいはさせて欲しかった!と言う事であった。 もっと厳密に言えば、結婚式は無いにしろ、何かこう、婚約と言う者に多少の憧れがある世代であるので、それなりの憧れは維持させて欲しかったと言う事である。 女と言う者は身分に関係なく雰囲気というものに煩い。 この歳の女と言う者は、家庭に妙な憧れを持つ。 彼女だって、贅沢はしない人間だとは言え、国家最高権力者とは言え。女性である。然りだ。 ティナは自分の新婚生活について自分なりに想像を巡らした。そして考えに考えた。 この短い昼食の時間中だって、実に考えた。それこそ、御勉学の時間のように知恵熱が出そうになるほど考えた。 カステルの言う事が正しければ、ティナの婚約者は、隣林ナスリカを何時間も進んだ所に住んでいるという。 そこは、鬱蒼と陰樹の木々が生い茂る森の中、延々と深い場に存在する、未知の世界。 魔族が繁栄しているというその世界は、ティナが想像するにはあまりにも現実離れした世界であった。 恐らくは、その新婚生活とやらも想像を絶するもの――…… だが、どんなに想像がマイナスへ働こうとも、今後の生活を考えないわけにはいかない。 考えたくなくても考えてしまう。(それが、女という生き物の癖である) 「婚儀は無いのは、……まぁ分かりました。それは諦める」 「そうですか。有り難い事です」 「国民にはどう説明すれば良いの?」 「貴方様が向こう方のお屋敷へ嫁いだ後に、正式に発表いたします」 「それは……ちょっと不安ね」 「不安ですね。しかし今発表した所で、一層国民が混乱するだけです。中には魔族と争う体制を見せる浅はかな輩も現れるかもしれませんから――」 「うん、それは一番困る事態ね」 「そうでしょう、ですから、国民へは後回しです」 カステルは辛そうに眉間を抑えた。 父親代わりと言う事も相俟って、相当睡眠を押し、彼女と魔族の婚姻を推し進めてきたのは彼自身である。 反発するであろう国民、混乱するであろう隣辺国家の反応、婚姻手続の進め、等など。 全ては彼の指令の元に動いている。 「それと、もう一つ聞きたいんだけど」 「はい何でしょう」 「というよりは、聞かなければ気が済まないわ。ご親切にも、私を人間で無い何処の誰とも知らない何かと結婚させてこの国を魔族の手から救おう等という確かに正統といえば正当な手段ではあるけれど、個人の尊厳を考えない凄まじい行動をした有り難いようで実はとんでもない発想をした人物は一体誰かしら?」 瞬間、場の空気が固まった。 カステルを見つめるのは、屈託無いティナ王女の笑顔。 国民から信頼を寄せられ、正確温和。我侭も言わず、小さな体一つで数年国を背負ってきた彼女のその悪意が無き笑顔には、実際とんでもないほどの色濃い感情が潜んでいる。 冷や汗をかくと共に、カステルは唾を飲んだ。 齢、ティナより一回りも二回りも上を行く彼であるが、こういう機転はめっきり弱い。視線をさ迷わせて近くに立っていたティナと同世代のメイドに「なんとかしろ」との意志を伝えるがあっけなく向こうからも視線をそらされ却下されてしまう。 仮にも国防の頂点に立つ人物としてあるまじき姿である。 しかし相手が、娘のように可愛らしく、それでいて国家最大権力者、自分の上司にもあたるティナであるのだから、些か仕方の無い事ではあった。 「えぇ、それはですね……いや、はい」 「“いや、はい”?ねぇカステル、こっちを向いて」 「ティナ様。世の中には知ってはいけない事があるのをご存知ですか」 「カステル、これは私が最も知るべき最重要事項だと」 「姫君。伝統というものは、いつ何処で始まったか分からないから伝統なのですよ」 「伝統?この、魔族との婚儀が?それだったら、何故に母上は魔族の元へ嫁がなかったの」 ティナの問い掛けに、カステルはふっと目を細めた。 「ティナ様……貴方、結構お学業の時間、真面目に神学・歴史学を勉強無さっておりませんでしたな」 「…う、それは……、関係無いじゃない」 いいえ関係御座いますとも、というと、カステルはようやく手元の冷水を口にする事が出来た。 ティナの予想外の抜けっぷりに、彼も気が抜けたのだろう。 何となく馬鹿にされたような気分のティナは、顔を多少赤くしながら、それでもきっと睨みつけるようにカステルを見つめた。 「魔族と人間では、寿命が違うのですよ」 「そのくらいは知ってるわ」 「では――ふむ、どうやら昔から思っていた事ですが、貴方はどことなくそのような温和な気性のせいか、考えを一歩踏み込ませる事をしませんな―――ああ、いえ。けして馬鹿にしているのでは御座いません。その年頃にすれば、それはもう可愛らしいで済む事なのですが、立場が立場、もっとしっかりして頂きたいと思うのですよ」 18の童顔小娘に睨まれた所で、カステルが怯えるはずも無い。 ティナはその表情に精一杯抗議の色を出しているのだが、些か迫力も足りない。 「考えて御覧なさい。一匹の魔族のもとへ、王族を一度嫁がせたとします。その魔族が滅び、子孫が成長していざ次の王族を引き取ろうとした時、果たして我々人間の国では何代王が入れ替わっているとお思いですか?」 「え?……あ。あー……」 「あー、ではありません。もっと精一杯思考を働かせてください」 「働かせようとしても頭が動かないのよ。不安でいっぱいいっぱいで」 「それは我々も一緒です」 「食べ物が違うかったらどうしよう……いきなり晩餐に人間の肉なんて出てきたら!」 「そんな事は心配しなくとも大丈夫です」 「もしもいきなり食べ殺されたら?……ほら、よく言うじゃない?うら若き人間のやわらかな肉が目の前に!ていうアレ。結婚初日にいきなり食べられたら、それこそ新婚生活どころじゃないわ」 「ですからティナ様、大丈夫ですと申し上げているでしょう」 「さっきから大丈夫大丈夫って言ってるけど、それに一つでも確信が――」 傍から見たらまるで年の差カップルの夫婦漫才だろう。 ティナとカステルの延々と続いた昼食中の討論は、突如広間に入り込んできた一人の臣下によって遮られた。 転がり込むように扉を開け床に膝まづいた年若い臣下は、顔面蒼白、息を切らして、ティナを見上げた。 「た、大変です!!」 「騒々しい。王女が昼食をお取りになっているのだぞ」 「申し訳御座いません、し、しかし…、これは早々にお伝えすべき事かと」 ごくりと唾を飲む込む音が聞こえた後、臣下は震える唇で言葉を紡ぎ出した。 「兵士が一人―――、…先刻、隣林ナスリカにて、魔物に襲われ、…食われたとの一報が、」 がたん!という音とともに、ティナとカステルの双方が勢い良く起ちあがった。 はずみで、手元のグラスから水が揺れ溢れる。 「何と!」 「あれほどナスリカの森には、緊急事情がある以外入ってはいけないって勧告が…!」 「何故勝手な真似を!こんな大事な時期に!」 カステルが鋭い剣幕で声を荒げた。 「ほ、本日早朝、下官の一人が魔の森に迷い込んだとの情報が入りました。それを捜索しに単独で入った、上官が――」 「迷い込んだだと?そんな話は入っていないぞ!」 「二人とも落ちついて…、何故、その下官は森なんかに入って行ってしまったの」 「本日、森の周辺にある軍の演習場で、軍事訓練が行われておりました。その際、訓練に参加していた下官が途中で行方を晦ましまして」 「……」 「皆で近隣を捜索したのですが見当たらず、彼の上官が」 「ナスリカに入ったとしか考えられない、と判断し、単独で後を追ったと?」 「仰る通りです」 臣下はひとしきり喋ると、ごくりと唾を飲みこんで息を整えた。 「彼は部下を安全な場所へ一塊に撤退させた後、単独で森隣を捜索した模様です」 「城に通達も送らないまま、単独であの森へ?」 「浅はかな。捕って食えと魔族に言っているようなものだろう」 「初めは安全な大きな道を通って行ったらしいのですが……」 「迷った、と」 「部下の話では、上官が森に入って数十分後、獣の唸る声が聞こえたとの事です」 「決定的だな」 カステルはこれまでにない深い溜息をついて、どっかりと座した。 ただでさえ、この幼い王女様にとっては、魔族に対しての警戒心しかないというのに! 更には、やっとナスリカの森の奥深く、魔族の巣窟へ入る事を説得しかけたばかりだというのに! これでまた国民が一人犠牲になったとあれば、乗り気であった婚姻を破棄すると言い兼ねない状況である。 やられたと言わんばかりの沈んだ表情のカステル・ジニア。 比べて、歳若いお姫様は、小さい脳味噌と思考力を必死に働かせて自分なりの仕事をしようと必死であった。 「被害者の家族には、正式に謝罪の文を」 「こんな事件があった後に私が魔族へ嫁いだ何て事が国民に知らされたら、皆大反乱を起こしかねないわ」 「確かに貴方は国民からの人望がおありです。そのような事態は極力避ける様に尽くします」 「……………………婚約破棄には」 「なりません!」 どいつもこいつも、頭を悩ませる人間ばかりだ――― カステル・ジニアは娘にも似た存在の王女様を、少しだけ怨めしく思った。 |