旦那様、旦那さん、若旦那、旦那殿……

言い方をいくら変えても、彼が私の婚約者であるという事実が変わる訳じゃない。
それでも頭の中は混乱中。
失礼にも、眼前に佇む男性に指をさして口をパクパクさせる事しか出来ていない。
何か言おうとはするけれど、私を無表情で見下ろす瞳と目を合わせると、途端何も言えなくなってしまうこの迫力、そして威圧感。

「姫様、大丈夫ですか」
「ハ、ハイ」

ロドメさんに返事をしてみたものの、一度抜けた腰は戻らない。
そんな私を見て、婚約者の彼が舌打ちをした。

「だらしが無い」
「きゃ……っ」

急に浮いた自分の体。
ぐるりと回る視界にびっくりして変な声を出してしまった。
いつまでも立ちあがらない私を見かねた彼が、無理やり首根っこを掴んで立たせたあと、私を抱き上げたのだ(新婚早々夫に抱き上げられた理由が、腰を抜かした所為だとは誰にも言えない)。

「夜も遅い」
「え?」
「城の者も皆寝ている。お前がどうしても食事がしたいやら湯を浴びたいやら言い出さなければ、このまま就寝ということになるんだが」
「あ…、」

何気に脅迫じみた発言だけれど、今はそこに突っ込んでいる余裕は私に無い。
疲れている、というのもあるけれど……何よりこの体勢が……異常に恥ずかしい。

「結構です、何も我侭言いません、言いませんから、あの」
「何だ」
「降ろして下さい」
「降ろしても立てないだろう」
「じゃ、じゃあ引きずって下さい」
「……お前は相当馬鹿のようだ」

彼は明かに見下した溜息をついた。

「ロドメ。お前も休め」
「畏まりました。では、休ませていただく前に、姫様のお荷物をお部屋にお運びいたします」

ロドメさんは軽く礼をすると、荷物を持ちなおして私の部屋へ運ぶ・・・・・・
と思いきや、目の前の扉、つまり婚約者の彼の部屋の扉を開けて歩き出した。

「あの、ロドメさん、私もう自室で休ませていただくので、荷物は私のお部屋に――」
「えぇ、ですから、姫様の部屋にお運び致します」
「え?」

ロドメさんの後に続いて、私を抱き上げたまま彼も部屋に入った。

床には年季を帯びて色褪せた赤絨毯が敷かれてい、部屋の所々に、暗闇を照らし出す燭台がかけられている。
広い部屋には机と本棚、ワインレッドのカーテンが垂れる天蓋がついた大きなベッドに、城下を眺める事が出来る大きな窓。うん、いかにも城の主人の部屋、という感じがする。

そして、壁には、1つの扉。
ロドメさんは一旦荷物を床に置くと、壁にかかった燭台を手にし、その扉を開けた。

「さ、こちらが姫様の自室で御座います」

………。

「ここが!?」
「文句があるのか」
「えっ、あ、いえ…」

大きな声をあげるが、頭上から聞こえる冷たい声と冷たい視線に思わず身を縮めてしまう。

「でも、ここって貴方のお部屋でしょ」
「そうだ」
「私の部屋が、貴方の部屋の中に……」
「姫様が部屋を出入りなさる時は、旦那様の部屋をお通りにならなければならない、という事ですな」
「!!……私、他の部屋で良いです!物置とか、書庫とか…アナスタシアの馬舎とか!」
「その様な所に姫様のお部屋をご用意するわけありませんでしょう」

ロドメさんはひょいと軽そうに荷物を持つと、私の部屋にそれを置き、部屋の中に燭台を取り付けた。
私も彼に抱き上げられたまま自室に入る。

あまり広くも無く、それでも物置ほど狭くは無く……あまり悪い感じはしない。部屋の設置条件を除けば、だけど。
室内には机、ベッド、本棚、服掛け、中くらいの窓。何度見渡しても扉はこの1つしかなく、彼の部屋を通る事はやっぱり必須らしい。

「あぁ……」

領主殿は、悩む私をベッドの上に降ろし、自分はロドメさんと一緒に早々自室に立ち去ろうとする。
(て、ちょっと待って!)、
私はここに着いたばかりの身で、明日の事とか、起床時間とか、魔族のこととか、トイレの場所とか、いっぱい聞きたい事だらけなのに!
扉が無情にも閉められかけている中、私は必死に彼の背中を呼びとめた。

「あ、あの!ソ、」

名前――あぁ、咽喉まで出かかっているのに!

「ソ、……ソルディック・ジェスカフィーノ!」

絶対違う。
自分でも気付いた違和感であったけれど、それ以前に。
閉まりかけた扉の向こうに明かに怒りの雰囲気が感じられ、ロドメさんが微笑ましく笑う声が聞こえてきた。

「――“ソルディス・ジェノファリス”」
「あ……」

閉まりかけた扉の間に、彼の冷酷な表情が蝋燭の薄明かりに照らされているのが見えた。

「明朝までに覚えろ。でなければ、この城を歩く事は許さない」

バタン。
ただ扉が閉まった音のはずなのに、それが恐ろしく怒りを含んだものに聞こえたのは……うん、気のせいにしておきたい。
はぁ、と溜息を付いて、私は疲れた体でベッドに沈み込む。

――想像していた魔族の領主、とはちょっと違う。

そりゃあカステルに始めて話をされた時みたいに、猛獣のような魔族を想像していたわけじゃないけれど。けれど、ロドメさんみたいなおっとりした人が仕えている領主だから、もう少し、こう。貴族独特の振る舞いをした、何と言うか……。

実際、あの怖さと凄みはなんだろう。
感情の欠片も見せないような冷たい黒の瞳、冷たく低い声。
気のせいかもしれないけれど、私を抱き上げる腕も、見知らぬ女に対する乱暴さが混じっていた気もする。
『私、兄様みたいな人と結婚するの』とか『私、カステルのお嫁さんになる』なんてはしゃいでいた頃が夢のよう。

「私があんまり美人じゃないからかな」

独り言のように思考錯誤しながら、ようやく歩けるように回復した自分の腰を持ち上げて、寝る準備を始めた。
隣の部屋と同じように赤絨毯が敷かれた部屋は、歩く度、靴越しに心地よさが伝わる。

絨毯の上に腰を下ろして、荷の紐を解く。
寝巻きや正装。小物が入った宝石箱。
色々積めてきた物が溢れるように出てきた。

壁にかかる大きな姿見に自分を映しながら、ちょっとナイティを合わせてみる。

「……なんでよりによってピンクのを」

この城の雰囲気に全く合わないどころか、隣の部屋にいらっしゃる彼に一目見られたら馬鹿にされそうな配色。
レィセリオスでは全然不自然じゃなかったのに、まぁ、時と場を考えろとはこの事だ。
いまさら文句を言っても仕方無いから、遣る瀬無く今着ている服を脱いで寝巻きに着替えた。

ふぅ、と溜息をついた後に目に入ってくるのは、窓から見える街の明かり。
城下に広がる、魔族達の街だと思う。
真夜中の筈なのに街は所々に明かりが灯り、きっと朝までこんな感じで賑やかなんだろう。

それに比べ、私の新婚初夜の暗い事!
やっと辿りついた城はまるで牢獄のような冷たさで、初対面の婚約者は小説の中から飛び出した悪魔のような冷酷さ。

一応婚約とは言っても私は「人質」のようなモノだから、我侭なんていってられないけれど、それにしたって。

「――甘くない!」

人生って甘くない。新婚も、想像してたほど甘くない。

そんな当たり前の事を痛いほど実感した、長い長い夜だった。





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