SIDE - Tue・noduolor -
男は無表情のまま窓の外を見つめた。
外は夜。天にはぼやけた、欠けた月。
――半端だ、と。その男は舌打ちをした。このような月ならば、照り出ない方がまだ気が治まる。彼にとってこの程度の月では、些か血が騒ぐ事も無い。
満月の日になれば、彼等は体力や活力、精力に至るまで、通常とは異なった生命力が涌き出る。
其れこそ人間が平生神話や寓話の類としながらも恐れ慄く、魔族の為の夜になるのだが―――如何せん今夜はそれなりに煮え切らない月具合であった。
そのおぼろげな半月のぼんやりと月光が照らしだすのは、その男の“要塞”とも呼ぶ事の出来る城一帯である。
灰色をした、威厳を含んで聳えるその建物は、まさに人間のそれとは違った雰囲気を纏う。
聖レィセリオスの白い城壁のそれと比べれば、一目瞭然であるだろう。
男は、城の二階に書斎を控えていた。
ゆったりと弾力ある椅子に身を沈め、先程からじっと窓の外の天を見やっている。
彼は若かった――人間の感覚からした、見た目の上では。
年の頃なら二十代半ばであろうか。漆黒の美しい頭髪を後方に撫でつけ、双眸は闇より深き暗黒を湛えてい、人から見ればやや青白いであろうと見える肌は、淡い月光を浴び、その美しい容貌を更に美しく飾っている。
男は細く長い指で、つぅと手元に携えていた数十枚の書類を静かに捲った。
軽くそれらに目を通した後、椅子から腰をあげる。
長身の身に纏った黒のシャツ。室内の為、黒の包衣等は着掛けに掛けているが、それでも男はその室内さえも暗く闇を宿し――正しく漆黒一色に染めていた。
「ロドメ」
不意に男は立ちあがり、窓の傍へ歩み寄った。虚ろな空間には似つかわしくない鋭い双眸。
ふっとその目を細めたかと思うと、いつから立っていたのか、扉の元に佇む一人の老人を呼びつけた。
白髪を柔らかくではあるが後方へ整え、口元に髭を蓄え温厚に目を細める老人。
彼は返事をすると、ゆっくりと主である長身の男へ近寄って行った。
執事であろう、ロドメと呼ばれたその老人は、主人から書類の束を手渡されると、はて、と言った表情で、首を少しばかり傾げた。
「そいつをレィセリオスに届けておけ」
主人である男の言葉に、老人は、毒気の抜かれるような、そんな表情でにっこりと微笑んだ。
「ト・ノドロに来るからには、それくらいの覚悟が必要だ」
あぁ、そうで御座いましょうに――、老人は微笑んだまま深々と一礼をする。
そのまま扉の方へ向かい、蝋燭の一本もも灯さぬその部屋を、静かに出ようとした。
「――あれは何だ」
歳若い男は、しかし老人を呼びとめた。
あれ、と申しますと。
老人は畏れ多きとしながらも、窓際へ立ち呆けている主人の元へ歩み寄った。
主人の漆黒の双眸は、窓の外をじっと見つめているままだ。
月は半月――おぼろげ、しかし外は異様に明るい。
見れば、城から暫し離れた城下の街には、いつもの倍の明かりが灯されていた。
人里から隔離された街。いや、気付かぬ人間が愚かなだけであろうか。(こんなにも、あの者達が思っているより、世界は広いというのに、)
「あれは、夜光獣の戯れか」
「いえいえ、あれは民の宴に御座います」
「では、今宵は何かの祭典か」
「いえいえ、若様。あれは祝と混乱に御座います。早々に姫様がいらっしゃるからでしょう」
人間がト・ノドロに来るのは久しい事で御座いましょうから――――、
老人は最後にそう言うと、もう一度深々と礼をする。
主人の机の上にまだ中身の満たされた水差しがあるのを確認すると、今度こそ書類を手にしたまま静かにその部屋を出て行った。
残った男は一人、今だ暗黒の部屋の中でぼうっと外を見つめている。
ソルディス・ジェノファリス。
その名を携える男の目前に広がるは、東方魔族達の巣食う要塞都市ト・ノドロ。
人の関与する所にあらず、その存在は人の住む世からかけ離れている。
人間に敵する魔の蔓延るその一画を支配する男は、何かを考え込むように手を組み眉間に皺をきっと寄せ、直に来るであろう混乱を思い描いた。
不意に頭を過ぎるのは、肩を流れる淡いブロンド。
そして、何かを見つめる時に微かに瞬く睫。
言葉を紡ぐ唇は、薄桃色のそれであり、双眸の緋色はローズラウンドの宝石を髣髴させるように静かに揺らめく。端正な顔を歪ませたまま、彼はその闇を思わせる不機嫌そうな双眸の奥に、今だその手に触れられぬ一人の少女を思い描いた。
「…………茶番だな、ジニア」
低く響いた声は行き先も無く、それきり夜の闇に消えて行ったのだった。