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燃える、炎。 いや、もしくは飛び散る鮮血を被ったような、鮮やかな赤。 逆光の中のその人の姿に、彼女は軽い眩暈を感じる。 「……ソルディス?」 違う、彼はソルディスじゃない。 そう頭で分かっていても、他に答えが見つからないティナは、思わず彼の名を呼んでしまった。 縁に腰かけて、楽しげに鼻歌を歌った男は、呼ばれた声にゆっくりと瞬きをしながら首を捻る。 目が合って、完全に息が詰まった。 男と呼ぶには美しく、女とするには、その眼の意思は強すぎて。 押し黙ったティナを一瞥し、互いに暫しの沈黙。 2、3、呼吸の間が空いて―― 不意にはっきりと合った彼の焦点、捉えられ、絡み取られたその視線に! その眼の恐怖に、ティナは手にした絵本をバサバサ床に落とした。 小鼠を見つけた猛禽の様、一歩一歩歩み寄ってくる目の前の麗人から目もそらせず、ただ息を呑んで、ガッと彼に掴み上げられた肩を強張らせるしか出来なかった。 眼にかかった赤は、それはそれは深く、熱く、美しく。 色気を含んだ薄い唇は、女性のそれよりも艶やかで。 ティナの肩を掴む指は、細く長く、まるで琴を奏でる妖姫のよう。 だから、綺麗な人だ、とティナは思った。 同時に、恐い。この人の、全てが恐い。 初めて会った時、ソルディスに感じた威圧感とは別の恐怖がここにある。 それは、怯みも躊躇いも戸惑いも無く、ただ自分の心のあるがままに突き進む無邪気な生物に対する恐怖。(そうだ。力を持った、強い、“子供”だ) 彼はまじまじとティナの緋色の瞳を覗き込み、頭のてっぺんからつま先までゆっくりと見つめ尽くし。 「――子供!」 「はい?」 開口一番。ティナは思いがけない言葉に、瞬き一つ。 「背丈は低い。見目が幼い。肉付きもまだまだ子供。はて、東方の女は質が落ちたか?」 言っている意味が分からない。 ティナの脅えた様子など全く意に介さず、男は、首を傾げながら、彼女の身に着けたドレスを摘んで、 「が、服は良い物を身に着けている。やはり、上等の売春婦か」 ば……!!?!?!? 鈍感度城内一を誇るティナでさえ、流石に目を丸くした。 「あ、ああああ、あの、あなた一体、誰……」 「無礼な。客商売のルールを知らんのか?貴様は」 壁と、男の狭間に立って、ティナは珍しく、他人に対する恐怖を感じた。 こちらを見下げる、射抜くような眼球。 「未通娘か?はっきり言って、願い下げなタイプだな」 「願い下げ……っ!……ってあの、私は、この部屋の」 「ソルディスの部屋に、何故お前のような娼婦が居る?」 今日は、女は不要と言っておいた筈だったが。あいつめ、余計な気を回したか? 一人ブツブツと言いながら彼は己の唇をゆっくり舐めた。 背の中心を走る寒気、得も言われぬ恍惚の色。 「お前、名は」 「……ィナ」 「聞えん。もうどうでも良い」 確認できない位、不意で力強い彼の腕に、ティナは一気に捉えられて、 「ソルディスの見立てにしては特異だな。はて、奴の嗜好も変わったと言うべきか」 「だ、だから!私の名前は、ティナ・ジェノ――――」 「まぁ良い、これはこれで面白い」 聞いてない。 男はただただ目の前の事が楽しいだけの様に、ティナの細い腕を掴んで、見慣れた広いベッドの上へ小柄な体を放り投げた。 「ちょ、……ちょっ!痛っ、あの、……どちら様か知りませんが、これは流石にっ!」 「アルキデア・コークシス」 「……え?」 「名は告げた。肩書きは、要らんだろう」 アルキデアってどっかで聞いたことが。あるような、ないような。 あやふやな記憶、ティナが必死に掻き分けるその最中。 アルキデアは簡単に、ティナの体を押し倒す。 「…え、ちょ、あの――……んぅ……っ……!」 途切れた言葉。 触れ合った唇は、熱い。熟れた果実の様な甘く柔い唇で、ティナの桜色のそれは塞がれていた。沈む体を受けとめる、寝慣れたソルディスのベッドは、昨日もティナが夜を明かした場所。愛する彼の腕に抱かれて。暖かい夢を、そっと見ながら。 けれども今、押し付けられた体を汲み伏すのは、大好きな夫じゃなくて、傍若無人を絵に描いたような、見知らぬ男。 目の前に塞がる、燃える頭髪。乱暴な力は、ソルディスと違う、残酷な力。見つけた熟れた実を遠慮なく握り取る様な、無遠慮な力。 恐怖と嫌悪に思わずティナは歯を立てた。けれど相手はビクともしない、ばかりか、咽喉で笑った。 男が桜色の唇を吸い楽しそうにティナの体を撫ぜ始めれば、彼女の声も、やがて色を含んだ物に変わってしまって――本気の本気で、彼女に迫り来る危機感。 (――嫌、恐い、) ティナは心で叫ぶ。 (ソルディス、助けて……っ!) 「――!」 途端、何かに突き飛ばされたように、アルキデアの体が跳ねた。その力の言いなりになる事無く、彼は感心したように笑みを浮かべながら、ふわりと跳ぶ。窓際へ降り立つと、扉の方を見つめて、 「どうした、ソルディス」 視線の先には、肩を竦めるアルキデアに手を翳したままの、部屋の主が、其処に居た。 何だ一体何事かと首を傾げたと同時。再び、戯けた様に身を翻すアルキデアの深緑の袖が、一瞬にして塵と化す。さて、益々訳が分からん。彼は不思議そうに顔を顰めた。 「何だ何だ。勝手に寝床を借りたのがそんなに不快か?」 貴様と私の仲だろう。笑うアルキデアに、 「――自分の女まで貸した覚えは無い」 ソルディスは、胸元を押さえながら脅えた様子でベッドにへたるティナを見て、「立てるか、ティナ」 呼ばれた姫君は、泣きそうになりながら彼の傍に駆け寄った。 思わずぎゅっと腰元に抱きついて、誤魔化すように、涙の滲んだ瞳を押し隠す。 気の抜けた顔で二人を見るのは、窓際のアルキデア。 不意に、頬を殴られたかの様な目で。 袖をはらう手も止めて、瞬きも忘れたように、その理解不能の眼差しを、目の前の光景に向けたまま。 アルキデア、呼ばれた声に、我に返った北方領主は、ぱちりと瞬きをやっと一つして、――ああ、と気の抜けた返事をした。 「アルキデア。ティナだ」 ……沈黙。 え、何この無言の間。ティナは思わず顔を上げた。 はぁ、と疲れたように溜息をついたソルディスは、不安そうなティナの頭をそっと撫でる。 「――ティナ」 「そうだ」 「ティナ・クリスティーン……」 「今はジェノファリス」 「お前が結婚した、あの噂の人間の……」 そうだ。 「この、ちんちくりんがか!?」 ちんちくりん……。 ティナは、言い返せないそこに矢をグサリと刺されて完全に押し黙る。 途端アルキデアの笑いが爆発した。 堪えきれない、そんな風に、腹を抱えながら笑い出す。 すっごく失礼ですっごく不可解ですっごくすっごく何だか頭にくる事態なのだろうけれど、その笑いすら何だかどこかが妖艶でティナはそのまま言葉を引っ込めた。満足するまでとりあえず笑いつくすと、彼は抱き合う二人に歩み寄って 「これはこれは失礼をした!いや実に失礼だった、事もあろうに東方領主殿の正妻を城下の娼婦と間違えるなどと!」 ソルディスはアルキデアをきつく睨む。 「どこをどうして売女に見えた。お前もそろそろ殺され時か?」 「どう見ても生娘だが、東方での女の手配はいつもお前に任せきりだったもんでな。私は、てっきりお前が冗談でこんな女を用意したと思ったのだよ。話には聞いていたが、よもやこんな小娘がお前の嫁だとは流石の私も思うまい!」 フォローが無い。 アルキデアは腰を屈めて、姫君に微笑みかける。 そのままゆっくりと、脅えるティナの片手を取って――その甲に口付けた。 「初にお目にかかる。私は北方領地ヒーデンの領主、アルキデア・コークシス」 「ほ、北方領主……?あ……の、私は」 「聖レィセリオスからの生贄、孤独の姫君ティナ・クリスティーン」 おっと、それは旧姓だったな。 アルキデアはにっこりと笑みを浮かべて、もう一度ティナの甲に唇を落とす。 「さてもさても、ソルディスの嫁がこれ程までに嗜虐心を誘う娘だとは――これでまた、東方での楽しみが一つ増えたな」 「アルキデア」 「褒めてるのだよソルディス。この私が関心の一つも寄せぬ女など娶られては面白くない。貴様の楽しみは私の楽しみ、私の楽しみは私の楽しみだ」 言って、アルキデアは思い出したように、今度はソルディスの肩に手を置いた。 「お前の嫁は、まるで追い詰められた小鼠だな。見ろ、噛まれた」 微かに切れた己の唇を見せ、アルキデアはふっと笑う。 この始末、一体どうしてくれる?なぁ、小娘。 いきなり落とされた視線に、ティナはビクッとしながら、やはりその瞳に強く捉えられたまま。 「貴様は、この私の体に傷をつけたのだ」 「あ、アレは……アルキデアさんがっ」 「私が、何だ?」 じわじわと追い詰める獣に、震えながら涙目で対抗する小動物。 「ん?どうした、言ってみろ」 「ア、ルキデア、さんが、変な事するから」 「変な事とは一体何だ。詳細に言ってみろ、一字一句の違いも無く」 ぎゅう、と握り締められる服の裾に、ソルディスはティナの肩を抱いて、 「殺されかけても懲りない様だな。その身を退け」 「何だ、奥方と引き離すつもりか」 「ティナに触れるな」 「成程。ならば貴様が責任を取れ」 言うが早いか、アルキデアがソルディスの首に噛み付いた。 痒い痛みに、赤毛の猫を煩そうに払うソルディス。その腕をかわしながら、アルキデアは不意打ちに彼の唇をぺろりと慰め、 「消毒だ」 ……っぎゃ――!!! 姫君の悲鳴が部屋に響く。 「最低!ひ、ヒドい、絶対反対!わー!アルキデアさんの泥棒猫!」 「はっ、喚け小鼠。絶望を覚えるが良い。貴様は、自らこの私の崇高なる肉体に歯を立てた事への応酬として自分の男の体に手を出されているというこの因果を噛締めるべきなのだ!」 「な、何て理不尽っ!鬼!」 「不満なら、貴様が私の傷を癒すか?」 笑うアルキデアは、しかしソルディスの細められた瞳に不穏の色を見ると、宥めるように微笑んだ。「冗談だソルディス。その私さえも殺しかねない視線は止めろ。穏やかでないぞ?」 自業自得という言葉は彼の辞書に無いらしい。 ティナは北方領主の掌で思うがままに転がされて遊ばれながらも、その頭を優しく撫でるソルディスの傍にいる安心感でなんとか冷静を取り戻す。 「あれ……特別なお客様って。もしかして、この、アルキデアさん?」 見上げる姫君に、溜息の領主。 ティナはぱっと顔を明るくして、微笑んだ。「なんだ。良かった、やっぱり浮気じゃなかったのね!」 ソルディスは冷たい視線を、アルキデアからティナへ下ろす。 浮気?一体何だそれは。 そんな馬鹿な思考はお前が独自に生み出したのか、はたまた下男下女が吹き込んだのか、その辺りを詳細に説明して頂きたい。 「だって、ソルディスもニル姉も私を必死に部屋に追いやるんだもの」ティナは困ったように言う。「そんなに私に会わせたくない人っていったら、城下の娼婦さんか、それか――アリシアさん?」 かな、って。思ったりなんかして。 首を傾げるティナに、全く笑っていない領主様。 え、ちょっと、あの。今のは……冗談。 なんて宥めようとする姫様の笑顔は全くの無力である。 「アリシア。知らん、誰だそれは貴様の妾か。成る程、そいつもコレと同じ幼女の類という訳だな!」 「一回死ぬか?」 「アリシアさんは、ソルディスが記憶を無くした時に世話になった人間の方です」 ははあ、とアルキデアは唸る。 「そう言われれば思い出した。つい最近の話らしいな。弟君からの事後報告だ、そんなに面白い事件があったなら何故即刻この私に知らせない?飛んで東方に顔を出し、散々楽しんでやったものを」 「状況の悪化は誰もが避けたい事態だろう」 「それで事態は良い方向へ進んで行ったか?本当にその記憶は完璧か?塵一つ分も思い出せない事は無いか?貴様の隣に立ってる女は果たして本当に貴様の嫁か?本当の本当にこのちんちくりんが貴様の娶ったティナなのか?」 「しょ、正真正銘、私はティナでこの人の正妻ですっ!」 「記憶という物は曖昧なのだよ、自称ティナ・ジェノファリス。それは常に外部と内部からの干渉がある故、記憶とそれに纏わる感情は1秒ごとに変化していく――そら」 「……痛!」 突然、抓られた頬。 「い、痛い、イタ……何するんですかっ!?」 「腹が立つか?」 「当たり前です!」 「それはそれは申し訳ない。だが、貴様の頬に毒虫が止まっていたものでな」 え、とティナが瞬きをする。 「どうだ。そう言われれば、憎んだ相手が一気に恩人へと変化しただろう」 「あ。本当だ……」 「まぁ毒虫なんぞはどこにもいなかったがな!」 既にただの憎い人。 ひとしきりからかい終えて満足したように笑うアルキデアの肩にソルディスは手を置いて、 「いい加減にしろ。部屋を変える、廊下に出ろ」 「変える?何故。丁度お前が来た、ここで話せば良い」 「こいつが居ては話せる事も無いだろう」 「この際だ。そろそろこの娘も、自分の住む世界を知る良い機会だとは思わんか」 アルキデアは、ティナを見下ろす。 「貴様もこの世界の傾れを知りたいだろう――なぁ、ティナ?」 |