ヒトというものは。
理解不能の事態に陥った時には、言葉を発する事が不可能になるらしい。

ティナの体は今、恐ろしい程それを実感していた。


「……」


ソルディスの言葉が止まった後も、それは暫くの間続く。

――何を言っているのか分からない。

ただ、それだけが頭の中でハッキリしていた事だった。

「ソ、ル」

思わず体を起こそうとしたティナを、ソルディスがゆっくりと制す。

「そのまま横になっていろ」
「でも、」
「言葉によってお前が助かることもあれば、負担がかかって苦しむ事だってある。いいからじっとして寝ているんだ」

そこまで言われては、反抗心すら萎んでいく。
ならば、とティナはせいぜい動く口で問いかける。

「私が……生き残った?」
「……」
「一緒にいた人が……皆死んだ?」

誰が、死んだ?

「――殺されたのは、お前の両親、親族。それに同行していた従者――ああ、それと」

一旦間を置いて。

「お前の兄だけは――行方不明だった」

ティナの目に狼狽の色が浮かんだ。

「兄様……」
「リオ・クリスティーン。その少年だけは、遺体も見つからないまま、未だ以って行方知れずだ」
「嘘、」

だって、私の家族は――

「私の家族は、病気で死んだのよ。殺されたんじゃない、流行り病で、2年前に」
「そう言ったのは、誰だ?」
「カステルが、」
「そうだ。――ジニアにそうする様忠告したのは――俺だ」
「ソルディスが?」

カステルさえもが、黙り通していたのだ。
全ては、ティナの心を守るために。

無くしていた過去が、ちぐはぐに繋がっていく。

「ねぇ、ソルディス」
「何だ」
「どうしてソルディスはそれを知ってるの?だって、まるで見てきたかの様な」
「見てきたからだ」
「え?」
「俺が見たのは、全てが終わった後だった」


ソルディスは目を瞑る。

乱暴に折られた木々。
焦げ臭く焼けた草木の臭い。
噎せ返る程の血の臭い。
誰一人声を発する事の無い、静寂の空間。

そして――微かに聞こえた、小さな呼吸。


「耐えられないと思った。お前が事実を知ったら、間違いなく狂うか自害に走る――そう思った。だから、俺は――」


お前の記憶を消したんだ。



カタリ。

ティナの中にある記憶のパズルが、崩れる。

偽りの事実が、真実によって崩されていく。

「おかしいと思う事は度々あっただろう。何せ15年間の記憶が全て朧気のまま2年も過ごしてきたんだ」
「――あった。あったけど、それは、父上と母上、兄様がいなくなった事に対する――」
「自己防衛か」
「そう……そうだと、思ってた」

ティナは言葉を続けた。

「父上は、朗らかな人だった。母上は、厳しいけれど凛とした人だった。兄様はいつも――いつも、私を守ってくれた」

(守る?一体、何から?)

「そういう記憶は少しでも残ってる。でも……三人が他界した時の記憶は、」
「殆ど消し去られているはずだ」
「そう……確かにそう……」

嗚呼、でも。

ティナは額に手をやった。
ほんの少しでも残っている自身の本当の記憶を探っていく。


――雨が。


「雨が、降ってた」

ソルディスは黙ってティナを見下ろしている。

「雨が降ってて……そう……月下零が、咲いてて」

そうだ。
あれは突然降りかかってきた雨だ。

――血の臭い。
血の臭いがした。




『その娘が、惜しいか』




誰かの声だ。


そして、私の目の前に立ちはだかる、兄様――


ざあ、ざあ、ざあ。

雨が強まる。兄が何かを言っている。誰かが、兄と話している。



『――この子だけは――』



私だけは?

誰。誰と話しているの?

待って。行かないで。置いて、いかないで。

お願い、どこにも行かないで、兄様――





「にい、さま……」
「――思い出したのか?」
「兄様、は、……あの時……ううん、あの時は、声が、かき消されるくらいの大雨で」

まただ。

また、頭痛だ。

「強い催眠をかけて記憶を消したんだ。断片的でも、思い出そうとすれば脳に良くない」

ソルディスはそう言って、ティナの手のひら越しに、額へ唇を落とした。

「思い出せないなら、思い出さなくて良い。真実は残酷だ。気をふれさせてまで思い出す事は」
「必要よ――だって、これから起こる戦争は私が原因なんでしょう?何も知らないままは、絶対に嫌」

ティナの声は本気だった。

「私が思い出せない事があるなら、ソル、――あなたが教えて。お願い」

暫く、双方沈黙が続く。

そうして、やっと、ソルディスが折れた。


「――あの日は――そう、あの日は、確かに異様だった。異様な気配が、城の中からでも分かる程ナスリカの森に充満していた。嫌な予感がした。雨が降りそうだったが、馬車では遅い間に合わないと、グロチウスを連れ乗って、河原に行ったんだ。途中から強い雨が降って来たが、引き返すには、歪みの気配が強すぎた。そして、珍しく俺は――焦っていた。ジニアから、お前たちがその日、河原に出かける事を聞いていたからな」

ティナは目を丸くした。
ソルディスが焦るなんて、結婚してこの方お目にかかったことが無い。

「着いた時には、もう遅かった。お前の両親は息絶え、従者は見る影も無く無残に転がっていた。リオは、既にいなくなっていた。そこに残っていたのは、巻き添えに遭い、体中に打撲の痣が残って死んだ様に倒れていたお前だけだった。そしてそれを――ジニアのもとに連れて帰った」

ため息が聞こえる。

「あの、ソルディス。もしも、疲れてきたなら」
「疲れてきたんじゃあない。お前にかかる負担を考えながら言葉を選ぶという事が、これ程難しいと思っていなかっただけだ」

そっか――

ティナは、そっとソルディスの方に手を伸ばして彼の掌を握った。

「ありがとう」

その言葉をのせて。

「でもね、続けて。駄目な時は、ちゃんと駄目っていうから」
「――そうか――」
「だからあと二つ教えて。どうして、兄様だけが連れ去られたの?――どうして、私だけが取り残されたの?」
「……一つずつ答えるとするか」

ギィ、とベッドを鳴らし、ソルディスはティナを見下ろした。

「お前の兄が攫われたのは、恐らく“この世界の匂い”を失わない為だろう。一度は歪みから割り入って来た……とはいえ、再度同じ世界を探し当てるのが容易だとは考えにくい。俺が異形だったら、確実に再びこの世界に来る為に、この世界の何かを持って帰るだろうな。“印”――言ってみればマーキングの様なものだが、それを手に入れてから、ようやく自分の世界に帰る事が出来る。――となれば、必然持ち帰るのは匂いの強い人間――しかも、拐かし手なづけるのが比較的容易な子供を持ち帰る。そういう理屈だ。直接俺が見た事ではないから、可能性は十割方とは言えないが」
「“印”として攫われた……なら、兄様の生死は」
「残念ながら、未だ分からないままだ」

ティナの顔が曇る。

確かにあの時、兄はティナの眼前に立ち、何かからティナを守っていた。
ならば、その“何か”は――異形?

「二つ目の質問だが」

古い記憶に耽っていたティナが、現実に戻される。

「お前はまだ、新神文書を全て読み終えてはいなかったな」
「あ……うん」
「アギタの聖物は、各世界を輪廻しているとされている。例えば“双翼の銀糸”、“混沌を創りし微笑み”、“祝福された聖水の露”――そして“紅の一涙”。それらは時に明瞭な形をとる事もあれば、生き物の魂に宿る事もある。今回の場合は後者だな。その場合、保有するものが苦しみ、嘆き、絶望し、時に希望を持つ事によってその魂は熟れ、本来の輝きを増すとされる。そういった文献と照らし合わせて考えれば、異形に襲われた時のお前はまだ精神的にも何もかもが未熟で、魂を取り去るには早期だった。――普通に考えれば、そういう結論に達するな」
「そして私だけが取り残されて、こうして生きている――」

ソルディスの機転と、カステル達に守られながら。

――と、同時に。ティナの中に一つの疑問が生じた。

「ねぇ、ソルディス。どうしてソルディスは、私をカステルの元に届ければ安心だって知ってたの?どうして、私が王族の一人だって見て分かったの?だって、私は全身傷だらけで、きっと服だってぼろぼろで、何処をどう見てもレィセリオスの王女になんて見えなかったはずなのに――」

咽喉で笑う声が聞こえた。

「ソル?」
「お前は、変なところで良く気がまわるな」

ソルディスはティナの手を、一層強く握り返した。

「そうだ。俺はお前を知っていた。何処の誰で、何処に暮らし、どんな立場でどんな地位にあり、どんな境遇にあるのか、全て知っていた」

紅い双眸が、パチンと瞬きをする。


「俺は、お前が生まれたその時から――ティナ――お前の事を知っていた」





ガタ。

ガタ、ガタ、ガタン。


ティナが息を飲んだと同時、不意に風が強くなる。
思わず、彼の手をぎゅっと強く握り締めた。

嗚呼、そういえばもう、彼女の苦手な嵐が来る季節だ。








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