8
――夢を、見ていた。 覚めた視界は、真っ暗だった。 夜?朝方?――いいや、違う。 この暗闇はあの暗くて怖い牢屋じゃない。 誰かの腕の温もりの中だ。 抱きしめられる感覚が、懐かしかった。 昔から、抱きしめて貰っているような、不思議な感覚。 後頭に回された手から感じる、不思議な安堵。 ――私がずっと独りだったなんて、嘘つき。 だって、ずっとソルディスが居てくれた。 ――一度も外に出かけた事が無いなんて、それも嘘。 だって、ずっとソルディスがあの空の下に連れ出してくれた。 あの光景は、たった今見た夢だけど、ただの夢じゃない。 全部、全部、ソルディスが私の傍に居てくれた真実の“記憶”だ。 嬉しかった。 この人が、ソルディスが、幼い頃から私を見守ってくれていたその事実が、何よりも嬉しかった。 「……“黒いお兄ちゃん”、」 ビクリと、抱きしめる腕に力が篭った気がした。 たまらない気持ちになって、目の前に横になっているソルディスに抱きつく。 精一杯の力で抱きついてもびくともしない広い背中。 一方では頭を預けさせながら、片方で、まだ幼い体を抱きしめる優しい腕。 ぐり、と額を擦り付けても動じない、温かくて、広い胸。 全てが、愛おしかった。 夢で見たとおり、自身の両腕を彼の腰元まで下ろして、再び抱きつく。 (嗚呼、“お兄ちゃん”だ) あの時、私の目を疎む事無く、綺麗だって言ってくれた。 あの時、私の髪を、月下零みたいだって、言ってくれた。 全部、全部が、この人の口から出た言の葉が、私の生きる糧になっていたんだ。 「ソルディス」 「何だ」 「―ー大好き」 どこか子供染みていて、それでも心底愛おしそうに発せられた甘い言葉は、すんなりと二人の間に溶けて消える。 「……少しだけ、思い出したの。小さい頃、ソルディスが、私に会いに来てくれてたこと。私のこと、カステルとグロチウスと一緒に守ってくれながら、河原に遊びに連れて行ってくれたこと」 ずっと、そばにいてくれたこと。 「まだほんの少しなんだけど、思い出したの」 ソルディスの胸に擦り付けられた頭をそっと撫ぜて、無言のまま彼は答える。 ――だが、その撫ぜ方にはどこか戸惑いがあって――ティナは、ふと、視線を上げてソルディスを見た。 しっかりと、ティナを見つめ返す双眸。 真っ黒い、夜闇の様な双眸。 その眼差しは――どこか、晴れなかった。 しっかりと、その焦点はティナに合っていて、平生の彼にくらべれば、これ以上に無く愛情に満ちた眼差しである筈なのに――何かが、彼の気持ちを曇らせている。 ティナは抱き付き直した。 ソルディスの腕もそれに答えてくれる。 しかし、彼の気の内にあるであろう何かを――今のティナは探り当てる事が出来なかった。 「ソルディス」 「……何だ」 何だと言いつつ、ティナの不安気な言葉の色を感じ取ったソルディスは、彼女の額にそっと唇を落としてやる。 「私、頭痛とかは平気よ?」 「そうか」 「気持ちも悪くないし、意識もはっきりしてる」 「――そうか」 (嗚呼、) 今度は瞼に落とされる口付けによって、ティナは察する。 (また、話せない“何か”があるのね、ソルディス) それは、記憶の事?私の国の事?家族の事? それとも――エリザさんの事? (いい――何であろうと、今は、良い) “もしも話さざるを得ない時が来たら、その時は、お前に全てを教える” そう言ったのは、他でもないソルディスだ。 今は、まだ。 無理に引っ掻いて、傷をつけて、膿を出そうとしなくても良い。 彼が教えるべきと思った時に、教えてくれればそれで良い。 だって、彼の事を信じているから。 それよりも、と、ティナは思う。 ――ソルディスは、何も語らないまま、ここまで私を守り続けてくれてきた。 何の得にもならない。何の足しにもならない。それなのに、私に何も言わず、ずっと。 「ソルディス」 「何だ」 だから――今度は、私の番。 「私に、剣と魔術を教えて」 刹那、彼の瞳が揺れた。 「何でも良いの。そうね……以前カステルから教わっていた、短剣の扱いから始めるのが良いかしら。あれなら、多少は手に馴染んでいるし」 「……ティナ」 「護身用の構えは出来てもまだ未熟だから、そう――もっと本格的な対人用の――自分の身は、自分で守らなきゃね」 「ティナ」 「でもそれだけじゃ駄目。何か他に――最近ガーネットから少しだけ教わった、治癒の魔術も――」 「ティナ、話を聞け」 彼女の顎に手を添えて、上を向かせる。 「やめろ、何もするな。お前は、黙って――」 「見ていろって言うの?私が原因で、戦争が起こるって言うのに?」 ティナは、固い意思を持った瞳でソルディスと視線を交わした。 剣のイロハは、2年の間、カステルに熱を入れて教えられた。 でも、それは本当に基本的なものばかりで、とても実践で――人と相対して使えるようなものじゃあない。 せめて自分の身くらいは自分で守りきれるような、女性でも扱えるような短剣で自分を守りきれるような腕が欲しい。 加えて、今度の敵は、人間でも、魔族でも無い。 異世界の輩ときている。 ただの剣の腕じゃ駄目だ。 魔に、異形に、覚えがある者から手ほどきを受けなければ、もしもの時に意味が無い。 「ソルディスが反対したって無駄よ。私、何処へでも――何なら、レィセリオスに帰ってでも、カステルに手解きを頼みに行くわ」 「駄目だ。この城を離れるな」 ソルディスがティナの腕を強く掴む。 不意にこめられた力に、ティナは目を見開く。 「俺の目が届かない所へ行くな。これは命令だ」 「だったら、ソルディスが教えて」 今度はソルディスが目を見開く番だ。 「東方で一番強い魔族は誰?」 「……俺だ」 「だったら、ソルディスが教えて。そうじゃなければ、私に剣の師をあてがって」 普段から多忙なソルディスにわがままを言ってる事は重々承知している。 これは、ティナによる意思の強行突破だ。 滅多に見せない彼女の一面に、ソルディスはため息をついた。 「お前の――半魔の女の腕じゃあたかが知れるぞ」 「黙って誰かに刺されて殺されるよりは良い。若しもの時に、最低限の腕と、打ち返す“覚悟”があればそれで良いの」 物騒な話ではある。 話ではあるが、可能性が零とは言い切れないこの状況で、ティナの判断は正しいと言えよう。 嘗てレィセリオスにモロゾナが侵攻した際、バドルの前で確りと己の剣を握れなかった原因は、恐怖に打ち勝つ“覚悟の弱さ”だ。 「魔術の勉学で教わったわ。例えどんな武器であっても――私の小さな短剣であったとしても――毎日守護の魔術をかけて扱っていけば、いざと言うときに、悪意から身を守る強靭なものになるって」 ソルディスは、内心舌打ちをした。 こんな事になるのなら、半端な魔術の知識を教え込むんじゃ無かったと。 「それとね、」 「まだ何かあるのか」 あるわよ、と姫君はベッドに肘を突いて体を起こし、横になるソルディスを見下ろした。 「さっきも言ったけど。私、これからは、戦争が終わるまで、魔術は治癒に特化したものだけを教わっていきたいの」 「治癒?」 「そうよ。魔術の先生でも良い。城下に名のある魔術師がいるなら、その人でも良いし、時間と都合が許すなら、ルークやガーネットだって良いわ」 「何故、お前が治癒魔術に手を出す」 「守りたいからに決まってるじゃない」 まだ生半可な魔族の体じゃあ、使える魔力も限られている。 加えて、ジェノファリスの家系の様に戦闘用の魔術に特化した身でもない。 ニルやクロムセリアならまだしも――ティナには、魔術らしい魔術は扱えない。 ただ一つ、治癒の魔術を除いては。 「ガーネットに言われたわ。まだ魔力が弱い私にも、治癒魔術なら何とか扱えるようになるって。実際、元々人間だったガーネットだって、今じゃそこそこの治癒を使えるようになっているし」 「待て。一体、何を守るつもりなんだお前は」 「そんなの――ソルディスに決まってる」 何を、当然の事を。 そんな風に、ティナはソルディスを見下ろしていた。 「……“俺を守る”?」 「そうよ?」 「お前が、俺を守る――」 くっ、と。 笑い話を聞いているかの様に、ソルディスは咽喉で笑って、ティナの頭をくしゃりと撫でた。 「いつ?どうやって?どの様に?」 「ソルディス、」 「――ふざけるな」 ぐらりと揺れながらティナの身体が反転してベッドに沈みこんだ。 上から見下ろすは、冷たい瞳をした領主様。 「お前が俺を守るだと?こんな――」 つぅ、とソルディスの指が、ティナの咽喉元をなぞる。 「今すぐにでも、首を圧し折られそうな身体一つしか持たない、お前が」 ティナが、深く息をする。 その上下する胸の中心にも、指をなぞらせて、一笑。 「小娘たった一人が、俺を守る?――笑わせるな」 「それは私の台詞よ」 ソルディスの指が止まった。 こんな、今にも捕食されそうな体勢の中で尚、ティナは呼吸を乱さず視線をソルディスから逸らさなかった。 「ソルディスは戦うのよね」 「そうだ」 「異世界の何者かに向かって戦うのよね」 「その通りだ」 ソルディスの指が、ティナの肋骨を強くえぐる。 一瞬乱れる、ティナの吐息。 「この手で、まだ目にしない異形の輩を屠り、奴等の体液を浴び、この地から追い払い――お前を、何処へも行かせはしない」 「そうやって、ソルディスは、異形から“この世界を守る”のね」 息を乱す代わりに今度はティナが、自身の指でソルディスの胸をぐい、と指した。 今度こそ、息を呑むは見下ろす彼の方で―― 「貴方がこの世の全てを守ると言うのなら――貴方の事は、一体誰が守れば良いの?」 その言葉には、一つだって戸惑いが無い。 |