ざぁ、ざぁ、

雨、止まらない雨が――

おとうさまの声が、おかあさまの声が、
聞こえない、何も聞こえない……

ざぁ、ざぁ、

寒くて、気持ちがわるいのに、それなのに雨は止まない
おねがい、だれか、手をにぎって、




















――その日、城は実に静かなものだった。

まばらに空にかかった雲、澄んだ青空。
鳥の鳴き声は耳に優しく触り風は暖かに頬を掠める。
段々と気温のあがる季節の中草むらには淡い色の花々が咲きかえっていた。


そんな平穏の中、一人の少女が庭で遊ぶ。ティナである。
身にまとったベビーピンクのドレスは季節に準えられ、彼女の明るい髪色とよく似合っている。

ティナは回りに咲き乱れる月下零を茎から折り取り、花の冠を作っていた。
昼間は明るい黄の色を放ち、夜になれば月光の下で冷たく淡い色彩を花びらに浮かべる。
ティナは幼少の折からこの花が好きだった。

ある程度の大きさまで出来上がると、端と端を繋げて輪を作り、彼女はそれをそっと頭に乗せた。

「……小さい」

ぽつりと呟いた。
花の足りなさに、彼女は残念と溜息をつく。
物足りないほどに小さく出来上がった輪を頭に乗せたまま、ティナは眩しい太陽に瞬きを繰り返した。
その視線の先から、白い蝶々がひらひらと飛んできて、彼女の目の前の花に止まる。

ティナは目を細めてそれを見つめた。

勉学の時間がやっとの事で終わったこの一時は、一番肩の力が抜ける時間である。

女性であるティナが勉学という時間を設けてまでも教わらなくてはならないのは、政のイロハや文読。 仮にも一国の頂に座する者であるからには、文章や文学の一つや二つはさらりと読めなくては困るし、政治とは何ぞやといった基本を抑えておかないわけにはいかない。

既に領主の妻として異郷に入ったとはいうものの、ティナが聖レィセリオスという一国の女王である事には未だ変わりはない。
国民にはカステル・ジニアが自身の声でもって国民に知らせ、それを国民は受け入れたという朗報が飛び込んでまだ幾分日は経っていなかった。

つまりは、ティナが異郷に身を置きながら聖レィセリオスの女王と称する事を皆が認めた訳である――総ての国民が、“魔族”の存在をすんなりと飲み込んだかどうかは別として――。
魔族を認めようとしない排他的な者達が事を起こさないか。
この事を聞きつけた近隣の他国が、モロゾナの如く、隙あらばと侵略を起こさないか。
その様な事を危惧しながらも続けられるこの婚姻関係。
ティナが未だ聖レィセリオスの女王を名乗る事を国民が許すというこの状況。
これらの事実こそ、奇跡としか言い様が無い。

国民が認めてくれた以上ティナは女王としての義務――つまりは勉学もその一つだが、それらを放棄する道は残っていなかった。

確かに、一日中何もせずに遊んでいろと言われてもティナとしては時間を持て余すだけであるが。




そんなこんなで、本日の“義務”を果たし終えたティナは欠伸をした。

常に彼女を暗い瞳で見下ろす領主様は、現在ご出張中。
魔族の領主には、街へ降りて成さなければならない仕事や、時には魔獣の荒れ狂う森へ足を踏み入れなければならない仕事もある。
領主なんだからそんな危ない仕事をやらなくても良いじゃないと、初めティナは思った。

だが、その疑問は神学を学んで行くにつれ徐々に解けていく。
魔族には、階級とは即ち魔力の位という摂理がある、という事だ。

つまり、平民である魔族の人々よりは、領主であるソルディスの方が魔力が強い。
言い換えれば、魔力が強かったからこそジェノファリスの家系は代々この地の領主を勤めてきた、というわけである。

故に、やれ魔獣が街に下りたやら、やれ精霊の類が子供に悪戯をするだのと騒ぎがあれば、当然領主であるソルディスにお呼びがかかるわけだ。
人間の世界では金や権力がモノを言うが、魔族の世界では魔力が全てモノを言う。
物事を平穏に収める為には、魔力が強いものが介入した方がすんなりいく事が多いのだ。

そうして、未だ城下へ買い物に降りるどころか門の外へ出してもらえないティナは、時折寂しそうに、出かける夫の背中を見送るのだった。



「暇ね……アナスタシアと一緒に遊ぼうかな」

居たら居たで気を使うけど、居なくなってみると心寂しい――
そんな存在のソルディスを、未だ自分の中で何処にも位置づけ出来ないティナは悶々としながらも思考を遮る。

ティナは持て余した時間を埋めるためゆっくり腰をあげて、愛馬のアナスタシアが寝床にしている小屋の方へ歩いていった。










「――アナスタシア、寝てる?」

幾分涼しくひんやりとした空気が漂う馬小屋へ足を踏み入れた。
藁が何層にもしいてある部屋の隅で、寝息を立てながら横たわるアナスタシアが見える。

ティナは忍び足でアナスタシアの元へ近づき、そっと隣へ腰を下ろした。

――と、アナスタシアはパチリと瞳を開ける。

「あ……ごめんね。起こしちゃった」

ティナがそっと手を伸ばして彼女の鼻筋を撫でてやると、アナスタシアは気持ちよさそうに穏やかな瞳を瞬きさせた。
静かに慈しまれるのを喜ぶように黙って触られている愛馬を見、ティナは笑顔を綻ばせる。


アナスタシアは、ティナがお忍びでカステルと城の裏を散策していた際見つけた馬だった。
足を怪我して動けないままでいた白馬を、ティナがカステルに頼んでレィセリオス城へ連れてきて、手厚い看病を施したのだ。野生であると見られ、思いのほかティナに懐いてしまったため、カステルの配慮で結局城で飼う事になったのだが。


当時の事を思い出しながらティナは、横たわるアナスタシアの腹の所へ行き、そっと体を預けた。
アナスタシアが息をするたび、ティナの体もゆっくり動く。

――心地が良かった。
毎日がこんな天気で、毎日アナスタシアと遊べたら、とティナは思う。
思いながら、ふとティナは別の囲いへ視線をやった。

アナスタシアの囲いと向かい合わせるようにして作られたそこに、普段はどっかりと身を置く生き物がいない。
いないのは当然であった。それは今、ソルディスと共に城下へ下りているのだから。

ソルディスの愛馬、グロチウス。

実際ティナも、遠くから、それも数えるほどしか見たことがない。
魔獣であると言われたものの、見た目はアナスタシア等普通の馬と変わらないだろう。
漆黒の鬣、尾、無心に威圧感を出す瞳。堂々としたその足取り。

(なんか……いかにも、ていう感じよね)

黒い頭髪や漆黒の双眸には誰一人として懐きそうにない。
そんな可愛げのない印象まで誰かさんにそっくりだ、とティナは思った。







――ぽつり、と馬小屋の屋根に音がした。外を見れば、パラパラと落ちる雫。
はっとティナが空へ目をやると、快晴の青空に疎らと浮かぶ雲から徐々に雨が降ってきたのが分かった。

「いきなり雨なんて……ごめんね、アナスタシア。また来るから」

ティナは愛馬の顔を一撫ですると、雨にずぶ濡れにならないよう、足早に馬小屋を去った。








*************************************************







「大雨ね」
「…うん」

昼間の快晴など嘘のようだった。
廊下の窓から覗く空には灰色の雲が立ち込め、遠くでは雷が聞こえる。

ニルと外を眺めながら、ティナは不安そうに問いかけた。

「ソルディス、雨に濡れてないかな」
「従者もいるし大丈夫よ。まぁ土砂降りの一回二回まともに浴びた方があの子も頭がすっきりするでしょ」
「……」

ケロリという義姉を見上げたまま本気で夫の身を案じてみたりする。
そんなティナの頭を撫で、温かい茶でも飲もうと食堂へ歩くニルの後ろをついて歩きながら、彼女はもう一度外を見た。


この城へ来てから初めての、激しい大雨。
激しく降る大粒、鼓膜を震わせて大地を洗い流していくその落下。
全てを払拭していくようにただ舞い落ちる数多の雫を眺めると、ティナは胸の奥が疼いた。

(――お願い、ソルディス。帰ってきて)

せめて今夜だけはと願いながら、ティナは窓から顔を背けた。














「雨脚が弱まらないわね……」

温かいストレートの紅茶を啜りながら、ニルは呟いた。
ティナは頷きながら、空になったカップを見つめる。底には溶け切らなかった砂糖の粒と、ミルクの油脂がうっすら張っていた。

雨の日は頭が痛くなるのよね、と苦々しそうに言うニルの言葉を聞いてティナは額を押さえた。
確かに雨の日は頭が痛む。
小雨や静かに振る雨なら何とかなるものの、このように土砂降りが延々続く大雨は大の苦手だった。
頭だけでなく、体が軋む様に痛み出してくる。

遠くで聞こえる落雷。
天を裂く様な音が響くたび、ティナは小さい悲鳴を咽喉であげる。
小刻みに震える手は、暗雲立ち込める彼女の感情を顕わにしていた。

「……ね、ニル姉」
「ん?」
「あの、もし、今日ソルディスが帰ってこなかったら……」

そこまで言っておいて、ティナは閉口した。
さっと顔を赤らめて俯く義妹を見て、ニルは不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの」
「ううん、何でもない」

と、ティナは有耶無耶にする。
いい歳をして、義姉に、あんな事を頼めるはずは無い。
こんな時カステルやニキィが居たら――と頭を掠めた知人の姿を、追い払うようにティナは頭を振った。
いつまでも子供じゃいられない。いつまでも、誰かに頼ったままではいけないと自分自身の手を握る。

「ソルが帰ってくるかどうか不安なの?」
「え、あ……うん」
「まぁね、今日はほんの少し遠地へ出てるから。万が一の時は一行で宿でもとって、明日になれば――」

ニルは言葉を止めた。

手にしていたティーカップを静かにテーブルに置き、扉の向うへ視線をやる。
さっきまでとは違うやや真剣な顔になった彼女は、不思議そうに見つめるティナに気付き微笑みかけながら席を立った。

「ごめんなさい。ちょっとお客さんのようね」

そう言うとニルは椅子から腰をあげ、食堂の外へ出て行った。
玄関の方へ向かい歩き去っていくニルの足音を聞きながら、ティナはぼんやりする。

(魔族って、本当に耳が良いんだ)

以前ソルディスに言われたことを思い出して、ティナは納得した。
最もその時は魔族だろうが人間だろうが明らかに目を覚ますであろう騒音を立ててしまったからこそソルディスの怒りを買ったわけではあるが、それにしても雨脚が強く煩い中、玄関の物音に気が付くニルは流石魔族だと感心してしまう。

ティナが耳を澄ますと、ニルが誰かと話す声が聞こえた。
客人だろうかロドメだろうか、そこまでは分からないが何やらボソボソとした聞こえた。

城下の魔族?
ニルの友達?
書簡を届けに来た者だろうか、それとも、レィセリオスの使いか――

(――だめ!)

不意にカステル・ジニアの顔を思い出したティナは慌てて突っ伏した。
悩みがあればすぐに彼を思い出し気が弱れば故郷を懐かしんでしまうのは今の自分にとってマイナスだと、そう思っている彼女にとって、この雨の陰気は酷だった。
理性では駄目だと思っていても気は滅入る一方で、それに付随して臣下を懐かしんでしまう。

いてもたってもいられなくなり、ティナは席を立った。

こんな日は、自室でゆっくりしていた方が体に良い。
雷がもっと強くなる前に、ベッドに潜り込みたい。

そう思って、ふらりと廊下へ出る。


本格的になってきた頭痛と体の震えに、額に手を置きながら溜息をついた。
億劫そうに横目でちらりと廊下の奥に目をやり――ティナは歩みを止める。

人が二人立ち話をしていた。ニルと、客人であろう。
何やら真剣な話をしているらしく、ニルは何かしら言付けをして廊下の奥へ消えていった。
残されたのは客人である。遠目に見て、その長身と体つきから男性である事が分かる。

黒の包衣を身に纏い、薄暗い廊下に佇むその人を見て、陰鬱だったティナの顔が、微かに華やいだ。 

「……ソルディス?」

その声に彼は振り向いた。
やっぱり!と、ティナは小走りに駆け寄っていく。

「お帰りなさい、雨、――」

雨に濡れてない?と、そう言おうとしたティナは、あと数歩で彼に触れられる距離まで近づいた時、被り物を脱いだその客人の顔を見、足を止めた。

大雨に降られずぶ濡れになった漆黒の包衣。雨に濡れ雫が滴り落ちる黒の長髪。
駆け寄ってきた少女に対し興味も抱かないような視線を下ろす長身の彼は、ティナの期待していた人物では無かった。

「あ……」

ごめんなさい人違いでした…と言って去ろうとしたティナであるが、果たしてこの客人が誰であるかも気になった。
下男下女の応対もなければ、ニルに玄関に放置されている始末。
普通の“大事なお客様”なんかではない事は一目瞭然である。

「ど、どちら様でしょうか」

その言葉を聞き、男は顔を顰めた。
しまった、失礼な事を聞いてしまったのだろうかとティナは肩を竦める。

「えっと、その、…ゴメンなさい」

そんなしどろもどろの謝罪にも客人は動じない。
適当な会話も見当たらず意味も無く挙動不審になっていくティナは、そんな混乱の中で思い出したように言う。

「あ、あの、服、濡れてますよ」
「……」
「宜しかったら着替えませんか、か……風邪引いちゃいますよ」
「……」
「大丈夫ですよ、勝手な事したって、領主に怒られるのは私ですから」

だから、とティナは男の濡れた服を引っ張った。
多少戸惑ったような仕草を見せたが、男はうんともすんとも言わず、黙ってティナに引かれ歩き出す。

言葉は喋らずとも取り合えず歩き出してくれたことに安堵したティナは、改めて男の顔を見上げた。
見た目上、年の頃ならソルディスとそうは変わらないだろう。顔が疎らに隠れる程伸ばした前髪、背まで長く伸びる黒髪。顔立ちはどちらかというと端正で、男らしさを感じさせる要素を含んでいる。

「あの、ニル姉のお友達ですか」
「……」
「あ、いや、そんな訳無いですよね。えっと、城の主人に、用、と、か……生憎彼は居ないんですが」

彼の服を緩く握ったまま、ティナは冷や汗を流しつつ愛想笑いを浮かべた。
客人はやはり何も言わない。
しかしティナの話を無視しているわけでもなく、ただ黙ってじっと彼女を見下ろしている。

(もしかしたら、口が聞けない人なのかも)

もしそうだったら失礼だ、とティナは思い直した。

「わ、私独り言多いんです。気にしないで聞き流して貰って結構ですから……」

あははと笑う。
一方的な会話が辛いと心底嘆きながらティナは無理やり笑って、客人を食堂に導いた。

「何か服持ってきますから、待っててくださいね」

客人は頷きもせず黙って立っている。
ティナはぺこりとお辞儀をすると、食堂を出て、ロドメかマリアン、下女達を見つけようと廊下を歩き進めた。取り合えず廊下に出てみたティナだが、いつものように使用人の姿が見当たらない。

今日はソルディスだけでなく、下女や下男も街へ降りて買い物に行ってしまったのを、ようやくティナは思い出した。天気が良いからという事で買い物やら雑用やらを済ませに行ったのだろうが、生憎の大雨で帰るに帰ってこれないに違いない。

居ない下女や下男を待ちぼうけても仕方が無いので、ティナは自分で衣服を用意することにした。

「あの人、背が高いからソルディスの服貸そうかな?」

だが、いくら妻でも、勝手にソルディスの服を使ったら怒られるに決まってる。
こんな状況では寛容になってくれるだろうと(希望的な)予想を持つことも出来るが、陰鬱な日に更に陰鬱な原因を作るのも憚られた。
とりあえずは、やはり下男の服を貸すのが一番無難だろう。

そう思ったティナは食堂に戻り、彼を下男たちの更衣場に案内することにした。
客人の意思をそっちのけで、ティナは彼の手を引きずんずん歩き進める。
こんなにも気ままに廊下を右往左往できるのは、きっと平生ニコリともしない無愛想な夫が城中にいないからだと心の奥で思った。
きっと彼が帰って来たら、勝手知ったると城内を歩き回ったことと客人に自分の服を拝借したことを咎めるのだろう。そんな事を考えると溜息が出てしまう。


それにしても、雨に濡れた客人を廊下に放置してどこかへ行ってしまうニルも、彼女らしくないと言えば彼女らしくないとティナは思った。
用件は後回しにしてでも、例え客人が身分の低いものであろうと、恐らくニルは第一に着替えを促す。普段から気配りを怠らない女性だし、貴族といえどもそれくらいの常識は持っている。

ティナは頭の隅でそんな事を疑問に思っていた。

その時。


「……ひゃあっ!」

凄まじい閃光と、ガラス窓が割れんばかりの響き。
鼓膜を突き破るような激しい雷鳴に、ティナは恥ずかしげも無く悲鳴をあげた。
咄嗟に体を強張らせ、頭を抱えて、廊下の壁に不自然にぶつかり凭れ掛かるその狼狽はあまりにも突然の事で、男は目を見開いてティナに歩み寄った。

「ひ……、」

廊下にしゃがみ込むティナの肩に男が触れると、ティナは極端に体を震わせて咽喉から短い悲鳴をあげると無意識に肩を震わせた。

「あ、あの、ご、ごめん、なさい、」

肩を静かに揺さぶられると、ティナは混乱しながらも謝罪の言葉を口にする。

「大丈夫、大丈夫です、私」

言い聞かせるようだった。怯える様に両腕を抱きしめ、何度も何度もブルっと首を振る。
暫くして、息を整えてティナが立ち上がる。

「ご、ごめんなさい、見っとも無くて……、」
「……」

一通りの謝罪を聞きながら、男は振り向いたティナの顔を見つめた。
驚いたような、顰めた様な顔をすると、彼はティナの細い腕を緩く掴み回れ右をして歩き出す。

「え?――あ、あの、ちょっと、」

自らの失態と突然の男の行動にティナはいよいよ焦った。
乱暴では無く、導くように腕を引く客人を、ただ見上げる事しか出来ない。

彼は表情も変えずに、歩き進めた。
向かう先は、どこなのか――城の中を慣れた様に進む客人を訝しげに思うが、ティナは全く訳が分からず疑問符を浮かべるばかりである。

静かに歩き続ける客人に頼りない足取りで付いて行くと、廊下の奥にニルが見えた。

勝手に居なくなった客人の男を咎める様、腰に手を当て溜息をついたニルだったが、二人が近づくに連れてその表情が徐々に強張り初めた。

「……ティナ!」

男はティナの腕を離し、そっと肩を押してニルの方へ引き渡した。
ニルはティナに駆け寄り、その両頬を両手で包む。

「ティナ、一体どうしたの」
「え?」
「え、じゃないわ。自分の顔、鏡で見た?」

首を横に振り、訳の分からないと言った表情をするティナ。
ニルは男の方を見上げ、顔を強張らせた。

「――何があったの」
「私は何もしておりません」

頭上から聞こえた男性の肉声に、ティナは驚き顔を上げた。

「喋れたの?」

と、男性はまた黙り込む。

「ちょっと。ティナに、返事は?」
「主からの了承を得ておりません故」

ニルに促されても、男はティナと口を利こうとしなかった。

「忠実なのは良い事だけど、時と場合を選びなさい。まぁ良いわ。それで、ティナに何があったの」
「雷鳴に驚いて、錯乱しておられました」

その言葉を聞き、ニルは再びティナの頬に触れた。

「雷が恐かったの?それで、こんな事に?」
「あの、ニル姉……」
「貴方はもう部屋へお戻りなさい。後でロドメに言って温かいミルクでも持って行かせるから」

ニルはティナの肩に自身のストールをかけた。

「お前も、そろそろ街へ戻りなさい。ソルには明日の昼までには帰るよう言っておいて頂戴」
「分かりました」

男は深々と礼をする。
横目でティナを見、彼女にも礼をしてその場を去っていく。

「下男の方?私、初めて見る人」
「あぁ、あれはね……そのうちまた会えるから。今日は早くお休みなさい」
「私、もう平気よ」
「平気じゃないわ。そこの姿見で顔を見てみなさい」

ニルに促がされ、廊下の姿見で自身の顔を見た。
暗がりの中、遠くで光る雷と、燭台の灯りを頼りに自分の顔を眺めた途端――ティナは、咄嗟に声にならない悲鳴をあげた。

ティナの顔には、痣とも思えるような痕が浮き出ていた。
殴られて鬱血したように、所々赤黒く、青く滲んだ痕の数々にティナは顔を両手で覆う。

「え……っ、いや、何これ、私、……こんなの、」
「ティナ。部屋へ戻りましょう」
「私、何もしてない、」

混乱してニルに縋り付くティナの肩を抱きながら、ニルはティナを自室に連れていった。
外は未だ大雨が続き、落雷も城の傍で起きている。
風は強さを弱める様子も無く、城の窓を揺さぶるように吹き続けていた。



「すぐに来るから、静かに寝ていて」

ティナを自室のベッドに寝かしつけたニルは、過剰に何度も頷くティナを不安そうに見つめながら、ロドメに用を言いつけるため一度彼女の傍を離れた。
本来なら城に居る侍女をかき集めて看病に努めさせるのだが、ティナが自身の顔を見られたくないと言っている以上無理に人を呼ぶわけにもいかなかった。

「……何で、こんな、傷」

ティナは布団の中で顔を覆った。
自分自身でも訳が分からない。雨が陰鬱だ、雷が恐い、そんな感情は物心ついたときから既にあった筈なのに。レィセリオスに居た時は、いくら雷に驚いても、それでこんな事が起こることは無かった。
痛々しい痣のついた頬に触れる。
痛みは全く無い。違和感も無い。でも、痣が体から浮き出ている。

――どうして?

分からない。
雨が窓を打つ音が響く。頭が痛い、気持ちが悪い。
ティナは耳を塞いだ。雨音が耳に入らない分、幾分気分が良くなる。
それでも、張裂けんばかりに唸る落雷が否応無しに耳に響くと、途端に吐き気と頭痛が入り混じって襲ってきた。

ティナは枕に頭を埋めてシーツを被る。

気持ちが悪い。寒い。どうしてこんな事になっているのか、考えても答えは見つからない。
小さい時から豪雨の日は城の奥に塞ぎこみ、一晩中止まないときは、ニキィや侍女やカステルに傍にいてもらっていた。普段なら、もう子供じゃないのですからと叱咤するカステルも、そういう日だけは極端に優しかった。

今、ティナの隣には誰も居ない。
立場的に成人として自立しなければならない身分として、ティナも誰かに夜伽を請う事は憚られた。だが、現実として自分の隣に誰も居ないのはやはり不安であった。不意に襲う寂寥感に、唇を噛締める。

ティナは、ふと脳裏を掠める夫の存在に、知らず知らずのうちに彼を頼っていることに気が付き始めた。

笑顔すら見せず、口調も冷淡で、侮蔑するような視線を投げかけてくる事さえあるソルディスの存在が、いつの間にか大きくなっている。

ティナは唇を噛んだ。
彼が今夜帰ってこないことを自分の中で再確認した途端、居ても立っても居られなくなって頭を掻き毟るように抱える。

雨は嫌い。吹き荒ぶ風と大雨は、頭痛と嘔吐と極度の不安を齎すばかり。
それでも、その原因を思い出そうとすればするほど症状は悪化する。
抉じ開けてはいけない何かを抉じ開けようとするほどに体は悲鳴を上げ続ける。

限界だった。

数回目の大きな雷鳴を朦朧と聞きながら、ティナは、半ば意識を失うかのように眠りに落ちる。
自我を手放す直前瞼に浮かんだのは、雨に打たれ拉がれる、月下零の姿だった。

























誰かが自分を呼んでいる。
いや、呼んでいるんじゃない。私の名を叫んでいる。

(……兄様?)

そう、この声は兄様だ。
悲しくないのに、涙に滲んだように、その人の姿ははっきりとした輪郭を為さない。
目に入る水滴は視界を晦まし、私はただ懇願するように地に這うばかり。

――この子を、どうか――

泣きながら請う声は、一体誰の為なのだろうか。
震えながら私の肩を抱きしめるのは、どうしてだろうか。

閃光が走る。
耳を劈く音が響く。

あぁ、視界が赤い。
滑る液体を体中に浴びた私は、言葉を噤んで天を仰ぐ。
私と同じくびしょ濡れになった月下零は、腐り果てる程にぐったりと萎れている。

傷ついた体よりも心が痛いのはきっと幻覚では無い。


誰かが私の手を握った。

狂いそうな嵐の中、私の手を引いたのは誰だったのだろう。























温かい。

誰かに手を握られる感触を、ティナは感じた。
耳には、忌々しい落雷の音が尚も聞こえるが、それよりも、手に触れる熱に意識を奪われた。

「ティナ」

その声に、ティナは重い瞼を無理矢理開けた。
暗闇の中で落雷による照明に映し出された顔は、冷たく、静かで、ただ黙って彼女を見下ろす。

待ち望んでいた彼の姿に安堵の色を見せたティナは、ソルディス、と、唇で紡ぎだす。
しかし声が上手く出せない。

ガウンに着替えた姿で、彼はベッドに腰を掛けティナを見下ろす。
ティナが視線だけを動かしてみると、そこは当初寝ていた自身の部屋ではなく、ソルディスの部屋のベッドの上だった。

時計が見えない。
日付が変わってしまったのだろうか、それほど自分は寝てしまっていたのだろうか?
ティナは何かを言い出そうとするが、上手く言葉が出なかった。
ソルディスは手を握っていない方の手で、ティナの目尻に触れた。
泣いていたらしい。
ティナは数度瞬きをした。

「痣は消えたな。もう少し寝ていろ」
「…ソル、…」

上手くまだ声が出ない。
どうした、とソルディスは静かに問い返した。

「お、仕事、……雨、」
「ああ。急な雷雨だったから街に留まろうと思ったが」

ソルディスはティナの頬に触れた。

「気紛れだ。早々に帰ることにした」

表情を変えずにそう言うソルディスを見上げながら、ティナは安心したように溜息をついた。

「私、顔、……変になったり、……気持ちが悪くなったり」
「疲れているんだ。雨が止むまで寝ていろ」
「ソルディス、は」
「隣に居る。だから、早く寝ろ」

そう言うと、ソルディスはティナの額に手を当てた。
何かの術だろうか、それとも、睡魔に襲われただけか。
ティナは再び瞼が重くなるのを感じながら、目を瞑る。

冷たいのに、無愛想なのに、今夜はソルディスが優しく思える。
本当に仕事は終わったのか、どうしてこんなに早く帰ってこれたのか、聞きたいけど今は黙って彼の下で眠りたい。

“隣に居る”、その言葉だけで全身が軽くなったティナは、甘えるように彼の手を握りながら眠りに落ちていった。














****************************************************






「あー、いい天気」

アナスタシアの腹に背を凭れかけ、彼女の顔を撫でにっこり笑う。
翌日、天気も体調も完全復活したのを良いことにティナは馬小屋へ再び足を運んでいた。
大きく呼吸するアナスタシアを体中に感じながら、月下零で編みこんだ花輪を手で弄ぶ。

眠気を誘う午後、大きく欠伸をしながら視線をずらせば、今日はアナスタシアの向かいに、どっかりと体を横たえる夫の愛馬が見えた。

彼もまた眠そうに瞬きをしながら、艶のある黒の鬣を、吹き込むそよ風に靡かせていた。

「グロチウス」

悪戯に名を呼んでみる。
彼は一瞬視線をティナに向けたが、それが特に意図も無い事だと分かると直に逸らした。

やっぱり可愛げが無い、とティナは苦笑する。
よいしょ、と腰をあげると、ティナはアナスタシアの傍を離れグロチウスの所へ行った。

「グロチウス、ありがとう」

彼の前にしゃがみ込み、語りかけるように言った。

「ソルディスから聞いたわ。雨の中、頑張って走ってくれたんだってね」

そっと彼の顔に手を伸ばす。
嫌がられるかと思ったが、案外とティナを拒否しない彼の様子を見て、そっと鼻を撫でてみた。

「……私、昨日、具合が悪かったの」

グロチウスは黙って聞いている。

「ソルディスが帰ってこなかったら、きっと駄目だった。分かる?貴方のおかげなの。ありがとう、寒かったでしょ。ごめんね」

どうせ伝わらないと分かりながらティナは済まなそうに言った。 そっとグロチウスの鼻に顔を寄せ、軽いキスをする。

それじゃあ、と馬小屋を立ち去っていく姫君は、月下零を片手に青々とした庭へ元気に駆けていった。










変だ、と思った。
やはり、変だ。変な人間だ。
挙動不審で、思い込んだら盲目で、いつも慌てて、かと思えば少女の笑みでやさしく笑いかけてくる。
何故、主は彼女を妻に娶ったのか。それも、側室ではなく正妻に。
もっと器量の良い貴族の女性ならば、城下にも沢山居るはずでは無かったか。
口出しできる立場ではないことは分かっているが、やはり疑問は拭い去れない。

まだ娶って幾月も経っていない、幼子の様な姫を、何故。
雷雨を、疎ましい豪雨を気にしながら、この足を気遣いながらも、無理に城へ戻ってきた。
――何故。

彼女の異常な様子を報告してしまった自分も自分であったが――
目の前であれ程の事を目撃してしまっては、主人に言わぬわけにもいかない。

見ず知らずの不審な自分に衣服を貸そうとした、あの幼い奥方が、顔に痣を作って困惑する姿は、見過ごす訳にいかないものであったと思う。


あぁ、それはもう良いとして、困ったのは主人だ。
こんな事があった以上、毎度毎度出張の度、大雨が降らない事を願うしか無いではないか。





そこまで考えて、不意に彼は自身の頬が熱を帯びているのに気付く。
先ほど姫君が残していった名残を、今更ながらに感じる。
彼女の体から仄かに感じた主人の香りを思い出すと、どうしようもなく居た堪れなくなって頭を振った。


――と。
ティナが去った後、自身の内面で悶々と思案していたグロチウスは、自身を見つめる向かいの白馬に気が付き、ばつが悪そうに目を伏せる。


今更呆れても仕方が無い。
この家に住まう魔獣は、どうせ苦労をする運命なのだ――
そう独断で納得してグロチウスは一つ深い溜息をついた。


そんな、ティナが気付かない、ジェノファリス城で苦労するある魔獣のお話。









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<緋の滲む夜に fin>


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