「――……っは……、」 息が上がる。 体の節々が、疲労を叫ぶ。 「……く…っ…ぁ、」 「何だ――もう限界か?」 繰り返される、試練。 何度目かも分からぬほど弾かれた剣。 剣と共に弾かれる、自分自身のプライド。 カステルは汗で滑りそうになる柄をしっかりと握りなおしながら、何度も何度もソルディスに向かって刃を振りかざした。彼の刃を、いとも簡単に避けて短剣で弾き飛ばす男は、疲れの色など全く見せずにカステルの相手を続ける。 (――東方魔族の、領主、) カステルは彼の言葉を何度も頭で繰り返し、その度に奇妙な感覚に襲われる。 あって無いものとされていた、魔族が存在していた? かつての争いで我が国で一戦交え、王族との婚姻を結ぶという、あの―― (魔族――、そんな馬鹿な、) しかしそうでなければ説明も付かない。 魔族の存在など、御伽噺とばかり思っていた。 そう呆然と呟く彼に、ソルディスは続けた。 彼は、自分を魔族であると。 人間とはかけ離れた力を持つ、純潔の魔族であると、彼ははっきりそう言った。 若き青年は、その日から魔族と人間の奇妙な関係の渦に飲み込まれて行く事となる。 「……っ…はぁ…、」 川の水を浴びに歩く気力すらない。 上着を脱いで木にかけ剣は傍らに置いたまま、カステル・ジニアは草むらの上にぐったりと横たわり、疲れきった身体を癒した。 「これで懲りたか」 上から降り注ぐ声に、閉じていた目を開けて睨みあげる。 「まさか……俺は、明日も、明後日も来ます」 「大した気力だ。音を上げるかと思っていたが」 ソルディスは重たそうな包衣を放って、カステルの横に腰を下ろした。 「――剣の手解きをするのは初めてだ」 「魔力をくれと頼んでいる訳では無い」 「知っている。そんなのは此方からお断りだ」 ソルディスは、周りに咲き乱れる月下零を一輪ちぎると、川に向かって放り投げた。「ここは、魔族があまり近寄らない場所だ。俺以外は、な」 「野獣も来ない――」 「そうだ。比較的魔獣も近寄らない」 「とは言っても、城下の人々はやはり“伝説上の”魔族に脅え近付かない――だから、俺は、ここを休息の場にしていたんです。先日、貴方に会うまでは」 「俺以外が来ないからと言って、安全では無い。ここら辺一帯は、昔から歪が多いんだ」 「歪?」 「――異界の輩が出入りする、ひび割れだ」 ソルディスはカステルの剣を見る。「人間のそれでは太刀打ち出来ない」 「異界とは……?」 「お前、新神文書を読んでいないのか」 「一通り神学は学びました。が、……近年、新神文書の類は王妃が排除を進めている」 「リリアーナ・クリスティーンか」 「あの御方は、目に見えぬ類への信仰を非常に懸念していらっしゃるんだ」 カステルは苦々しく言った。 「今更、この国からどうやって文書を排除しようと言うんだ……、」 それは、ともすれば横暴な手段に出るしかないと言うのに。 カステルの言葉に、ソルディスは興味なさ気に言う。「そのうち、王妃には会う事になる」 「何故に」 「“約束”を果たしてもらう為」 「――まさか、レィセリオスとの紛争や、魔族と王族の婚姻とは、」 「紛れも無い、事実上の契約だ」 ソルディスはカステルを見下ろす。 「そうだな、王妃が子を生んだら、そいつを貰うか」 「……誰が」 「俺が」 言葉に、カステルは疲れも忘れがばりと起き上がって叫んだ。 「貴方が!?」 「他に誰が居る」 「あ、いや、確かに、領主が貴方なら、……だ、だが、……いや、それは、しかし」 「心配するな。腐っても姫は姫――妾や侍女にはしてやるさ」 それは、青年の焦りを助長する言葉であって、「ふ、不遜だ!」カステルは顔を赤くして叫んだ。「聖レィセリオスの王女様を、よりによって妾と同等に扱うなど!」叫ぶ彼に、しかしながらジェノファリスの城主は嘲り笑って一蹴し続ける。 「生憎俺は人間嫌いでな」黒い瞳を細め、「人間は、煩わしい。女であれば尚更だ」 「俺は、煩わしくないと?」 「煩わしい云々じゃない。馬鹿で愚直、考え無し」 「……」 呆然とするカステルに、「俺に剣を挑むのは余程の馬鹿かアギタだけだ」、ソルディスは言ってのける。 「そんな、一体人間の何処が貴方達と違うんだ」 「富に執着し、欲が強い。他人の持ち物を奪う事しか頭に無く、その為には実に狡猾で浅ましい」 「全ての人間がそうという訳では」 「知っている。だが、」 ――だがしかし、過去の因縁とはなかなか払拭し切れないものなのだ、 そこまで言って男は黙った。 暫し、二人の間に沈黙が割り込む。 カステルは身体を起こしたまま、ソルディスの横顔を見つめた。 ああ、それは本当に人間と変わらない。 見目姿だけじゃない、確かにその力に差はあろうとも、平穏を望み、恐らくは、自然を慈しみ愛そうとするその心すらも、自分等と隔たり無く存在するのだろう――、カステルは、顔を顰めた。しかし、だからといって、 「貴方の過去に何があったかは知らない。しかし、将来お生まれになるであろう姫君を無碍に扱う事だけは許せません」 例え、剣を指南して下さる師だとしても。 その言葉にソルディスは、 「考慮する余地はあるな」大して本気でも無さそうに言う。「万が一、俺が気に入った娘であれば正妻の地位に置いてやろう」 それって無きに等しいじゃないですか。 文句を言いたそうなカステルに、領主は付け足した。 「だから、早く官になって王女を見守れ。出来るだけ良い女にして、俺に売られないようにしておくんだな」 若き兵士、カステル・ジニア。 彼はこの日を境に異様な速さで腕を磨く。 それは、同僚から、傍目から、親友のモーガン・アスタルから見ても気味悪い程の賢明さで、王も王妃も彼の鍛錬及びその素晴らしいほどの剣技に驚異を為し、是非とも国防の第一線にと一目置いて扱うほどであったと言う。 同時に、奇異な噂が徐々に彼を取り巻き始めた。 曰く、 カステル・ジニアは、妖魔に惑わされているそうだ。 カステル・ジニアは、魔族に魂を売ったそうだ。 確かに、毎日毎日昼夜問わず、時間が空けばナスリカの森へと足を踏み込む彼の行動を見ていれば誰もがそんな事を思うだろう。しかしながらカステル・ジニア本人は、そんな噂を気にも留めないどころか寧ろ死に物狂いで剣の修行を積んでいく事を生業としているかのようだった―― ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「――しかし時折、自分でも立ち止まって考える」 庶務室の机上、湯気の立つ紅茶カップを手に持ちながら彼は呟いた。 はて、考えるとは一体何を? 片眼鏡を掛けなおしながらお目当ての書類を物色していたモーガンは、そう問わんとばかりに振り返った。 見れば、溜息をついて肘をもつきながら憂鬱な顔をしているその友人。 「考えるとは、一体何を?」 モーガンは首を傾げた。 「他でも無い、姫様と領主の事だ」 成る程、彼が頭を悩ませる事と言ったらそれくらいしか無いだろう。 モーガンは朗らかに笑いながら、旧友を宥めた。 「何、考えるも何もお二人は既に結婚してしまったろうに」 「それを悩んでいるんだアスタル。私は、彼と出会ってから数十年、実に懸命なる努力をしてこの地位に上がり、結果姫様を御護りさせて頂いてきた」 「それの何が」 「――果たして、あの領主殿が姫様を正妻と見込んだ事が、吉と出ているかと言う事だ」 言ってみれば。 若しもティナ・クリスティーンなる人物をあの東方領主が気に入らなかったとすれば、今頃はあの城で侍女なり下女なり働かされていた事だろう。現実を見れば、彼女は立派な領主夫人。私生活では彼と行動を共にし、最も近くで接し、ともすれば(というか確実に)彼等は閨の場までも共に―― 「あの、偏屈領主の下に、姫様を正妻として送ってしまった事が……!本当に彼女にとって幸せだったのか、それを今になって悩むのだ、アスタル――」 「確かに、あの御方は気まぐれ且つ残酷な所もある。ああ、姫様は実に実に苦労するだろうがなぁ、」 追い討ちをかけるアスタルは、しかし笑って、「なぁに心配するなジニア。姫様も、今頃幸せに暮らしていらっしゃるだろうよ」 「その自信は何処から来る」 「姫様が領主殿を苦痛と感じておられるならば、とっくのとうに助け舟を求めている筈」 実におっとしとした笑みで、「便りが無いのは良い知らせ、そう昔から言うじゃないか」 「姫様は、あの冷酷領主に懐いていると言う事か」 「ああ、多分、きっとそうだ」 「あんな扱いづらい御方の何処に……」 やはり頭を抱えるカステルに、アスタルは悪びれも無く言った。 「ジニア、嬉しそうだな」 「……何処をどう見てそう思うんだ」 「お前が嬉しいなら何よりだよ」 「面白いほどの勘違いだ」 嗚呼、何万回繰り返した事だろう。 いつまでも変わらぬ互いの親友に、彼等は溜息をつきながらも何処か平穏な気持ちだった。 ――そういえば、修行に明け暮れていた遠いあの日。 なかなか剣が上達しない自分に苛立ち、彼の領主に問うてみた。 一体、幾年の月日修行を積めば、貴方の様に剣を使えるのだろうかと。 汗を流しながら肩で息を切らす若者に、息一つ乱れぬ領主は、わざと考え込むように。 「俺と同じ程度の、鍛錬を積めば」 見えかけた希望に顔を明るくするカステル。 付け足して、 「――軽く千年。それだけやれば、馬鹿でも上達するんじゃないか?」 ……やはり、地道かつ早急に腕を上げる他に道は無い。 カステル・ジニアは、近い未来この世に生を授かるであろう可愛らしい姫君が、この性悪領主の妾に等ならぬ事を――それだけを願って、死ぬ気で修行に身を捧げる事を決意した。 |