10
もう一本持って来い、 肘掛に体を寄り掛からせてそう言う主の言葉に、ロドメは早朝から然程変わらぬ笑みを浮かべて頷いた。 朝方から何本も酒を開けて飲み交わし、途中様子を伺いにきたニルを冷たく追い返す領主はロドメを傍に置きながら飽きる事無く酒に興じる。ニルもニルとて、そろそろ不安になっていた。生来酒食らいと言える程酔いに強く、あの怪物の様な酒豪の北方領主アルキデアに付き合うほどの体質であるが為にそれ程心配はしていなかったが、それにしたってそろそろ眠りに就いて貰った方が良いに決まっている。 付き合うロドメはソルディス同様笊の如し、顔を赤くすることも体を酔いに任せることも無く、劣らぬ勢いで主の酔狂に付き合っている。領主の部屋に追加されるワインボトルに、周囲の下男下女は首を傾げた――彼等は昨夜の喧騒と、ティナの不在を全く承知していないのだ。 ティナの着替えをしに来たリィネも、クロムセリアやソルディスの服を持ってきた下男達もニルに自然と追い返され、朝食を取りに来ない領主一族に調理人も肩を竦めるばかり。城の殆どを取り仕切っているロドメにしたって領主様の部屋に篭りっきり、平生変わらぬ笑顔で時折地下の倉庫へ下りてきてワインを数本持っていくだけである。 全くもって、城の中は騒然としていた。 ソルディスは床に転がるボトルを足蹴にしながら、額に手をやる。「酔いが足りない。ロドメ、もっと酒を持って来い。命令だぞ」 「ええ、今すぐにでも持ってきますとも。肴は如何致しましょう」 「肉を切らせろ、手間はかけなくて良い」 「畏まりました」 ロドメはグラスを静かに置くと、薄暗い部屋から出て行った。 扉が開いた瞬間廊下の窓から差し入る光すら、今は疎ましい。ソルディスは酒の匂いが篭るこの部屋に心底陶酔した。酒の匂いは血のそれと似る、そう思ったのは大分昔の事だった。もしかしたらこの咽喉を落ち体に染み入るのは死肉から滲んだ鮮血かも知れぬのだという思いが頭を過ぎり、その色を見つめることだけを趣とした事もあった気がする。 己の手を見つめれば、ある筈の無い、黒ずんだ赤。 拭う事すら洗い落とす事すらせず、一人きりの部屋で、あの日シーツに蹲った。 寝ても冷めても、目に映ったのは赤。全て、赤。 真っ赤に熟れた果実が弾けたその瞬間の如く目に飛び込む鮮やかな赤は、思う以上に温かかった。 ソルディスは突如グラスを扉に投げる。 軽い破壊音を立てながら、大きい欠片になって散るそれを見てソルディスは皮肉に笑う。 「器が無くなってしまった」 自ら壊したそれを残念そうに思う振りをしながら、 「ロドメ、器が無くなってしまったんだ」 だから、早く持って来い。 いっその事、酒瓶ごと飲んでやる、今日は妙に気が浮いているんだ、だから、早く持って来い、 やがて、ロドメが酒を持ってやってくる足音が聞えた。カチャリカチャリとボトルがぶつかり合う音が心地良い。あの男はいつも仕事が早い、だから非常に使い勝手が良いんだ、 ソルディスは手の塞がるロドメを部屋に入れるため、扉に近付いた。 自ら割ったグラスを踏むと、靴の下でさらに粉々に割れ散った。 これの片付けも頼まなければと面倒に思いながら戸を開ける。 「ロドメ、グラスを割ってしまった。もう一度下に行って」 言い終わる前、腰に走った衝撃に彼は体を大きく揺らされた。 瞬時息が詰るほどの圧迫感に、酔いの入った頭で何が起こったのかと判断する前にソルディスは足取り大きく後退する。床にゴトリと割れずに落ちるボトルの音を聞きながら、たたらを踏むようにしながら足を退くと、扉から差し込む昼の日差しに目を眩ませながら、ついに絨毯の上へ倒れこむ。再び閉じた扉に何が襲い掛かったのか良く見えてこなかったが、未だ体に纏わり付いて離れない腰の重さに視線を落とした。 ――どうして、 眠気と酒に侵された思考はそれしか絞り出さなかった。 土と、草と、まるで野原を転げた子供のように髪を服を汚して、 熱く咽喉を痛めるような息は、服越しに確かに伝わって、 細い、それでもきつく締め付けるよう縋るように廻された腕はその思いを全て託すようで、 上半身だけを起こしつつも、されるがままに押し倒され何も言わぬ彼を、その少女はもう一度きつく抱きしめた。 「馬鹿!」くぐもった声で叫ぶ。「馬鹿、酷い、考え無し!」 それだけが言いたかったかのように、彼女は罵り続けた。「馬鹿、最悪、信じられない!女の敵!」叫びながら彼の胸を勢い良く叩く。あまりにもその力が強かったから、思いのほか強かったから、ソルディスは彼女の細い腕を掴んで止めさせた。 それでも彼に対する憤慨は収まる事が無いと言わんばかりに彼女は空いた手で彼の体を叩き続ける。 ――何故、跳ね除けない。 今ここで彼女を受け入れれば、全てが狂ってしまうことは頭で自覚している事だろうに。何故、すぐにこの腕は少女を押し返そうとしないのだ。どうして意思とは無関係に、体は、腕は、この幻とも思える少女を求めるように、(一度体が動いてしまえば、後は自制が効かなくなるのは当然の事で、) 「馬鹿、こんな」 「――」 「こんな酷い、最低、ソルディスなんて、」 「ティナ、」 「勝手に離婚する人なんて、私、――嫌いよ、大嫌い!」 当て付けの様に口走った途端、ソルディスは彼女のブロンドを強引に掴んで上を向かせると吐息諸共唇を塞いでしまう。 走ってきたのだろう、息が上がって苦しそうな彼女の体を力ずくで抱き寄せて、身長差の無いその体勢で、柔らかく湿った唇を食い尽くすように、 「――っ、ん…」 止まない口づけにティナはさらに呼吸を苦しくする。 酒気がすごい。苦手なワインの香りに思わず顔を歪ませるが、それは彼女の頭を痺れさせまるで泥酔したかのような錯覚を与える。 乱暴に突き返されると思ったその腕は、ティナの体を痛いほど抱きしめて、寸分の余裕も無く――彼女は抵抗もせず、ソルディスの首に腕を廻すと縋るように抱きついた。寝巻きに付いた土汚れを払うことも、身に纏わり付いた草屑を払うこともしないまま、形振り構わずこうして彼を求めるティナは、生まれて初めて感じていた昨晩からの恐怖心が、心底払拭されていく感覚に陥った。 「旦那、良いんですかぃ」 陽気な執事は羽をバサリと弄ばせながら、ぐるりと円を描いて飛んでいた。 手持ち無沙汰に手を捏ねながら、ひらりひらりと林道の宙を舞うその姿は無邪気な子供の様でもある。 「姫様は無事運びましたが、果たして、上手くいくんですかね」 「いくさ」 だから、返したんだ。 そう言ってクロムセリアは、客室から外へ出たまま林道の遠くを見た。 あの娘何食って生きてんですかぃ、軽いったらありゃあせんとアヴァスはケラケラ笑った。「荷物の方がどれだけ重かった事か!」 「済まない。屋敷についたら美味い物でも食って休もう」 「クロム様はお疲れじゃあありませんか」 「――そうだな、疲れた。だが、心地良い疲れだ」 彼は馬車に寄り掛かりながら笑った。 ――有難う、クロムセリア、―― あの笑顔。あの言葉。惜しい事をした、とクロムセリアは今更ながらに思った。「本気でやれば、満更じゃなく奪えたかもな」 主人の言葉に、 「そうでしょう、そうでしょうとも。本当、旦那は損な役回りで」 「どっちもどっちさ」 クロムセリアは苦笑した。 聞きたい事が、ある。 「聞きたい事があるの。いっぱいあり過ぎて忘れちゃったこともあるけど、」 「良いさ。何でも聞いてみろ――ああ、ソルディスの過去については、それだけは、」 「それは、今聞かなくても良いの。私、そのことは良いの、今は」 ティナは首を振って、彼を見つめなおすと、 「クロムセリアは、本当は、私の事、好きじゃないんでしょ?」 ティナの言葉にクロムセリアは驚いたように彼女を見下ろし、「どうしたいきなり」ふざけたように笑った。 「好きだけど、好きじゃない。何ていうか、言葉にするのは難しいけれど――……私も、そうなの」 「何が」 「あなたに対して、思ってること。クロムセリアの事は、確かに好き。だけど、それは、何ていうか……家族というか、仲間というか、」 同じ傷を持つ者同志、同類としての同情。 傷を負う捨て子同士が痛みを舐めあうようなそんな心地よさと愛情が、複雑に交じり合った感情。 俗に言われる「恋愛感情」とそれの何処が違うのだと問われれば、今のティナに明確な答えは出せないけれど、「どこか違うの」。 「――心外だな。なら、ソルディスの事は好きな訳か」 「それも分からない。でも、クロムセリア、あなたは、」 ティナは臆する事無く言った。「クロムセリアは、本当はソルディスの事も嫌いじゃないの。絶対、」 「――本当に、面白い姫さんだ」 クロムセリアは彼女の手を取った。 「何を言い出すかと思えば、君は本当に面白い。あの永劫俺を疎み嫌う兄上を、寄りによって好き好んでいると。家族とも思われていないこの俺が?」 「そうよ」 「何を根拠に」 「直感」 だから理由とか分からない、そうティナは困ったように言った。「でも、何と無く分かるの。ソルディスの事、憎いとか、嫌いとか、恨んでるとか、それ以前にクロムセリアは」 (寂しいのね、)最後の言葉は言わなかった。 言わなくても、伝わる気がした。彼が誰より分かっている気がした、それは、今更ティナが諭すべき言葉では無いと自覚していた。 クロムセリアは笑みを消す。ややこしくなりそうな思考を振り払うように溜息をつくと、その話題を打ち切るように、 「――まぁ、その話は後で良い。とにもかくにも、君を追い出したのは彼で今君の隣に居るのは俺だティナ。俺は君の傍に居たいと言った、それは本当に心の底からそう思う」 「私もクロムセリアと一緒に居たいと思うわ。優しいし、きっと、ずっと大切にしてくれると思う」 でも、とティナは続けた。 「私、もっと傍に居たい人がいるの」 クロムセリアの手を握り返す。 「どうしても?」 「どうしても」 「俺が何と言おうと、それは変わらない?」 「変わらないわ」 ティナはそう言って彼の手を離す。 クロムセリアは苦笑すると、日光を遮っていたカーテンを捲った。 さぁ、と明るい日光が室内に差し込む。流れ行く林道の景色を覗き込んで、ティナに背を向けたままクロムセリアは言った。 「でも、馬車は走り続けているし実際ソルディスは君を追い出した。冷静に考えて、今あの城に戻る手立ても理由も無いのは明白だ。例えソルディスが気変わりしても、俺は君を易々と手放したくはない。――だが、それでも、」 それでも君が帰城を望むと言うのなら、 そう言いながらクロムセリアが振り返る。 そこに、姫君の姿は最早無かった。 「――馬車から飛び降りただと?」 「というより、落ちた」 ティナの頬を掠る泥を指で払いながら、ソルディスは顔を顰めた。「馬鹿な事を、」 「だって、そうでもしなきゃクロムが下ろしてくれないと思ったから」 「走っているのはあいつじゃなくて馬だ。鈴を鳴らせば従者が馬を止めるに決まっている。お前は、だから頭が足りないと言っているんだ」 昨晩の寝巻き姿のままの彼女を、その体を冷やさぬよう抱きしめながらソルディスは言った。 「結構馬車って速いのね。着地できると思ったのに、見事に転んじゃった」 「馬鹿だ。俺を馬鹿と罵る前に、その頭をどうにかしろ」 「転んだけど、結局アヴァスさんが運んでくれたの。クロムが、そっちの方が速いからって。空を飛べる魔族っているのね、私空って初めて飛んだわ。馬車より凄く速くて、気持ちよくて、」 それから、とティナは続けた。「離縁は無効ね」 「……何故」 「“燃やし”ました」 ああ、それは、いつか彼が彼女に言った台詞そのもの。 本当は、アヴァスに抱きかかえられて空を舞う途中に、破り捨ててしまったのだ。 「ああ、気分が良い!この姫さんは、本当に愉快で気分の良い方だ!」アヴァスが心底嬉しそうに笑って言っていた。領主からの書面を破り捨てる者なんて、後にも先にもアンタ一人だと、それは実に心地良さそうに。 「私に離婚する気はありません。だから無効ね、分かった?」 「――」 「それから……ええと、それからね」 言いたい事がいっぱいあり過ぎて纏まらなかった。 ティナは色々考え悩んだことを思い出すように視線をめぐらせて、思い出した事を指折り数えた。 「私は離婚しませんっていう事と、それから、」 「……」 「私に、ちゃんとした史実を教えてくださいっていう事と、それから」 「まだあるのか?」 「たまにはクロムセリアのお屋敷に遊びに行くって言うことと、」 「……」 「あ、それはソルディスも一緒にね。それから」 「まて。何だその追加は」 「だって、クロムセリアは寂しいのよ。あんな遠くに、お兄さんとお姉さんと離れて暮らして、一人ぼっちで」 だからソルディスも一緒にねと続けるティナに、ソルディスは、 「俺が会いにいってあいつが喜ぶと思っているのか」 「喜ぶわよ、そりゃあもう大喜び。口では何ていうか分からないけど」 だから男の人って分かりづらいのよとティナは文句を言う。 「別に彼、私と結婚したいとか思っていたわけじゃないのよ、多分」 「言っている意味が分からない」 「何だか、私と同じような経験してて――私、その自分の記憶は無いんだけれど、でも、それを何故かクロムは知っていて、私を可哀想に思ったの。それだけ、きっと」 「どうだかな」 「それに……それにね、きっとね」 お兄さんにお嫁さんが出来て、寂しかったのよ、きっと。 最後の言葉は、ソルディスの肩に顔を埋めた所為で声がくぐもった。 だから、彼もそれを聞かない振りをし、ティナの頭にぽんと手を置く。 「あとは、何だ」 「えっとね、あとは……そうよ、そう!何で勝手に私を追い出したのかって言うこと」 怒ったような口調になったティナは、ソルディスの顔を睨みあげる。 薄暗い中でも本気で気に障ったのだと分かるその表情に、彼は暫し押し黙った後、明け方姉にも答えたように、気紛れだと呟いた。 「気紛れ!ああ、やっぱりソルディスって馬鹿!」 「……なら、お前は何故戻ってきた」 「え」 質問返しに、ティナは顔を引き攣らせた。 (何か、前にもあったよねこの会話)ティナは困ったように首をかしげ、ちょっとソルディスの顔を改めて見つめると――途端顔を赤く染めて視線を外した。 「何だその反応は」 「何でも無い」 「何でもなくは無いだろう」 「じゃあ、その、ソルディスは、私が帰ってきて嬉しかった?」 それとも、怒った? 先程の勢いを沈めちょっと不安気に、ティナはソルディスに聞き返した。 彼はティナの言葉に顔を顰めて、「どうもしない」と呟いた。 ああ、やはりそうだ、 (あれだけ強く抱きしめて深く口付けをしておきながらこの男はこの女に対する思いをを口が裂けても言うつもりは無く、この少女はこの少女で、男に対する自分の思いを言葉に表現する事が出来ないのだ!) それは、限りなくゼロ距離に近いまま平行線を辿るような、 お互い、重要な最後の一つが欠けた様などうにもできない感情のままで、 「――ソルディスと一緒に、いたいの」 消え入りそうな声のまま、その柔らかな唇で初めて自分から口付けてくる彼女の体を、彼はゆっくり強く抱きしめる。 ソルディスは、視界の端に入る粉々のグラスを、まるで自分が手をかけ殺めた誰かの姿と重ね合わせたが、振り払って、ティナの体をもっと強く抱きしめた。 お前は落ち着かないんだ、傍に置くと。 唇を啄ばみながらそう言えば、彼女は、「落ち着かなくても良いから傍に置いて」と縋るように服を握った。「昔の事も、聞かない」ティナの言葉に彼は少し目を見開いた。決して泣いては居ないけれど、苦しそうなその表情で、彼女は続ける。ソルディスの過去に、何があったって構わない。私の他に正妻が居たならそれでも良い。無理に聞こうなんて事しないから、それでも良いから、落ち着かなくても、馬鹿でも、役立たずでも、何でも良いから、お願い、――私の事、嫌いにならないで、 魘されたように言葉を紡ぐティナに、黙れ、とソルディスは彼女の唇を軟く噛む。「それ以上喋ったら押し倒すぞ」 そんな彼の言葉が聞えていないようティナは、怖かった、と言葉を続けた。 本当は、あの部屋に入ったとき、本当は離縁状を読んだときだって、自分の世界が終わったような、とてつもない恐怖心に襲われて、クロムセリアが隣に居ることも、何も感じられないくらい怖くなって、私は、 「――もう、黙れ」 放っておけば、独白に枯れて散ってしまいそうな姫君。 ソルディスは彼女の唇をもう一度塞ぐと、深紅の褪せた絨毯の上へ細い体を押し倒した。 「地へ転げて空を舞って、あの娘さんは飽きやしない。旦那、本当に返して良かったんで?」 「元々そのつもりだったじゃないか。だから、良かったんだ」 「本当は、惜しいと思ってらっしゃるでしょうに」 「分かるか?お前は実に賢いな」 暫く野道を歩きたいと、草花咲き乱れるそこらを踏みしめクロムセリアは暢気に笑った。 妙に、気分がすがすがしいのだ、 車輪に轢かれて死んでも構わないという程ティナに想われているんだよ兄上は。 そう彼が言うと、アヴァスは「姫君は考えが足りないだけだと思いますがね」と顔を顰めた(それは的確な表現だろう) 「ソルディスも、いい加減気付けば良いと思うんだが」 「何にですかぃ」 「自分がティナを手元に置く理由だよ。無理矢理引き出そうとしたら、殺されかけたからな」 実力行使も考え物だよ、 苦笑するクロムセリアの護衛をするようくるくる傍を旋回するアヴァスは、満足げに笑っている主人を訝しげに見下ろした。 「それで、この度のお出掛けは意義があったので?」 「ああ、あった。実に大量にあったよ、アヴァス」 「けれども、――こちらには何も残ってませんぜ」 姫様も結局あちらにお戻りですし、旦那は領主様とご険悪なままでしょうに。 何の収穫も無かったように、私目には思いますがね。 首を傾げるアヴァスに、クロムセリアは、 「――残ったよ」 眩しそうに空を見上げる彼の表情は、今までに無く穏やかだった。 ――私、クロムセリアの事、好きよ。 別れ際に、再び言われたその言葉。「絶対、また、お城に“帰って来て”ね。来なかったら、私、泣くからね」 思わず笑ったその言葉に、嗚呼、何と単純な、自分は彼女に救われつつあるのだ。 「アヴァス」 「へぇ、何でしょう」 「俺は、兄上が嫌いでは無いのかな」 突拍子もない質問に、アヴァスは目を真丸くした。 それこそ変わり者を見るような表情で、「旦那、本気で言ってるんですかぃ!」 「本気だ。到って大真面目だよ」 「――なら、良かった。てっきりからかいが始まったと思いましてね」 ひらり舞っていたアヴァスは、傍の木に腰を下ろし、足を組んで頭を掻きながら「そんなの、聞かれる前から分かりきった話でございますぜ」にやけて答えた。 「つまり」 「旦那と領主様が本気で互いを恨んでいらしたら、今頃どちらかの屋敷が消えてまさぁ」 ケタケタと肩で笑う男の言葉に、クロムセリアは一瞬呆気に取られた表情をした。 (ああ、なる程、) そういうことか、クロムセリアはアヴァスの笑いに重ねるように笑い出した。 「ああ、ダメだ、面白すぎる」 気が狂ったような主人を、それでも好意に見つめてアヴァスは木から飛び降りた。 「さあ、お屋敷へ帰りましょうぜ!」深々とお辞儀をし、ひょいと馬車へ飛び乗った。 「なあに、旦那の家は“二つ”ある!それだけの事!」 またアチラに帰るその日まで、のんびりと過ごすが吉って事ですぜ。 未だ笑いが治まらないクロムセリアが客室に入り込むのを見送って、アヴァスは手綱を元気良く引いた。 ――何一つ解決しては居ないのに。 因習も兄を縛る過去の呪いも己の傷も姫君の過去の楔も、何かもが消え去ったわけでも無いのに。 それでも不思議と、笑いしかこみ上げない。 天気穏やかな午後に向かって、彼を乗せた馬車は森の奥へ消えていった。 |