「……出張?」

寝惚けた声。そして、驚きを交えた口調。
心なしか、声は一段気を落としているようであった。
いつもは明朗、軽快で、落ち込みどころか気のへこみすら感じさせない声は、どこか寂しげ。
その口調に男が振り向いてみれば、少女はお世辞にも元気とは言えない表情で此方を見上げていた。

朝早く、ベッドから体を起こし寝巻きすら着替えていない彼女は、ネグリジェの胸元を片手で掴みながら、もう片方の手で男の外套をそっと掴む。そんな事をしても、仕事が去ってくれる訳ではない。寧ろ、引き止めるような行為をすればする程送り出す方の気が重くなるだけだというのに――自分の故郷に居た頃は城外へ出張する立場であった彼女は、誰か近しい人が自分を置いて遠くへ出かけてしまうという事態に慣れていなかった。

寝起きの所為で、多少呆けているのもあるのだろう。
普段なら見せないような甘える仕草をする彼女に男は、さてどうしたものかと考えた。

仕事は待ってはくれない。
かといって、ここで乱暴にあしらうような事があっては彼の姉やら周囲の侍女やらから非難を浴びる。それはそれで別に良いのだが、娶ったばかりのこの少女に深い警戒心を悪戯に持たせるのも気が進まないというものである。

普通の夫婦なら――例にとれば、ルーク・ハルフォットならば、ここで優しい言葉をかけ、妻の頭でも撫でながら口付けを落とし、甘い朝の一時を過ごすことだろう。

しかし、この男は違う。
彼――ソルディス・ジェノファリスは、忙しい朝の時間にそんな面倒な気遣いを妻に対してかけてやる親切心など持っていない。いや、こういう時のあしらいに慣れていないと言ったほうが適格だろう。

即時的に思考を重ねた末、彼は、ティナに再び背を向けて必要な書類を纏め続けた。
そして、素っ気無く言葉を連ねる。

「何も永遠に帰ってこない訳じゃない」

そりゃそうだ。
分かっているが、起きがけで寝惚けた今のティナにそんな言葉は通用しない。

「……今週は、外出が無いって言ったのに」
「急な仕事だって入る。お前も国王なら分かるだろう」
「嘘つき」
「随分と口が悪いな。どうやらこの姫様は寝起きが弱いらしい」

ソルディスは振り返ると纏めた書類でティナの頭を軽く叩いた。
大して痛くは無いのだが、ティナは頭を抑えながらますます拗ねたように俯く。

「……痛い……」
「目を覚ますには丁度良いだろう?」
「暴力反対」

言い返そうと思ったソルディスは、ふと、部屋の大時計に目をやる。
――時間が無い。
ソルディスは椅子の上に放ってあった鞄を手に取ると、書類を纏めて詰め込む。
外套の留め具を掛け、ティナに一瞥を送ると自室を出ようと扉に手をかけた。


「……いってらっしゃい」

呟くようにかけられた言葉に、ソルディスは、ああ、とだけ短く言うと足早に部屋を去って行った。











A careless reward








「――ぎゃー!」

頭突き、というより最早自傷。
書庫から持ってきた本を頭にガンガンとぶつけ、己の醜態を思い出すたびに顔を赤らめて変てこな雄叫びをあげる姿は、貴族の少女にあるまじきものである。

結局、ティナ・ジェノファリスは目を完全に覚まし、朝食を取り、勉学をすませ、昼食をとった今になってやっと、今朝の自身の行為及び言動を非常に後悔しているのであった。

愚か。阿呆。馬鹿。間抜け。恥知らず。

どれだけの言葉を重ねても、彼女は自分を責めるに責めきれない。
仮にも、彼女は人質という“貰っていただいた”身分を忘れ、寝惚けていたとは言え夫に向かって暴言を吐き、愛想を尽かれてしまうという痛々しい事態に自身を追い込んだ。

最も、愛想を尽かれたというのは完全に彼女の思い込みであったが。

「怒られる……絶対怒られる……!……誰に怒られるって、ソルディスに…っ」

混乱状態。
結婚初日もそれは口喧嘩くらいあったが、それはソルディスにも明らかな非があったからであり、今回のは完全にティナの独り善がりな我侭による暴言。帰宅後のソルディスに例え酷い言葉を投げかけられても、それは最早自業自得というものであった。

自室で錯乱状態を続けるティナは、朝はあれだけ駄々を捏ねていたにも関わらず、彼の帰還を恐怖に感じるようになった。


これまでのまだ短い新婚生活、ティナはソルディスから厳しい叱咤を受けたり、例えば強い暴力を振られた事は無い。ともすれば、今日は記念すべきその初日になってしまうのか――

居た堪れなくなったティナは椅子から立ち上がり、部屋をうろうろ徘徊し始めた。

(ご、ごめんなさい、ごめんなさい……)

思っても通じる訳ではない。
考えてるだけで相手に気持ちが伝われば、どんなに便利な事か――

と、ティナはパッと顔をあげた。

「そ、そう!そうよ!手紙!手紙よ!お手紙を書けば良いじゃない!」

我ながら何というナイスアイデア、とティナは両手を胸前で組む。
子供か、と彼がこの場に居れば呆れられただろう。しかしティナにとって、このアイデアは画期的だった。

取り合えず彼の机上に手紙なり伝言を置いて、彼が帰宅してそれを読むまで自分は書庫や食堂に身を潜めていれば良いではないか。一応曲がりなりにも謝罪しておけば、彼の気も落ち着くというもの。

そうと決まったら即行動、ティナは机の引き出しを引いて、羊皮紙を一枚取り出した。
改まって椅子に座り、羽ペンを手に取りインクをつける。

「さて、と……」

これで安心、とティナは笑顔を綻ばせながら、つらつらと字を綴っていく。
普段は文を書くのは好きでないティナだが、手紙となれば別である。

――進む、進む。
文が纏まっているかどうかはさておいて、ティナは謝罪文及び反省文を実に素早く作成する事に成功する。ふぅ、と息を吹きかけてインクを乾かし、ティナはそれを四つ折にすると自室を出てソルディスの部屋へ入った。

主人の居ない広い部屋。
使い古された机の上は慌しい朝の様子を残し、多少乱雑だった。

ティナは机の上を適当に整理し、目立つところに自身の手紙を添え置く。

「うん、これで良し」

後はソルディスが帰ってくるまで待ち、彼が手紙を読んでくれるまで身を潜めていれば良いだけだ。
ティナは腰に手を当てて、深い溜息を付く。
先程までの死にそうな程の恐怖が嘘のように、清清しい心持である。

ティナは鼻歌を歌いだす始末で、全く、単純としか言いようが無い。


「机も整理してあげたんだから、許してくれるよね」

ソルディスは平生、侍女や、執事のロドメにすら机の上を弄らせない。
自分の物を好き勝手に移動させられたりするのが嫌なのだろう。書類の整理整頓は彼が自身で行う事だし、あまり整理を促すほど乱雑になる事もない。

何だかんだでティナは机の書類を弄ってしまったが、別に書類の順序を変えたわけでもなく、ただ崩れていた書籍やら羊皮紙の束を元に戻してやった程度の事なので、お咎めを食らうことは無いだろうと暢気に考えた。

「……お詫びに、他にもお掃除してあげようかな」

そう言って、ぐるりと部屋を見渡す。

足を柔らかく受ける褪せた赤の絨毯も、これと言って汚れていない。
部屋の脇にある棚も、別に乱れていない。

取り立てて言えば――彼のベッド脇に放り投げられている、黒色のガウンが目に付く程度だろうか。
慌しかった所為だろう、下男に預けることを忘れられたそれは、たたまれる事も無く雑に捨て置かれたままだった。

「珍しい……朝、忙しかったんだ」

そう思えば思うほど、朝の自分の行為が悔やまれる。
小言だけならまだしも、彼の外套を掴んで拗ねてしまうなんて、領主夫人として失格も良い所だ。

ティナは、彼の大きなベッドへ近付くと、ポスンと端へ腰を掛けた。
今朝方まで彼が身に纏っていたガウンを手に取る。

普段彼が身につけているそれを改めてまじまじと見る。
上等の生地で仕立てられたガウン。ティナは、彼の腕の中で眠る時、決まってこのガウンに縋って眠りに付くというのが癖になっていた。一回り体が大きい彼の腕に緩く抱き締められると、ティナはソルディスの顔を見上げるのが気恥ずかしくて、胸元に顔を埋めるような形になってしまうのだ。

ガウンを見つめながら、そういえば、とティナは思い出した。

昨晩は、僅かながらであるが雨が降っていた。
天気が荒れないとも言い切れない天候で、心穏やかで無かったティナは、一度潜り込んだ自室のベッドから這い出てソルディスに添い寝を申し込んだのだ。
既に眠りに落ちていたソルディスは、辛うじてティナを無碍に追いやることも無く、自らの寝床へ招き入れた訳だが――いつもより早めの就寝をし、隣に潜り込んでも特に何をしてくる訳でも無かったソルディスにティナは疑問を感じていた。成る程、翌朝早くに出張の仕事が入っていれば、ソルディスはティナに手を出すどころでは無かっただろう。

早朝の仕事が舞い込んでいて、精神的に穏やかで無かった彼を起こし、無理を言って閨を共にさせて貰った事にやっと気が付いたティナは、またもや後悔の念に駆られた。
ごめんなさい、と呟きながら――ガウンを握り締めて、ゆったりと、大きめのベッドに身を預ける。

きゅっと握り締められたガウン。ティナは、その持ち主の姿を求めるように縋りつく。

恐怖に思われた彼の帰還は、一転、待ち遠しいものへと変化した。
ティナはガウンを握り締めたままゆっくり目を瞑り、仕事に勤しんでいるであろうソルディスを思う。

帰ってきたら、謝ろう。
あの手紙は、読まれなくても良い。ちゃんと、自分の口で、出来れば面と向かって謝らなきゃ――

そう考えながら、ティナは、いつのまにか肌慣れたベッドの心地よさに身を委ねていた。
瞑った瞼は、そこから開けらることも無く、ティナを、心地よい午後の昼寝に導いていく。

握り締めたガウンに安堵を覚えながら、ティナは、本格的に意識を手放していった。










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