2024年。 電脳硬化症に効力のあるマイクロマシーン療法を世に提供する セラノ・ゲノミクス社社長、アーネスト・セラノ氏が誘拐された。 誘拐したのは一人の青年――アオイ。一流天才級ハッカーとしての能力を持つ青年である。 アオイがセラノ氏を誘拐した理由。それは、セラノ氏の会社で提供する対電脳硬化症マイクロマシーン療法は 実際のところ電脳硬化症に何の効果ももたらさないという事実を世間に後悔して欲しい、と言う懇願から来るもの。 (●「電脳硬化症」とは、電脳化した人々を襲う謎の病気であった。 2019年、人間が脳を電脳化する事が一般化してきたご時世、電脳が徐々に硬化していき最終的には死に至ると言う 不治の病、癌などに通じるものであった。) 当時全く効果的な医療法が見つからず各医療界が暗中模索の中、村井という博士がワクチンによる医療法を開発する。 マイクロマシーンという近代的な療法が広まりつつある中、ワクチンによる療法は時代遅れ、時代に逆行する物であった。 (デジタルでなくアナログによる治療であった) しかし村井ワクチンは、厚生省の薬事審議会に不認可の判を押される事になった。 理由は、その効果のメカニズムの不鮮明さ、また村井博士が電脳硬化症専門医ではなかったと言う理由によるものであった。 ―――実際の所、この不認可の理由はまた別の所にあった。 薬事審議会理事長、今来栖尚(いまくるす・ひさし)氏の村井博士に対する嫉妬である。 今来栖は電脳硬化症について取り組んでいた初老の男性であったが、彼は村井博士に医療法の先を越された事を衝撃的に 受けとめ、データ―不足を理由に村井ワクチンを不認可としてしまった。 そして後を追うように申請が偶々入っていた、当時電脳硬化症への技術ではあまり名を馳せていなかった セラノゲノミクス社のマイクロマシーンを認可し、それを世に広めたのだ。 笑い男ことアオイは、この事実を偶然ネット上に漂っていた一通のメールから知ってしまった。 そのメールは、誰かが書いた、セラノゲノミクス社マイクロマシーン療法の無効性、 それと比較した村井ワクチンの有効性についての論文であった。 アオイはこのメールを見、衝撃を受ける。 実際の所、電脳硬化症に何の効果も無いただのタンパク質の塊が世に“医療薬”として広められ 事実絶対的な効果がある村井ワクチンが世から葬られたのだ。 アオイは腐り切った医療業界に蹴りを入れようと、牙城を崩すため手始めにセラノ氏を誘拐した。 彼は、回りの電脳化した人々の視覚を惑わせることを得意とした。 当時――朝、彼の邸宅には当然のことながら、家族しか居なかった。 家族には姿が見え無い様にし、セラノ氏と共に出勤を装いそのまま自分の誘拐劇に付き合わせる。 セラノ氏も当時は、生意気な事を言う若者など論破してやろうという心意気があった。 誘拐劇は2日間に及ぶ。 最も口論が激化したのは、2日目の朝だった。 街中のビルにあるカフェ。 朝方であり、通勤前の人々が一服している。小さなカフェであるため、人は少ない。 窓からは通勤のため歩道を歩く人々が見える。 一テーブルに座り、向き合う二人。飲み物が入ったカップ。 アオイはストローをさし、セラノ氏はカップに直接口を付けて飲んでいる。 「君の言い分は分かるが、それは出来ん相談だ。私はマイクロマシーンの開発者で、薬事審議会の委員じゃない。 村井ワクチン不認可については関係無い」 アオイに語るセラノ氏。 「それは分かります。でも、薬事審議会は糞ったれでインチキな集団だ。いずれあの連中にも挑戦して行かなきゃ ならないけれど、まずは貴方に御社のマイクロマシーンが硬化症に対して殆ど効果が無いっていうデータを 公表して欲しいんです」 言葉に力が入るアオイ青年。焦りと苛立ちが見え隠れする。 「だから何度も言うように!それは出来ん相談だ! 確かに3年前の脅迫メールに書かれていた通り、あの頃のマイクロマシーン療法は理論上のアイデアに過ぎなかった。 だが、特許とはそういう物だ。確実に到達可能な技術を先に登録する事は、何ら違法じゃないっ」 「糞ったれの弁護士なんかは、皆そう言うんだっ。全く…!」 アオイの言葉に手を震わせるセラノ氏。親子ほども歳の離れた二人が、本気で感情を高ぶらせ討論をする。 「…確かに、認可申請が早すぎるのは自覚していた。これを競合していた他社へのブラフでも(ブラフとは ポーカーで手が悪いのによい手だと見せかけて吹っかけることを言う)あったが… 我々の予想を越えて3ヶ月で審議会に認可されたのは、弊社の理論が優れていると認められたからだと思っている。 今医療用マイクロマシーンの信用を貶める事が、どれだけ大きな損害か、君には分かっていない。 今後大きく展開して行くこの――――」 「っ、僕が言いたいのは!電脳硬化症に苦しんでいる人にとっては生きるか死ぬかの問題だってことです! せめて確実な効果がマイクロマシーン療法に認められるまで村井ワクチンに可能性を譲る事は出来ないんですかっ」 懇願するアオイ。 「…村井に関して私が言える事は何も無いよ」 「本当にそう言い切れますか。もし神様の野郎が悪戯心を起こして貴方を電脳硬化症にしたら、貴方は迷わず マイクロマシーン療法を選ぶんですか」 「当然だ。自分の作ってきた物に誇りと自信を持っている」 「じゃあ、貴方の子供が電脳硬化症になっても?」 「…ああ、そうするだろうな。仮定の話はこれ以上出来んが」 後頭を掻くセラノ氏。多少苛立っている。 「……誇りと情動は別物ですよね。ズルイな、セラノさん……」 俯くアオイ。 「それほどマイクロマシーン療法に誇りと自信を持っているなら、貴方の立場を活かして正義を為すべきだ」 アオイは再び力を込める。 「……今来栖は、村井博士の名前がついたワクチンを不認可にする事しか頭に無かったんだ。 本来厚生省の窓口を通った新薬に認可の判を押すためだけにあった糞審議会。 その理事に就任した今来栖は、村井ワクチンを潰すために不認可の判まで作った…!」 指で判の真似をし、人差し指を机に叩きつけるアオイ。 「そんな醜い足の引き合いに、貴方のマイクロマシーンも利用されたんですよ。 …っ…セラノさんだって…その辺の事情、全く知らないわけじゃないでしょう?」 顔を歪め眉を顰めるアオイ。医療界の体質に吐き気を感じている。 「アイツ等は別に、貴方のマイクロマシーンじゃ無くッたって良かったんだ……! あの時期に申請が出ているマイクロマシーンなら、どんな糞だって良かったんですよッ! 医療業界の糞ったれな性質を知ってて……それでも貴方は自分には関係無いって言い切れるんですかッ!?」 つい力が入り肉声で言葉を発してしまうアオイ。電脳での会話をしていたため、回りの人間は突然荒げられた声に 数人ではあるが振り向いた。 セラノ氏は汗を流す。緊張からか、アオイの気迫からか――――それとも、今後の自分の身を案じてか。 諦めたように、セラノは溜息を付く。 「…ん…分かった。こうしよう。一旦拘束を解いて私を自由な身にしてくれ。その後準備が出来次第、 マスコミを集めてマイクロマシーン療法の現状を発表する」 「本当ですか。貴方にとって、何のメリットも無い約束ですよ」 カップを手に取り眺めるアオイ。 「私だってそこまでケチな人間じゃない。君ほどじゃないが、私も社会正義くらいは人並みに持ち合わせているつもりだ」 アオイは立ちあがって外を見つめる。 「…どうかな」 「約束する。……、ん?」 外には天気予報を伝える為に準備を進めるニュース番組のクルーが見える。 二人はその後クルー達がニュースを伝えている通りまで出て行く。 「脳潜入を解いてくれないか?君もこれが犯罪行為だってことは自覚しているわけだろう。 顔を隠して匿名性を維持したいなら、テレビに映るのは不味かろう」 アオイは脳潜入を解く。瞬時ぐらりとしたが、直に振り向きアオイと向き合うセラノ氏。 「う・・・ 、 君との討論会は楽しかったよ。だが企業を守る者として、君との約束は守ることはできないかもしれん」 気抜けした顔をするアオイ。しかしセラノの真意に直に顔を歪める。 「社会とは、君が思っているほど単純ではない。私は君が何者なのかは詮索しない。今はここで別れよう……」 歩き去ろうとするセラノ氏。しかしアオイは銃(SWチーフ)をポケットから取り出しセラノに付きつける。 「…、そいつはズルイな!」 「っ!」 歩みを止めるセラノ氏。 二人に気が付く一人の女性。 「きゃあ!」と悲鳴をあげ、それがきっかけとなるように人込みが道を開け二人はテレビカメラの前に出る。 「だったら、今!あのカメラの前で真実を語ってください!」 「止めろ。君には撃てんよ」 「、どうかな…!」 セラノ氏の足を蹴り膝間づかせる。 「くっ、」 顔をズームで映すテレビカメラの存在に気がついたアオイは、咄嗟にバーコードを介して マークを自分の顔に重ねて映させた。 帽子を被って笑っている少年のマーク。その周りには何やら英語が回転して表示されている。 カメラのアングルが変わろうと、そのマークは消える事が無かった。 「さっきの約束が本当なら、ココで」 「今は無理だ…いっそ、君が喋ったらどうかね」 銃を付きつけられているのにもかかわらず、セラノは臆する様子がない。 「それじゃあ意味が無いんですっ。セラノさん、貴方の口から真実を語らないと」 「それは出来ん」 「何故ですか!」 結局は駆けつけた警察の手を逃れるように走り去るアオイ。 目撃者は、通勤時間と言う事で多数居たにも関わらず、目撃者が描く似顔絵は全てあの笑いマークだけであった。 瞬時に全員の脳にハッキングをかけていったのだろう。 唯一彼の顔を正確に見ていたのは、電脳化していない浮浪者だけであった。 その後、笑い男はマイクロマシーンに殺人ウイルスを混入させたり、身代金脅迫、企業テロを次々と起こして行く。 しかしそれらは全てアオイの関知しない所で起きた、笑い男を装う他者による事件だった。 時を同じくして世間では笑い男は正義感に溢れた謎の英雄扱いをされ、マークを模した商品の氾濫など一種の 旋風を巻き起こした。 アオイは、このような世間に疲れ、警察の事情聴取に口を噤んだセラノ氏同様、姿を消すことにした。 事の発端であるアオイ自身が再び世間に出てくるのは、およそ6年後のことである。 “I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes. ” 僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。 “or should I?” だが、成らざるべきか…? →