< 第1話 街を跳ぶ蛹・後編 >
頬を掠めた銃弾に、思わず舌打ちをした。 不覚。 無謀。 ああ、自分を貶める言葉はこんなにも浮かんでくると言うのに。 現状を改善すべき手立ては何一つ見当たらない。 ハルナは、頬から伝う血の感覚すら麻痺するほど、目の前の銃口を集中して見据えていた。 湿った、腐食菅の張り巡らされた裏路地。 追い詰めて、追い詰めて。それでやっと捕えられたと思ったら、人質を投げ捨てて発砲してくるなんて。 当の人質はといえば、気絶しているのだろう、ぐったりと横たわっている。 肩まで伸びる黒い髪を後手に結い、辛うじて男と分かるような、中性的な幼い顔立ちをした青年である。 まだ死んでいないでしょうね?という意味を込めて、ハルナは目の前の人物を睨みつける。 黒ずくめのその男は、銃口を向けたまま被るフードをどかしてハルナを見た。 「街頭人だな」 「ガンダ・ローサね」 返す様にハルナは言う。 「まだ若いのにご苦労な事だ」 「生憎。貴方のようなご年齢では勤まらなくてね」 それほど年老いていない男に向かって皮肉を言いながら、ハルナは、リボルバーの回る音を聞く。 「ねぇ、話があるんだけど」 「ふざけるな」 「ふざけてないわ。あのね、私の事いっぱい殺して良いから、ごめん、そこの男の子は無視して行って」 馬鹿かこいつは、そんな視線で男は睨む。 「ガンダ・ローサって慈善機関でしょ。そういう計らいしても良いじゃない」 「黙れ」 「――ローサ・ハーテムの名が廃るわよ」 言うが早いか、ハルナは鳩尾に激しい蹴りを食らった。 叫ぶ事も、唸る事も無く、ハルナはその場に膝を折る。 「汚らわしい身で、ローサ様の名を口にするな!」 尋常でない怒り。先程までの冷静はどこへ消えたのだろうか? 眉間に皺を寄せ、手を、身体を震わせて口汚く罵る。 言うな、それ以上名を口にするんじゃない。それはハルナにとっては異常だけれども、彼らにとっては正常な感情だった。 (―…どこ、が―……慈善機関、よ…) 苦しそうに咳き込みながらも、馬鹿にする様にハルナが薄笑いを浮かべる。 トップの名を出しただけで怒るなど、どういう教育をしているんだ。教育委員に訴えるぞ。 腹部を抑えながらも、ハルナの中で皮肉な笑いは止まらなかった。 「貴様の様な者にも、慈悲はやる。来世での幸福を祈ろう」 (それはどうも、) 引き金が引かれる寸前。 ハルナは怯えも足掻きもせず、ただ真っ直ぐ金の瞳で男を見上げた。 懺悔も、遺言も、余計な思念も、ハルナの頭には何も無い。 真っ白だった。 この仕事は、常に生死と隣合わせ。絶壁の縁を足元も見ずに歩いているような、そんな仕事。 “敵に許しなど決して請うな”とは、教訓として覚えるまでも無い至極自然な思考で、勿論ハルナは「許して」の一言など死んでも言うつもりは無かった。死んでからも言いたくなかった。 それは、能動的な死。 自ら望んだかのような、自殺行為。 だが、こうしてしか、生きて行く術を知らないのだ。特に、彼女の場合は。 ああ、額に冷たい金属が触れる。 とうとう、死への扉、重い引き金が引かれる。 (前に、自分が死ぬ夢を見たなぁ、) そんなどうでも良い事を考えながら、ハルナはほんの少しだけ息を吐いた。 ――――瞬間。 音も無かった。 音も無いまま、ハルナの顔面が真紅に染まった。 目の前いっぱいを彩る、真紅の赤。 暗闇の中に飛び散った飛沫。 この状況で彼女の顔を染める赤といえば、他でもない、血である。 しかしハルナには分からなかった。 自分の血か。何なのか。それともこれは、死が為せる幻か。 ゆっくりと、瞬きを二回。 ハルナは、ふと、見え上げた男の身体に、思想の本体とも言える頭部が無いのに気がついた。 銃を持った腕がだらりと下がる。 首から噴出する血は、尚も黒の包衣とハルナを染め続ける。 ぐらり。 身体が揺らめき、ハルナの方へ倒れ掛かった。 しかしその屍は、彼女へ凭れる寸前で、ぐいっと後へ引っ張られる。 そうして、ようやく。ハルナの目にある人物の姿が飛び込んできた。 「すみません。顔、汚れちゃいましたね」 軽く、困ったような笑顔で言い放つ青年。 漆黒の髪、紫に近い菖蒲色の双眸。 束ねた髪を風に靡かせながら、悠々と立ち尽くすその人。 人質となって、先ほどまで路地に倒れていた――あの青年であった。 ハルナは少しだけ驚いた様に唖然とし、目を細めた。 コートの裾で顔をゴシゴシ擦る。 彼女の上半身は(他者の血ではあるが)酷いほど血まみれだ。 十代の女には相応しくない凄惨な姿である。 人によっては、それを美しいと言うかもしれないが。 青年は男の死体を道の端に放り投げた。 女のような細い体に似合わず、大した力も込めずに投げたそれは道路脇に重たく転がる。 そうして、労うように、血がついた左手をハルナに差し出す。 彼の右手にも左手にも、何も握られていない。ハルナは不意に疑問が浮かんだ 「何で切った?」 「企業秘密です」 にこりと屈託無く笑った彼は、この暗闇とこの状況に非常に不似合いだ。 「貴方は」 「アンル。アンル・オゼット」 「そう。私は、ハルナ・アカツキ」 ハルナの腕を掴んで、アンルはゆっくりと優しく彼女を起こしあげた。 黄金色の髪が、こびり付いた血液で変に額に張りついている。 うざったそうに前髪を跳ね除けたハルナは、道に落ちて泥まみれの警棒を拾った。 「取り敢えず、礼を言っとく。ありがとう」 「どういたしまして」 「で。アンル、貴方一体何者?」 「秘密です」 アンルは無邪気な笑顔のまま言った。 「ただの住人だったら街頭人やらない?貴方、センスあるわよ。コートは支給、宿舎に寝泊り、希望があれば食事もつく。まぁ安月給だけど不憫はしないわ」 ちゃっかり勧誘を始めるハルナ。この根性は流石である。 「それが、ただの住人じゃないんです」 「それは残念」 「明日から、新人研修兼ねて街頭人になりますから」 彼の言葉に、ハルナは目を丸くした。 アンルは笑顔のまま、ハルナの反応を楽しんでいる。 血でベトベトの手を持て余していた彼女は視線をさ迷わせ記憶をバックさせた。 『新人研修:1名』。 思えば、あった。確かに掲示板に書いてあった。 「……新人?」 「えぇ」 「気配も無く瞬時にガンダ・ローサの首を飛ばした、貴方が?」 「恥ずかしながら」 アンルは肩を竦めた。 胡散臭そうにじろりと見てくるハルナの視線を余所に、背伸びをして、ゆっくり空を見上げる。 「……内緒にしてもらえますか?」 「何を」 「これですよ。これ」 アンルは無残な死体を指差した。 「ハルナさんがやったって事にしてくれませんか」 「……なんで」 「色々事情があるんです」 助けてあげた貸しって事で。と、アンルは笑った。 ハルナはまだ信頼無さそうにアンルをジトッと睨み続ける。 血の赤と金の双眸で睨む彼女は、地獄からの使者さながらの迫力だ。 ハルナは、ふと、自分の頬が切れているのを思い出した。 ともすれば命を奪われていたかもしれない銃弾。 拭いても拭いても血がつくと思ったら、これのせいか。 ハルナは傷の元凶である男の死体に近づき、溜息をつく。 「アンル」 「はい何でしょう」 「これ。運んでくれるわよね」 にっこり、と素晴らしいほどの笑顔。真っ赤な顔も真っ赤な胸元も、逆に爽やかにさえ見える。 アンルはぎくりと引き攣って、いやぁ、と言いながら頭を掻いた。 持てない事もありませんけど、でも・・・とゴニョゴニョ一人で呟いている。 「アンタが機転を利かせて気絶させとけば死体にならなくてすんだの。自業自得よ」 「酷いです!せっかく助けたのに!」 「誰かさんが気絶したフリなんかするからここまで長引いたのよ。 アンタが早く目を覚ましていれば私だけじゃなくシンディアだって―――」 ――と、急にハルナが言葉を止めた。 アンルが不思議そうに顔を見るとハルナは完全に表情が固まってしまっている。 やってしまったと言わんばかりに頭を抱えた。 「どうしたんです?」 アンルが聞くと、 「…シンディア…!…あぁ、すっかり忘れてた」 血まみれの子悪魔はがっくり項垂れた。 「お仲間さんですか?まぁ、先程の銃声も聞こえたでしょうし、もう暫くすれば来ると思いますよ」 「だと良いけど……あの坊ちゃん、まっすぐ中心街に行ってる可能性も――これじゃ無線使うのも怖いわ」 「それよりハルナさん」 「ん?」 「頬から、血が」 「ああ、良いのよこれくらい。軽傷にも入らな」 ハルナの言葉が止まった。 ぐい、と軽く引っ張られた腕の感覚。 目の前に見える、闇夜よりも黒の髪。 ぱちくりと瞬きをする。 右の頬に感じる、温かさ。 柔らかい感触。 そして、耳を擽る笑い声。 「消毒です」 その呟きで我に返り、ハルナは咄嗟に身を引いた。 腕は彼に掴まれたまま―― 顔を真っ赤(心持では真っ青)にし、ハルナは空いた手で熱の残る頬に触れた。 「な、ア、アンル、あんた、な、何……」 「はい。舐めましたが?」 「な……っ!」 ハルナはアンルを睨みつけた。 流石に血まみれの彼女は迫力がある。 しかし、アンルはまだ穏やかに微笑んだままだ。 「お詫びですよ。僕の寝たふりで、怪我した訳ですし」 「何がお詫びよ!先輩に対する性的嫌がらせでしょうが!」 「ハルナさん、お幾つで?」 「18!それが何!?」 「残念。僕の方が年上です」 「ぐぁー全く関係無い!」 喚くハルナを余所に、アンルは溜息をついた。 「ハルナさん」 「うるさい」 「ハルナさん」 「……何よ!」 「観客が居るんですが」 視線で教わるその方角に、ハルナは目を向けた。 (あ。ホントにいる) 途端、今度こそ本当に冷ややかな死神が、まさにハルナに訪れた。 息を切らしながら、美しい銀髪をかきあげて、殺意すら込めた青の双眸で此方を睨む青年。 ハルナが身間違えるはずも無いその人。幼馴染の、シンディア・レナード。 灰色のコートをゆったり揺らしながら、彼は、一歩踏みだした。 一体何処から何から見ていたのだろう。 舌打ちを、赤い頬を隠す彼女と反対に、飄々とシンディアに会釈をするアンル。 「始めまして」 「……誰」 「明日から、先輩方と一緒に働く新人です」 さっきまで、人質でしたけどね―― 言って、ようやくハルナの腕を解放した。 ハルナは、アンタは阿呆だ、などと言い吐いて彼の頭を叩く。 「シンディア、それ。後ろの死体。ガンダ・ローサ」 「ああ」 詰まらなさそうに振向いて、死体を確認する。 「二人の怪我は?」 「別に無いわ。これ、全部死体の血だし」 「そうか良かったなこの馬鹿が」 「ちょっと。馬鹿って何よ」 「一人で行くなとアレほど言ったのに――銃声が聞こえて焦ったんだぞ」 「あ、それはご免。謝るわ」 「謝れば済むって言う問題じゃ無い」 「私じゃなくて侵入したガンダの坊やに言いなさいよ」 「ガンダ・ローサはどうでも良い。俺はお前の後先考えない行動に対して言ってるんだ」 「あぁ、もう彼是10年近く言われているからもう良いってば」 「10年言われても治らないお前が阿呆だ」 「阿呆?これでも私は至上最高の街頭人よ!」 ハルナは言うと、アンルの背をぽんと押した。 「ほら、殿方二人!突っ立ってないで、ガンダ・ローサを運びましょう!」 笑ってそう言うハルナに。 シンディアは溜息、アンルは肩を竦めて、「了解」と呟いた。 そうと決まれば、良し。 そう言わんばかりに、ハルナは意気揚揚と帰路へ歩き出す。 「私首持つからね」 一番軽い首をポンと持って、ハルナは笑った。 目を細めながらそれを見るアンルに――シンディアは、小声で、 「おい。あんた、」 「アンルで良いです」 「アンル」 「何ですか」 「何者かは知らないが」 「ハルナさんに、ちょっかい出すなって?」 クスリと笑う笑顔は、幼い。 「安心して下さい、危害は加えません」 「危害は、か」 「ちょっと彼女に興味感心があるだけですよ。お気に為さらず――あぁ、さっきの、見てましたか」 「……」 「深く考えないで下さい。……ただ、」 今度は、ふ、っと儚い笑顔を見せて。困った様に笑った。 「彼女の顔に傷がつくの、嫌だっただけです」 その言葉は、更にシンディアを混乱させるだけであるのに。 アンルは、屈託無い表情で、そのまま言葉無き死体を抱き起こした。 帰りましょ、シンディアさん。 ほら、もうすぐ夜が明けますよ。 シンディアはそんな、幼く、しかし腹立たしくもある声を聞きながら舌打ちをした。 別に、ハルナにちょっかいを出された事が腹立たしいんじゃない。 機嫌が悪いのだ。 今日は珍しく、機嫌が悪い。 きっと、それもこれも、後先考えず突っ走る暴走街頭人の所為だ―― そう考え込んで、シンディアは先を歩く相方に視線を送る。 振向く彼女は、首を持ってないほうの手を空に突き延ばし、思いっきり背伸びをする。 「疲れたー。早くベッドにダイブしたいわ!」 「……疲れたのは俺だ」 呆れたように言うシンディアと、それを見て微笑むアンル。 三人は人知れず、火葬所へ、そして宿舎へ向かって歩いていく。 眠らぬ都市・蜃気楼。街は今日も平和である。 |