「ハルナさん」


二度目があまりにもはっきり聞えたものだから、幻聴だと無視する訳にもいかなくなったその声に、ハルナは赤い世界を見た。はっきりと。思い切り頬を叩かれながら目隠しを取り去られたような急な景色に、思わずうっと息を詰らせた。というより、止めた。

「――ハルナさん、痛いですよ」

三度目の声にハルナの瞬きが一度弾けて、赤い視界に知人が映った。
いや、見えていなかっただけだ。目に入った赤が、血が痛すぎて。目の前のこんな至近距離で、彼は微笑んでいるのだ。街頭人が。仲間の、見知った街頭人の彼が。ハルナの目の前で、いつもと変わらぬ(心の底から温かくて偽善的な)笑みを、崩さずに。

ゆっくりハルナは彼の顔を確認して、突然弾けた様に右手を動かした。
彼は呻く。
アンル・オゼットは苦笑した。痛い。そう言って。
だって彼の肩にはクラブが深く刺さっている。
目に入った血でぼやけるけれど、アンルの肩だって血が流れている。いっぱい流れている。クラブが刺さっているのだ、否、刺したのだ、ハルナ自身が。
アンルはクラブを握って己に突き刺すハルナの手をゆっくり優しく掴みやると、そっと、肩からその先端を引き抜いた。ドロっと赤黒い血が流れる。

「ハルナさん、終わりましたよ。クラブ、離して」
「……あ?」
「ハルナさん全員殺しちゃいました。でもダメですよ、僕まで殺そうとしちゃ」

だって僕は仲間でしょ。
しょうがない人だ、アンルは笑ってハルナの肩に手を置いた。

ハルナは視線をアンルの向うにやる。
死体だ。
ハルナは視線を己の左右に移す。
死体だ。

殺したの、私。私が。



「――素晴らしい!」


アンルの声じゃない。
頭上からの賛美に、アンルは目を細めながら眩しい晴天を望んだ。


「期待通り、いや期待を遥かに上回る結果だよハルナ・アカツキ!流石その薬に耐えて生き抜いてきただけある、いや全く恐れ入ったよ!最高、最高だ!」

心の底から歓喜に湧き起こる人間はこうやって馬鹿げた程無邪気なのだ、ノギシ・コトブキは胸を押さえながら眼下の二人をまるで愛くるしい我が子の様に見下ろした。

「ハルナ・アカツキも素晴らしいが、ああ、君――どうにも止まらない彼女を収めた君もなかなかに良い材料になりそうだ。良いね、良いよ、蜃気楼は実に良い」

喜び狂う科学者に、アンルは笑みを返さなかった。

「今すぐ、消えてくださると助かります……彼女の為にも、貴方の為にも」
「ごもっともだ」

ノギシは目を細めながら答えた。「これ以上居たら僕も殺されちゃうしね。今日は満足、帰りますよ」

ノギシは深々とお辞儀をしながら、ふっとその場を立ち去った。
後に残ったのは、その凄惨な狭い路地で、立ち尽くす彼ら二人と、物言わぬ死体と、血。

アンルは溜息をつきながらハルナの頬を撫ぜた。

具合はどうですか。
答えはない。
意識、しっかりしてますか。
答えはない。呻きに似た声があったが返事と呼んで良いかどうかアンルは困った。

ハルナのクラブを仕舞って、血がべっとりついたハルナの頬をもう一回撫ぜて、ちょっと無理矢理抱き寄せた。ふっと身体の力が抜けて、縋りつくというよりは倒れこむ様にアンルに体重を預けて、一つ深い呼吸。(それからハルナの意識は無い。)

アンルはハルナの頭を撫でながら溜息を付いた。
(……デイシスだね、)何でこのタイミングで来るのかな、いや、全ては予想どうりか。“彼”の。でも、自分にしてみればこの展開は、


「予定が……ちょっと早いなぁ」
「何の予定だ」

声がしてアンルは、おや、と振り向いた。

後ろには、遅れて、体中痛々しい(アンルだって十分痛々しいが)切り傷を負ったシンディアが、それでもしっかりとした足取りで向かってくる。

「貴方も敵に?」
「敵?敵なのかアレは。製薬会社のスカウト風情が」
「勝ったんですか」
「勝ったというより逃げられた。やり辛いんだ、あの女。殺意も無ければ逃がす気も無い。飼い殺しだ。それで、腹を刺したら飛んで逃げて行った」
「顔をやらない辺りが、貴方らしいです」

手で小さな刃を弄ぶシンディアに微笑みかけながら、彼はハルナを抱き上げた。

「そいつは」
「ん、臨界状態」
「……?」


――シンディアさん、貴方が言ってた“暴走”の意味、今になってやっと分かりましたよ。



その言葉に、シンディアは手にしていた刃を地に逃がした。







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「ぜーったいアイツのせい」
「自業自得」
「アイツのせいなんだから!」
「自業自得って言ってるでしょ」

痛い、もっと優しくしなさいよ、
リネンはノギシの髪をひっぱりながら、腹部に走る痛みを噛締めた。

どうせプレの鎮痛剤打っといたからあんま痛くないっしょ、軽く言うノギシの頭をポカスカ叩いた「痛いわよバカ!アホ!プレったって、すっごーく薄いランドルフィンでしょうが!」

「当たり前でしょ。濃いの打ったら、廃人よ?」

ノギシは包帯を縛りながら笑った。「それともリネン・マーシェさんは廃人希望でいらっしゃる?」

「……まさか」
「でしょ。ハイ終わり」

隠れ家とも呼べない廃屋で彼らは馬鹿げたやり取りで喧嘩したり笑いあう。
五番街って、案外と面白いのね、そういうリネンにノギシは言った。「それ、今まで居た本土や他の街がツマンナイって事なのかな」

「ていうより、人がイイ」
「人?」
「そう……シンディア・レナード、とかね」

途端。壊れたようにノギシが急に腹を抱えて笑い出したものだから、リネンはむきになって手元の消毒液を彼に投げた。

「だって、それってさぁ……ああ、ねぇリネン。君、今の今になって、恋か?恋かい、シンディア・レナードに、恋かい!」
「煩い、バカじゃないの!ただ、顔が好みで何かムカつく程強かったし、マウスにしては上出来って思っただけよ!」
「それを恋って言うんじゃない」

腹押さえながら涙流して喜ぶ狂い人に、リネンは顔を赤くしながら応戦する。
恋じゃないわ、執着よ。言い張るリネンの言葉に説得力は微塵も無い。






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「起きたら、何もかも忘れているんだよ」

腕のしこりを揉み解しながら彼は言った。

「何もかも、ですか」
「何もかもだ。誰に何をしたのか、自分が何をしたのか、全部」
「全部、綺麗サッパリと」
「でも、アイツにとってはそれが救いだ」

シリコンカバーを口に咥えながらシンディアは続けて腕に薬を打つ。
正直、気持ち良い。シンディアはだから本当に気持ち良さそうに溜息をついた。

「それで、以前もこんな事に?」
「あの時は一人で止まったけどな」
「お一人で」
「多分。周りには死体しか無かったから」
「それはそれは――ああ、シンディアさん、もっとゆっくり入れないと。そう、ゆっくり」
「そう言えばあの女、デイシスがどうのとか言っていた」
「メリッサさんに報告は」
「していない。目的は明らかに“街頭人”じゃなく“シンディア・レナードとハルナ・アカツキ”だった」

成る程、相槌を打つアンルを余所目にシンディアは廊下のソファーから立ち上がった。
もう時刻は深夜。廊下を歩く街頭人の数は少ない。

「どちらへ」
「寝る。疲れた」

お疲れ様、そう言ってアンルは手を振った。
静かな通路の先へ、そっと、足音静かに去っていく彼を見送って――
それから、アンルはふっと肩を下ろした。(追求されずに、済んだ)それに安心する。

アンルは実に気の晴れない顔をして、彼もまたソファーを立ち上がる。
向かう先は、自分の部屋じゃない。

左じゃなくて右に曲がって、そのまま真っ直ぐ、コツコツ足音響く廊下を歩いて、もう少し、ああ、ここだ。ハルナ・アカツキの自室は確かにここだ。

アンルはノブを回した。
開いてる。無用心じゃあ無いですか、ハルナさん。
好都合には変わりないけど、いつもこうだと呆れますと思ったけれどそういえば彼女は他人に運び込まれたのであって、鍵を掛けれるはず無いじゃないかとアンルは後々そう思い直した。

入りますよ。

アンルは暗い部屋へ足を踏み入れる。
肌寒いくらいの小さな部屋を歩き進むと、足元に何か当たった。
マニキュアの小瓶だ。ほんの小さいサイズの、マニキュアの小瓶の容器の中、暗い部屋で一際映えるイエローグリーンは、アンルの眼に奇妙なほど鮮烈な印象を植え込んでくる。ああそうか、ハルナさんって、そうだ、女の子なんだ(それは言ったら確実に殴られるだろうけど、思わずにはいられない)。

ハルナさん、

アンルはベッドの脇に立ち尽くす。

ハルナは寝ていた。
寝ているというよりは仮死に見えた。事実仮死かも知れない。だって呼吸は薄い。

ちょっとだけで良いから、見守りたかった。
意識を剥奪されるよう眠り込む彼女を、傍で見たかった。
だからアンルはこの部屋に居た。

ちょっと冷たい彼女の額に掌を添えて、呟く。

「……ハルナさん、」

ハルナさん、ごめんなさい。
限界だったんですね。


アンルは体が痛んだ。
錯覚だと思ったけれど、本当に痛かったのだから仕方の無い話だ。
彼女の額に手を置きながら、ちょっと身体を、背を、丸める。

(ごめんなさい、)
(僕は、酷い男だ)
(だって、こんなにも貴方を苦しめておきながら、)
(結局全てに眼を瞑っている)
(貴方から逃げ回っているのは)

(ソノラじゃない、僕だ、)





アンルはハルナの額に口付けをした。
これは同情じゃなくて、愛情じゃなくて、(だったら何だと言うのだろう)。
物言わぬ少女を眼にして、アンルはまた痛みに耐えて、それでもう一回謝罪を述べる。
それで一体、何の罪が消えたというのか。消える筈も無い。



部屋には、ただ静寂と暗闇だけが。






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