< されど主公は諦観に嗤う 3 >




「クライシスは、育ちが良いのね」
「え?」

唐突に言われ、更には自身の身分を推察されたかのような言葉にローサは息を呑んだ。

「いや、ね。サイトに来てまでおしとやかに正座してるからさ」

笑われる自分の姿を見れば、確かに仮想空間と言えども粗雑さ一つ見せない仕草、態度。丁寧過ぎる言葉の端々。ローサは動揺を悟られぬように、静かに言い返す「初めてだから……緊張しているんです」

「敬語も止めて良いわよ。ほら、肩の力抜いて」

そう笑いかける少女らの声。
肩に置かれた黒い手は、軽くローサの肩をふざけて揉む様に動く。
微かに、びくりとローサの肩が強張った。

「お前は馴れ馴れし過ぎるんだ」、そう言われて彼女はまた笑う。

「新参だった時も、いきなり真ん中に座ったもんなぁアロノスは」
「うっさいわねー、五番街はホームなのよ!マイ・ホーム!」
「まぁな、今この中で五番街の人間はアロノスしか居ないから――」

そういやアンタは何処から来た、そう言われてローサは咄嗟に言う「二番街から」

「二番街か!初めてだな二番街の人間は」
「もっぱら三番街と五番街とセンターの人間だもんなぁ」
「聞かせてよ、二番街の話」

ゆっくり頷くローサは、ここが仮想空間で良かったと心から思う。滞在時間、残りにしてあと数十秒。そんな短時間であっても、自分が部外者であるとばれないに越したことは無い。過度の緊張と使命感のあまり、恐らく現実の自分は手に汗をかき声は更に振るえ、とても威厳ある姿とは言えないだろう――

しかしそんな事よりも、彼女は、目の前にたたずむ蜃気楼の人間が、思いのほか楽天的に見えるのが気がかりだった。

誰も彼もが、声をあげて、楽しそうに。


(何故、)


毎日毎晩、頭に響いては脳を刺激する叫びの数々。
助けて、痛い、苦しいの――
そんな懇願を何年も聞いてきた。異質な体質の為せる技。神の悪戯と称されるその能力。
その声が絶えないのは、他でもない、眠らぬ巨大都市蜃気楼の方角からである。
早く、この地から救ってくれ、そんな声が頭を締め付ける日々なのに。

「――……でね、あの通りの店、……」
「あぁ分かる分かる――」
「昨日だって俺が―…」
「――……が…、」

何故、あなた方は、

「――…ライ…」

分からない。
私には、分からない。

「――イシス」

この街から苦痛の声をあげているのは、他でも無い貴方達でしょう?

「クライシス」


毎日毎日、私の夢に現れては叫びを残し許しと救いを請うのは貴方達なのでしょう?
それなのに、今、あなた方は


「……私は、分からない」

立ち上がるローサに、周囲は言葉を止めた。

「私はこの街が、島が、全てが分からない」
「――?」
「暮らしていて、何処に幸せがあるのか、それを探す術があるのかすらも分からなくて」
「……クライシス、」
「それなのに貴方方は笑っている」

ローサは両手を広げ上を見た。
どこまでも続く白く広い空間を見据えて、「痛みを、痛みと感じないのですか」、そう、彼女は結論付けた。

――そこまで、この都市の毒はあなた方の心をも、支配しているのですね。

「痛みを知らぬ民衆達よ、」

ローサの両手から青い粒子が舞い始める。

咄嗟に、皆が立ち上がった。

「……侵食蟲バグか……!」

「…っ、アンタ…」
「大丈夫。貴方達の肉体に危害は加えません。ただ、少し、飼い鳥を離すだけ」
「此処を潰す気ね、アンタ、一体」
「クライシス。私は、貴方方を救う者」

ローサはふわりとその地を蹴った。
バグの放流完了、異常なし。
リード達の待機するあの端末まで、リターン開始。

ローサは、じわりじわりと青白さに侵食されていくその真っ白な領域を見つめながら、徐々に薄く姿を消していく。

「手の込んだバグだな」
「感心してる場合じゃないっつの!」

慌てるメンバーとはうってかわり、ノウシェルは冷静にため息をつく。

「ああ、だが、本当に危害は無さそうだ」
「どういう意味……」
「ただのスパイ・バグだ。クライシス、やってくれたな」

ノウシェルはクライシスの後を追うようふわりとその場を離れた。

「ノウシェル!」
「彼女、本当に二番街の住人だと?」

ノウシェルの言葉に、アロノスらは慌てながら訝しげに呟く。「……どういう、」

「クライシス――……本土の、シャクドウかオウニから来た部外者だな」ノウシェルは声を凄める。

「我が島へバグを流した罪、その重さを知ってもらおう」

彼はクライシスが消えていったその闇に向かい、何かを放った。
それは、鋭利な矢の刃先のような、煌く何か。

しかしそうこうしている間にも皆の体はもやのように溶けていき、声は雑音へと化してゆく。
プログラムの消去。生身の人体には影響がなくとも、このサイトは直にバグに飲み込まれる。

「――ノ……シェ…」

アロノスの言葉が途切れ始めた。
周囲の空間はバラバラに解けていき、先ほどまで集っていたメンバーも大半が闇へ流れる。必死に、求めるように、アロノスは溶けゆくその黒い指先で、彼女は、ノウシェルと名乗っていた仮想の友人に触れようとする。

「――ア…ノス、」

ノウシェルは、応えるよう手を伸ばした。
だが、もう遅い。ノウシェル自身の体も、最早電子の海へ溶け出している。
二人の指先は触れることなく、そのまま、散り散りに離れていった。

「…ノ…」
「ダイ――…ブ」


大丈夫。

また、君には会えるから。





ノウシェルの言葉は、なぜか最後だけはっきりと聞き取れた。


















「――はぁ…っ…!」

飛び上がる体。
切れる息、汗だくの額と手。

尚も収まらぬ動悸、何かを掴もうと力のこもった指先。

目の前の電気信号が意味を分からぬ羅列を為し、しばらく不快な音を発した後――ようやく、彼女の頭部を覆っていたものが外れていった。

「どうしました」
「――ファック!」

ハルナは服をぱたぱたさせて火照った体を冷ましながら、椅子に腰掛け呑気に茶をすするアンルに舌打ちする「最低最悪!バグでサイトが消滅したわ!」

「いつまでものんびりお話しているから……暇なハッカーの悪戯じゃないんですか」
「ノウシェル曰く、本土からの侵入者らしいけど」
「ノウシェル?」
「凄い気の合うお話仲間。頭が良くて、大人びて……」

まぁそれはどうでもいいんだけど。
ハルナは首を回しながら、ダイヴィングベッドからゆっくり下りた。

「ところでアンタ、なんで此処にいんの」
「いやぁ、無防備なハルナさんを見れる機会なんて滅多に無いでしょ」

言って、彼女に叩かれる。

「……それはそうと、その外部の人間、何だったんですか一体」
「さぁね。本土から蜃気楼に繋げる人間は少ないわけじゃないけれど、バグを流した後バスターに駆逐されずに何処かへ帰った……そこら辺の電界領域からダイヴしたわけじゃあなさそうよ」

それはまるで、蜃気楼の祗庵本部ビル地下のそれと匹敵するかのような、強大な。

「スパイ・バグって言ってたけど、ま、本部の神経回路ナーヴ・システム担当員が駆除するでしょ。ノウシェルに会えなくなるのが心残りね」
「おやハルナさん、ソノラと葬儀屋の他にもまだボーイフレンドが?」

心外ですね、というより衝撃ですねぇと肩を竦めるアンル・オゼットは手にしていた文庫本を閉じて立った。本の題名が“別れの時”だというだけで、彼女の機嫌は益々悪化することになるのだが。
苦笑いしながら、彼は頭をぽりぽりかいて言う。「ノウシェルさんでしたっけ。また何処かで会えますよ。ここの神経回路ナーヴ・システムは広いようで狭いようで広いですから」

広いんじゃん。
ハルナはため息をついて背伸びをし、アンルに悪態をつきながら部屋を去っていった。
お気に入りのサイト閉鎖ほど辛いものは無い。そこに愛着を持つ人間が存在していたのなら尚更だ。しかも、こんな、事故みたいに唐突に――




大丈夫。
また、会えるから。






――優しいあの声が、記憶の奥深くを擽る気がしたのは何故だろう。










数日後の談話室。


「……ガンダ・ローサのメインシステムがバグでダウン?」

ハルナは読んでいた漫画から顔を上げて、真顔で見下ろすシンディアと視線を合わせた。

「何よそれ。あそこのビルのシステムは絶対不可侵で、祗庵のメインシステムと同等のセキュリティレベルじゃなかったの?」
「その不可侵が打ち破られた。本土は対処に大騒ぎだとさ……まぁ、俺達に関係は無いが」

ハルナの隣に座りながらシンディアはため息をついた。「お前も程ほどにしとけよ、ダイヴィング」
脳障害を起こすバグだってあるんだぞ、そう言われてハルナは肩を竦めた。

「心配ご無用。その時はその時で諦めるわ」
「お前なぁ……」
「身柄は僕が引き取って差し上げますよ」

あんたは寝てろ!
暴言と共に投げられたハルナの漫画をひょいと避けてアンルは笑った。

「障害があるハルナさんもある意味良いかと」
「心底怖いわ、あんたの思考」


事実、心底彼の思考を警戒するのは、当の本人よりも傍らの幼馴染であったが。








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『久しぶり。』、そんな言葉も、茶番に聞こえた。




夜風は、生暖かい。屋上は、人気が無く、不気味なほどだった。
秘め事や逢瀬には最適な夜だ、青年はそう言って屈託無く笑う。
深夜の密会、しかし、密会と呼ぶには彼らの間柄は非常に奇妙なものだった。

(何年ぶりかな、こんなのって。)
そういう青年に、彼は特に返事も返さなかった。
青年は屋上のフェンスに寄りかかり、もう一人の男は、給水塔の上に腰を掛けている。
二人は暫く無言だった。久しぶりの邂逅はそれ自体が意味を為す。それこそ、余計な言葉は要らない。


「……この間は、派手にやったらしいね」


唐突に言われた言葉に、夜風を味わう男は顔を顰めた。

「誰が」
「ノウシェル。蜃気楼の神経回路ナーヴ・システム、影の支配者」

青年は、懐かしいと微笑んだ。
束ねた黒髪は風に靡き、細められた目は見下ろす男を見つめ返す。


「懐かしくないかい?……――ねぇ、ソノラ」


“ソノラ”。
青年は、確かに男をそう呼んだ。

ソノラ・クロノイド。その名を面と向かって呼ばれるのは何年振りか。
守護神と、幻の存在と呼ばれる「彼」は、しかし表情一つ変えずに黙って青年を見下ろしたまま。

「最近酷く懐かしいんだよ」
「……」 「僕はこうして君に会える。けれども、“彼”には会えない――“彼”が、“彼女”と居る限り」
「アンル」

幻と称されるその人は、深く被ったフードの奥から、燃える様な緋色の頭髪を覗かせて、「あいつはまだ、ノウシェルの名を使って生きているのか」

神経回路ナーヴ・システムの中ではね。笑えるよ、ガンダ・ローサのシステムをダウン?そんな事するのも、それが出来るのも、彼しか居ないと僕達には分かるのに」

まるで挑発的に誇示するようだ、

アンルはフェンスに肘をつきながら眼下の街を見下ろし笑う。
ネオンが煌く深夜のみの、彼との邂逅。
伝説と言われる男と、屋上に二人きりで、二人何をする訳でもなく――

ああ、それでも虚しさは無くならない。

「でも、“ノウシェル”は彼女に直接手を下さなかったらしいね。メインシステムに留めておくなんて、彼らしい。……失明でもしないかな、ローサ・ハーテム」
「あいつはそこまで馬鹿じゃあない」
eleisonエレイソン、!――馬鹿げている、けれど美しい。まだ、“彼女”を望んでいるんだろうね」

ノウシェル――nosiele――eleisonエレイソン
子供だまし。その名こそ、許しと慈悲を請うその言葉の遊びだと気付く者は如何ばかりか。

「でもね。ハルナさんも、あの子も、ふざけているんだよ。ID、アロノス。aronosアロノス。ソノラ、君の名だよ!可愛いじゃないか、君、心底好かれている証拠だよ。八番街の坊やが哀れな程に」

無邪気に笑う彼は、空を仰いだ。

「アンル、近づきすぎだ」
「何に」
「ハルナ・アカツキ」

抑揚のない声は、その少女の名を紡ぐ。

「心配症なんだ。見守ったって、バチは当たらない」
「不安要素は無くしておくに越したことは無い。お前も少しは慎重になれ」

最近お前は行動が目立つ。
新人の癖に、誰よりも人を斬って――

叱り咎める様な男の口調に、アンルは、反省する仕草をしながらも笑っている。
アンル、もう一度そう名を呼ぶと彼は顔から笑みを消した。
怖い怖いと呟いて、思い直したよう口元に手を当てる。

「でも怖いのはノウシェルだよ。ハルナさん、あの子、結構嵌ってる……今まで、何度も接触を」
「あの男は何を考えている」
「分からない。でも、今も昔も、この街と“彼女”の事だけは、きっと」


アンルはそこで言葉を止めた。
顔から笑みは消え、ただ、夜風に髪を委ねて、ソノラの方を見向きもしない。

やがて、アンル・オゼットは一人何かを呟きだした。
口元に当てた手、その指先で不安そうに唇なぞる。

昔からの彼の癖である。
自らの肉体に触れ体温を自己共有する事により安堵を得ようとする行動は、心のうちにある払拭しきれない不安要素に、押しつぶされない為の習性だ。幼い頃からそうだった。そして、それは今も。呆然と孤独の殻を構築し始めた友人を見下ろす幻は、そんな彼を哀れと思う訳も無く、かといって、傍に行き慰める訳も無い。
給水塔から屋上に降り立ち、後を引かれる様子も無く、アンル・オゼットに背を向ける。

「時間だ。戻る」

限られた時間は常に短い。
ソノラは名残惜しさも何も滲ませず、フェンスに軽く飛び乗った。

うん、……じゃあ、またね、
そう粗末に呟くアンルからは、駄々を捏ねる仕草も、引きとめの言葉も無い。
(それこそ、次に会う約束すらも)
今青年の頭を支配しているのは、目の前の英雄よりも、遥か遠く手の届かぬ場所に居る彼の人。そして頭を渦巻く懸念の数々。緋色の麗人は目を瞑り、口を噤んで、音も無くその場を去った。


そうして、目も向けず、言葉だけで見送った後、突然ずるりとアンルは崩れ座る。
ぐったりと、そのままフェンスに背を預けて項垂れた。珍しく頭が痛い。締め付けられるように、何かに襲われる。(感傷なんて、お前らしくもないよ)、そんな自嘲は、夜の寒さにかき消される。

“ノウシェル”、ソノラ、神経回路ナーヴ・システム、蜃気楼、祗庵……ハルナ・アカツキ。ぐるぐると回り始める全ての因子。
それらに混じり何度も脳内で繰り返されるのは、懐かしい彼の声だ。


――二人が死んだ今、お前はこの街に何を望む?


(僕は、君とこの街で生きる事を望むよ、)


――nosiele!今日からその名が、この街を、


(僕は、もう、これ以上――)







青年は、膝を抱えて頭を抱いた。思いの他、夜風は冷たい。
(だったら君は、何を生み出そうと言うんだい、)
昔、そう言い掛けた言葉は、その瞬間に消し去られた。痛みと衝撃。あの時痛かったのは、体だけではなかった筈だ。

ソノラは「幻」と称され、この街を守る。
自分は、身分を隠し、血と快楽と義務感に塗れながらも、この街を守る。

あの明るい笑顔を寄越す少女に対し、負い目は無いのか?
その一言を言ってくれる人一人ここにはおらず。
(ハルナ・アカツキ、)君に、僕は、何もかもを偽っている――例えそれが、不可抗力であったとしても。

自分に、徒労と苦痛を嘆く権利は欠片も無い。
本当は、こうして、ひと時の休息も弄ぶ時間だって与えられている筈が無い。
そんなものは過去に何処かで無碍に捨てた。
あの、何もかもが信じられなくなった瞬間から。


不意に彼は、ソノラが去った街を見た。
人々の笑い声、走る音、奏でられる音楽。しかし今自分の存在に気づくものは一人とて居ない。
急に独りである事を自覚する――そんな無駄に遣る瀬無いこの夜を、アンルは少し苦く思った。








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