< 謡え、狂い世の理を 7 >




入り口からまっすぐ進んだところに置かれる祭壇。
大分その機能を為していないのであろう、ボロボロに敗れた掛け布、幾年も昔に落ちて割れたワインボトルの破片達。
その破片の中に彼は此方を見据え静かに佇んでいた。

暗がりの所為で黒か濃紺か分からぬ服を身に纏い(それはまるで神父と見紛うかのような出で立ちで)、銀の月光に映える男。人形の様に綺麗で流れるようなブロンドを持ち、まるで――言うなれば亡霊とも思しき雰囲気を感じさせる様、静かな存在。

「神父……?」

思わずそう呟いた。
端正な顔、しかし笑みを浮かばせぬその表情、温度の無いその瞳。
ハルナとトリスを見据える彼は、この世の全てを見透かしている様で――思わずハルナは息を飲んだ。

「――帰ってきてたんだ、ヴァル」

トリスは祭壇へ歩いていった。
途中、ハルナに振り向き歩みを促す。

「こっちに来なよ。それ、返したいし」
「……何?」
「あんたが腰に差してるヴァニッシュ。持って来てくれたんでしょ?アリガトさん」

別に、あんたのために拾ってきたわけじゃ無い。 そう言う間もなく、トリスはヴァルと呼んだ男に振り向き直った。

「あの子は?」男は、静かに言う。「見かけない顔だが」

「五番街の街頭人さん。で、俺の女」
「……頼むから死んで頂戴」

ハルナは銃口をトリスに向けたまま毒気づいた。

「誰よこの男は」
「八番街の隊長、ヴァル……ヴァ……なんだっけ」
「ヴァルトロメア・ディ・オーギスト」

肩書きに、ハルナは思わず男を見上げた。
男はトリスの頭をくしゃりとやり「いい加減覚えろ」と言いやる。

「だって長いじゃん。ヴァルだけ覚えりゃ良いじゃん」
「適当だな」

トリスの頭を解放すると、彼は、ハルナを静かに見た。

「君は、何故、此処に居る」
「え、……」

それは、何て事無い問いかけなのに、ハルナは言葉が詰る。ハルナは何も言わぬまま、彼から目が離せなかった。
何だろう。何だろう、一体、この奇妙な感覚。
恐怖でもないし、畏怖でもない。しかしながら彼の瞳は安堵を引き出さず、ハルナの腹から咽喉を何かで締め付けるような、奇妙な感覚を引き起こした。

初めての経験だった。
他人と目が合っただけでこんなにたじろぐ事は、未だかつて無い。

ハルナは、咄嗟に思わず、ヴァルトロメアに銃口を向けた。

これにはトリスも眉を顰める。

「ヴァルは誘拐犯じゃないよ」
「……知ってるわよ…!」
「誘拐犯?」

ヴァルトロメアはトリスを見た。「何の事だ」

「……ん、…あー…うん。まぁ、色々」
「当ててやろうか、トリス。お前は五番街から、お遊びで誰か誘拐してきたな。それで、この子に追いかけられていたんだろう」
「うわ、すげぇ。マジあんた気味悪いんだけど」

トリスはヴァルを睨みつけた。
何で何もかもをお見通しなんだと言わんばかりの無言の抵抗に、ヴァルトロメアはふっと笑った。

「お前がしそうな事くらい目に見える。――君、俺の部下が大変済まない事をした。代わりに謝る」
「……こっちは、さっさとその子返してくれれば良いんですけど」
「トリス、ちゃんと返せ。まさか傷つけてはいないだろうな」
「は、何もしてねぇよ」

トリスはポケットに手を突っ込むと詰らなさそうに首を廻す。「あー、折角二人きりだと思ったんだけどなぁ」ヴァルが居るとは思わなかったとトリスは文句を言い続ける。ヴァルトロメアは、そんなトリスを一瞥すると、ハルナの方へ向き直った。
そしてそのまま彼女の方へ歩み近付く。

(――何、)


思わず一歩後退るハルナは不意に自分の手が震えている事を悟った。
――なんなのだこの男は。何故、こんなにも自分の体を不自由にする?
ハルナは歯を噛締めると銃を持ち直し、ヴァルトロメアへ向けなおした。「近、寄らないで、」

「五番街の街頭人」
「――」
「“ハルナ・アカツキ”か」
「……え?」

その名を呼ばれ、ハルナは力ない声を出した。
何で私の名前を知っているの、そう思ったが、尋ね返すことすらままならない程ハルナは彼の瞳に見入っていた。蝋のような肌……美しくも、しかし逆に人間味を感じさせない彼の顔。

呆然と、何も言葉を発せぬハルナの事を目を細めて見下ろし、ヴァルトロメアはそっと指先で銃口を制した。「危ない物を向けるもんじゃない」

「……貴方……」
「目を瞑れ、ハルナ・アカツキ」

声は心地よかった。それは、体中を柔らかく甘い何かで包まれるような心地良さ。 再び呼ばれた名は、頭の中で永久に木霊する様で、

「――君に、加護を――」

そっと。 彼の唇が、目を瞑るハルナの額に優しく触れた。
何故抵抗しなかったのか。
何故この男の掌を躊躇せず発砲しなかったのか。何故会ったばかりの彼の言葉を鵜呑みにして、言うがままになり、その額に柔らかな熱を宿したのか――
平生のハルナには考えられない状況が起こっている。

そっと瞼を開けた途端、ハルナはぐらりと体をよろけさせた。

「何してんの」、至極不機嫌な口調で、トリスがハルナの肩を掴んでいた。
怒っているというよりは、ヴァルトロメアに対して拗ねて文句を言うかのような口調。ハルナは今の状況に呆然としながら、知らずの内に銃を腰にしまい己の額に手を当てた。心なしか触れられた部分が温かい。

ハルナがぼうっとした目でヴァルトロメアを見上げると、彼は優しく目を細める。

「行きなさい。仲間が待っているんだろう」
「……」
「大丈夫。また、会える」

彼が不意に言った言葉に、何故かハルナは安堵を感じた。
(また、会える)
彼にまた会える。なんだろう、しかし心が温かい。先程体を締め付けた感覚は既に消え、ハルナの心には平穏が満ち始めていた。

「アンタ、ハルナって言うんだ」
「……そうよ」
「何でヴァルが知ってんの」

トリスは不思議そうに彼を見た。
ヴァルトロメアは、咽喉で笑い、いつの間にか――恐らく先程接吻をした時だろう――ハルナの腰から抜き取ったヴァニッシュをトリスに見せ、以前彼女が特集された事があるんだと言った。
(嘘だ、)何故かハルナは思った。(この人は、私を、)
恐らくそんな理由じゃなくて。そんな俗な事じゃなくて、彼はどこかで自分を知っている。まるで何年も前から見守られたようなこの感覚。他人に立ち入らせない“自分の領域”にずかずかと入ってくるような雰囲気を持ちながら、それが決して不快じゃない……この感覚は、前に、どこかで。

(そうだ、アンル)、――彼の持つ雰囲気はアンルに似ている。

そう思ったところで、ハルナは急に任務のことを思い出した。

「……結局、レイチェルはどこなのよ」
「外の倉庫」
「ああ、全然場所違うじゃない!さっさと案内しなさいよ!シンディアやアンルにサボってると勘違いされるでしょう」

ハルナはトリスの腕を掴むと、祭壇を離れぐいぐい入り口へ引っ張って行った。
ぶつぶつ文句を言いながらやる気無く歩く彼の背を押して教会を出る。

その刹那、ハルナは、ほんの少し後ろを振り返る。

ヴァルトロメア・ディ・オーギスト。
彼は未だその場から、静かにハルナを見つめていた。

(また会える、)

何故かその言葉を反芻させハルナはとうとう教会を去って行った。


二人が去った後に残るのは、無人の如き静寂。
音も無く風に揺れることも無く静かに揺れる蝋燭の灯を見つめ、一人残るヴァルトロメアは小さく息を吐いた。ふと、外の月が雲に隠れ再び教会に闇が篭る。


「――アンル、」

声は響くことも無い程小さなもので、彼はそっと目を伏せた。
声は至極冷たいものになり、「何もせずに見ていろ」、ヴァルトロメアは囁いた。


お前は、その場所で ――全てを見届けていれば良い。

























「っあー、何か煮え切らないわこの思い!」
「煮えきれ。今生きている事に感謝しろ」

八番街街頭人支部の一階ロビー。
自販機のレモンティーを無理矢理シンディアに奢らせながらハルナは酒に酔ったように文句を垂れた。
一時間ほど前セダが居座っていたそのソファーにどっかり腰を下ろし隣のレイチェルに肩を預ける。

レイチェルを挟んで、ハルナとシンディア。
幼馴染三人組は、何をするでもなく、ただただ時間を潰していた。
それもこれも、残りの一人が帰ってこない所為である。
お気楽新人アンル・オゼット。どこの階をどう行ったのか、彼はハルナがトリスとこのロビーへ戻り、シンディアと合流しレイチェルの無事を確認するとその足でシドの手錠を外しに行きまたロビーへ戻り一度この支部からメリッサに無事レイチェル・フィーネの保護を連絡するという約数十分の時間があったにも関わらずサッパリ姿を見せなかった。

仕方無しに、ハルナはソファーでこうしてレイチェルと雑談をしたりレモンティーを飲んだり無意味に向かいの男を睨んだりして暇を持て余しているのだ。
誘拐されたレイチェルはと言えば、シンディアの説明で自分が置かれている状況を確認しぼんやりと理解した上で、何とトリスの腕の傷を治してやるという何とも気前の良い事をやってのけていた。
彼女が手を翳し、目を瞑って数分。トリスの腕の傷は、瘡蓋は残るものの殆ど治り血など一滴も流れぬ程の回復を見せた。便利だ、やっぱり一家に一人は必要だよねとさらりと言ったトリスだったがそれにシンディアが切れそうになったのは言うまででもない。

「だって、怪我人は怪我人よ」とおっとり笑う彼女の微笑みにそれ以上彼は何も文句を言わなかったが。

それを思い出して、本当にあんたは何歳になっても変わんないのねとレイチェルの頬に軽くキスをするハルナを見、シンディアは顔を顰めた。

「何、羨ましいの?」
「馬鹿か。そんな事言ってる暇あったら、さっさとアンルを探して来い」
「無線機もパーだし無理よ。アンタが探してくれば」
「いくら呼びかけても返事が無いんだ。仕方ないだろ」
「なら私も仕方ないわ。ここで待ってなきゃねー」

空になった紙コップを持て余すハルナは、疲れた体を動かしてまでクズカゴのとこまで行きたくない為、向かいのソファーへ座る男ににっこり笑いかけた。「ハイこれ」

「ハイこれじゃねぇよ。死ね。それか消えろ」
「あーそんな口利いちゃって良いのかな?君達が何のお咎めも無しに済むのは(恐らく)私達の心が広いおかげなのだよ」
「回りくどい事しねぇでトリスに頼めばいいじゃねぇか。お前等知らないうちにアレだ仲良しになったって聞いたぜ俺は」

その言葉にシンディアは、シドに並んで向かいに座るトリスと、ハルナを交互に見た。

「お前等何があった?」
「清い交際をさせていただいてます」
「してないっつの!」

突っ込みと共に飛ぶ紙コップは見事的中、トリスの頭で緩く撥ねるとそのままロビーの床に転がり落ちた。「すげぇ度胸だ」シドは笑う。「こんな事してコイツに殺されないのはテメェくらいなもんだぜ?」

馬鹿にしたように笑うシドを他所に、シンディアは訝しげにハルナを見る。

「お前、ソノラはどうした」
「だから違うって……」
「誰ソノラって。何、浮気?」
「浮気も何もあったもんじゃないでしょうが。……あー、何つーかこの男が勝手に私に付きまとうだけで」
「……困ったもんだな」

溜息をつくシンディアに、トリスは、お前この子の何なのさと言わんばかりの表情で鬱陶しい前髪の合間から翡翠の双眸を光らせる。

ただの幼馴染だとシンディアも言い張りたいところだが、如何せんその感情に保護者的な要素が混じっているのは否めない。別にハルナがどんな男と何しようが直接自分に関係は無いが、かといってこの男はどうだろうと凝視する。

お前、こいつに首刺されそうになったんじゃ無かったのか?とあきれ返ったシンディアの視線にハルナも肩を竦めた。(だから私は知らないってば!)

「ハルナ・アカツキ」
「……何よ」
「ハルナ・アカツキ。うん、良いね。じゃあ結婚したらハルナ・アーノルドになるってわけだ」
「語呂が悪ィ」

気が遠くなるハルナを他所にシドが貶す。

「それかトリス・アカツキだな」
「語呂良いけど俺はヤダ。何で婿入りしなきゃいけないんだよ」
「良いじゃねぇか。祝儀に煙草の一箱でも持っていってやらぁ」
「だーかーら!何で私がアンタみたいな男と結婚なんてしなくちゃならないんだってさっきからずーっと」

「結婚?誰と誰が結婚するんです?」


声に、ハルナは勢い良く階段を振り返った。

アンル、あんた遅いじゃない――

そう言って駆け寄ろうとしたハルナは、ソファーから立ち上がったところでその足を止めた。


「……あんた…」

言葉も無かった。

アンルに支給された街頭人の灰色コートは、どこのどれが飾りの縁取りの赤で、どこのどれが身に浴びた鮮血なのか――それこそ境が分からぬ程ドス黒い血で染まっていた。アンルはコートの止め具を外しながら、平生と全く寸分違わぬ笑顔でもう一度言う。「ハルナさん、結婚するんですか?」

いや、しないけど。
しないけど、何ていうか、それすら言い辛い程あんた血に塗れてるわよ……

ハルナは愕然としながらも、何とか足を進めてアンルに近寄った。
普段から血に見慣れているシンディアも、レイチェルも、言葉を押し黙る。
興味有り気にアンルを見る葬儀屋の二人は、ヒュウと口笛を鳴らした。

「あんた……何があったのよ…」

ハルナはコートのポケットからハンカチを取り出すとアンルの顔を拭った。
つい先刻ついたものなのだろう、血はまだ乾いていない。
べっとりと顔に飛んだ血飛沫を一頻り拭いてやると、ハルナは顔を顰めながら彼のコートをまじまじと見る。「あんたの血?」

「まさか。ぜーんぶ、葬儀屋さんのです」

いや、レイチェルさんの居場所を探して歩いていたらうっかり宿舎で迷ってしまいましてねぇ。シンディアさんはそこの白髪の方を追いかけているし、ハルナさんに助けを呼ぶのも情けないでしょ?だから暫くうろうろしてたんですが、運悪く廊下で葬儀屋さんに絡まれましてね。仕事なんです止めてくださいと言ったんですが、なかなか聞き入れて貰えなくて……いや、全く運がいい。最後の一人に道案内をさせましたら、あっさりここまで辿り着けましたよ。

そこまで言ってアンルはハルナの肩に手を掛ける。「で、どなたと結婚するんです?」


ハルナは顔を引き攣らせた。

はいはい俺ですと言い出さんばかりのトリスの口を、ご親切にシドが塞いだのは言うまでも無い。


















「また来てね」
「二度と来るか」

ハルナはトリスに言い放つ。
八番街の中心部にある、モノレール専用駅。
二十四時間不眠不休で走り続けるモノレールは市民の使用頻度も高く、例え今のような夜更けでも乗客が駅にちらほら居たりする。ただ八番街だけはやはり別のようだ、駅のホームには今のところハルナ達一同と葬儀屋の二人組みしか存在しない。

30分おきに駅へ来る帰りのモノレールが、次に来るまであと数分。
支部の電話を借りてメリッサに改めて四人の無事を連絡しこの駅まで歩いてくる間、いいからと言うのにトリスは無理にでも見送ると言い張って止まなかった。(シドまでつき合わされたのはそのままトリスが五番街へ行かないよう見張ってろとセダに忠告されたからである)

シドは胸元から煙草を取り出すと、火もつけずに唇で弄ぶ。 レイチェルから片時も目を離さず常に警戒を怠らないシンディアの所へ行き、楽しそうに咽喉で笑った。「アンタの彼氏さんは、随分とアレだ。野郎に手加減が無ぇ」

きょとんと首をかしげて見上げるレイチェルに気にしないよう言い諭すとシンディアはシドを見た。

「優しくされるのが趣味か?」
「まさか、気色悪ィ。……それは冗談として。あの女、何なんだ一体」
「何が」
「ハルナとかって奴だよ。あのトリスが気に入るっつったら、よっぽど変わった女に違いねぇし」
「変わっていると言えば変わってる」

シンディアは向うでアンルと何やら話すハルナを見た。
トリスは詰らなさそうに駅の椅子に膝を抱えて座り込み、二人の様子をじっと見ている。
アンルにしろあのトリスという男にしろ、――ソノラ・クロノイドにしてみたって、ハルナ・アカツキに関わる男は何だってこうどれもこれもが一癖二癖ある者達ばかりなのだ。

「見ての通り、男運が無い奴でね」

心底同情すらしてしまう。

「それは構わないけどよ。気ィつけろっつっとけ」
「何に」
「トリス。あいつの執着心は半端じゃねぇぞ」

シドは横目でトリスを見た。

「何年か前、目が生意気だか何だかであいつに因縁つけた街頭人が居てな。そんないざこざ日常茶飯事だから俺も大して気に留めて居なかったんだが、余程その日機嫌が悪かったんだろうよ。何ヶ月も経ってからその街頭人さん、ご自分のベッドの上でオダブツだ。部屋ん中は血だらけで同僚も顔確認出来ないっつー程だったから、よっぽど酷い有様だったらしいぜ。分かるか?相手がすっかり忘れて平穏な空気に浸ってる時に、アイツはそれをぐちゃぐちゃに潰しにかかるのがお得意なんだよ」

だから、気をつけな。

そう言うとシドはホームの向うを見た。「――来たぜ。さっさと乗って帰んな」
彼の言うとおり、耳障りな金属同士の摩擦音を立ててモノレールはやってきた。

乗客は一人二人。
彼らが下りるのと入れ替えに、ハルナ達はモノレールに乗り込んだ。


「ハルナ、」

最後に乗り込もうとするハルナに、トリスが言う。「何かちょうだい。記念にさ」

「記念?」
「そう、俺等が会った記念」

んな事いきなり言われたって、ハルナは何も持っていない。
銃?まさか、それはやれない。ナイフもライトもまた然り。
レイチェルみたいに腕に髪結いゴムでも常備していたら話は別だが――

(……って、何で本気でやる気なんだ自分は)

ハルナは冷静に戻って笑った。

「生憎。何も持って無いわ」
「つまんねぇの……じゃあ、コレで我慢してやるよ」

彼は、ハルナの髪を掴んで引き寄せる。


――唇に当たる、柔らかい感触。ハルナの視界を塞いだ、一面のインディゴ。



何を、とハルナが口を開く前にトリスは彼女をどんと押した。


「ばいばい、ハルナ」


皮肉に笑う彼とハルナの間で、モノレールの扉が閉まる。

――動き出すモノレール。
呆然とするハルナは、呆れて笑うシドの顔も手を振るトリスの姿も目に入っていなかった。
ただ、動き出す車内、自分の唇に手を当てて――
頭の周りを小宇宙が駆け巡り、彼女はそれから寸分も動かない。

「ハルナさん、顔赤いですよ」

目が笑っていないアンルの微笑みに返す言葉も無く、揺れる車内でふらふら立っていた。


(……やられたな)

シンディアはシドと同じく、最早呆れかえる事しか出来ない。
疲れたように席に座るシンディアの隣にそっと座ったレイチェルは、にっこりと笑って「良いわね」と呟いた。シンディアの肩を叩いて、純粋に彼を見つめる。

「羨ましいわ」
「……どこがですか」
「ああいう風に、素直に思いをぶつける男性って、素敵」

言葉に、シンディアは固まった。
それは一体、どういう意味で――

「ねぇ、シンディア」

レイチェルは座席に深く座りながら彼に問う。

「今日は、有難う」
「……仕事ですから」
「そうね、第三班の任務だったもの――でも、」

そっと彼の手に小さなその手を重ねると、小さく呟いた。

「私は嬉しかった」

(……)
シンディアは視線を泳がせた。
誰か彼女を止めてくれ。石のように立ち尽くすハルナでもそれを眺めるアンルでも通りすがりの誰でも良いから早くこの手を退けてくれ――
しかし勿論あの二人は此方に助け舟を出すわけでもなく、かといって彼にレイチェルの手を払いのける事など出来はしない。

シンディアは迷いに迷って悩んだ挙句、これまた人類古来より伝統的に使用されている通称狸寝入りに全神経を集中させることにした。

「……俺は疲れました。着くまで寝ます」
「シンディア?」
「……」

これでどうだ。
これ以上の言葉が欲しくとも、これでは彼女が問い続けることはあるまい。

シンディアは本当に眠りに入ろうと、首を項垂れ目を硬く瞑った。
(何か、前もこんな事をしたな)
思い出すには日が浅すぎる程つい最近の事。
彼はその時の様子を脳裏に浮かべ、思い出に浸るが――

直に思考の中で冷や汗を流した。
そういえば、彼女は以前何をした?
彼が狸寝入りを決め込み屋上で彼女の声を頑なに無視し続けたとき、彼女は、


「シンディア。寝ちゃったの?」

彼女は、――

「……おやすみ、シンディア」

レイチェルは、そっとシンディアの頬に口付けをした。
そして、そのまま彼の肩に頭を預けて自分も疲れた体を癒しにかかる。


「……」

人類古来の必勝法、ここに破れたり。
シンディアはこの状況を幼馴染の暴走街頭人が見ていないことだけを救いとし、手と肩に伝わる彼女の温度を意識から払拭しようと精神鍛錬を試みた。結局、それは五番街に 着くまでの数十分無駄な徒労に終わるわけだが――すやすやとあっさり眠りに入る少女は、彼の葛藤を知る由も無い。



そんな二人のご様子をちゃっかり見ていたアンル・オゼットは、これはいつかシンディアさんをからかう際に使えますねぇとほくそ笑みながら石化したハルナの腕を引いて座席に着いた。

魂を抜かれるってこんな感じなんだろうかと言いたくなる程生気の抜けた顔をしているハルナに向かって「もしかして初めてでした?」と聞いてみれば案の定こくりこくりと首の縦返事が鈍く返って来る。

これは重症ですねと溜息をつくアンルが外を見ると、明るい八番街のネオンが目に眩しかった。
彼は血に塗れて汚れたコートを丁寧に折りたたむと、少し血が滲んだ内着の袖をまくる。

――悪い癖が出た、

彼は皮肉な笑みを零さずに居られなかった。
これでは、新人で入った意味が無い――アンルはそう思うと、重大事件で気が気で無くなっているハルナとシンディアのこの状況をありがたく感じた。(目立つのは、避けた方が良さそうですし)
この分ならば五番街に帰っても、今日の事を咎められる心配は無いだろう。副隊長のメリッサだって、アンルの返り血などよりハルナの自失呆然ぶりに驚愕するに違いない。

アンルは目を瞑った。

瞼に蘇るのは、日の当たる穏やかな風景。
アンルは誰かに手を引かれ、彼もまた誰かの手を引き、街を無邪気に駆け回る。
嗚呼、二度と臨めないあの日常――

「……ヴァルトロメア」

アンルは呟いた。




君は、まだ其処に居るのか。
孤独になりながら、尚も君は一人その場所からこの街を――




思いは、誰に聞える事無く彼の中で無へ昇華されていく。

四人は誰も彼もが黙り込んで、それぞれの思いに耽る。
物言わぬモノレールは、彼等を乗せて地獄の中の地獄と名高い八番街を走り抜けて行くのだった。







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