< 明けし幻影、その跡・後編 >





何も見つからない、とシンディアは言う。

「そこから現場を見ても何も見つからないぞ」
「――分かってる」

ハルナは静かに答えた。

時刻は既に昼を迎え、彼等は見張り番に駆り出されている。
昼食に食べたパスタの余韻を咽喉に残しながら、ハルナはとあるビルの屋上から地上を見つめていた。
彼女が手に持て余すのは、甘ったるいオレンジジュース。せめて、果汁オンリィにしとけば良かったと一人拗ねる。
これでは、後味がすっきりしないと眉を潜めた。

「なら、そこを見るのはやめたらどうだ」
「良いでしょ。別に」

ハルナが見下ろす場は、それこそ今朝ガンダ・ローサの遺体が見つかった“処理現場”。
ソノラ・クロノイドと思しき人物が駆け抜け、舞い、鮮やかに奴等の生を奪ったであろうその現場である。
まるでそこにいない幻を目に映すかのようにハルナは黙って地を見続けた。

「ハルナさん、大分病んでますね」

退屈そうに、ビルの屋上に寝転んでいたアンルがそう呟いた。
雲一つない快晴の青空をぼうっと眺め、足を組んで手は腹の上。自らの街頭人支給コートを枕代わりに、昼食後の眠気に誘われつつ暢気な見張り番をやってのけていた。
この男は、何というか――

「……新人らしい謙虚さっていうのが無いよな」
「必要ですか?」
「要らないさ」

そっちの方がやりやすい。先輩だの何だのって敬語を使われるのは苦手なんだ――
そう言うと、アンルは尚も空を見上げながら笑った。それはそれはご尤もで。

「で、ハルナさんは何だってそんなにソノラに惚れ込んでるんですか」
「……別に惚れてる訳じゃないわ」
「でも、また会いたがっている」

アンルはゆっくり上半身を起こした。
枕にしていたコートを叩きながら視線だけハルナに向ける。

「相手は不定期営業・神出鬼没の隊長さんですよ。立つ鳥後を濁さず――全く、彼の為に残された諺だ」
「良いのよ別に。このまま一生会えなくたって」
「健気な事で」

アンルは立ち上がると、うんと背伸びをした。

「僕はてっきり、シンディアさんか誰かだと」
「何が?」
「ハルナさんの想い人」

言うが早いか、ハルナは勢い良く振り返るとジュース缶をアンルに投げた。

「あ、危ない!というか汚い!」
「避けるな」
「避けますよ。それとも柑橘臭のする僕に追いかけられたいので?」

それはごめんだ。
ハルナは、カランと軽い音を立てながら橙の雫を飛ばす缶を一瞥し、怒ったように顔を背けた。

「私とコイツはただの幼馴染」
「……腐れ縁だ」
「言い直すなっつの」

興味なさ気に呟くシンディアは、柵に寄り掛かりながら首を鳴らす。

「言うなれば、兄弟みたいな関係よ」
「へぇ」
「フィーネ孤児院の同期でね」

その孤児院の名は、蜃気楼に住む者なら誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。
各街に設立された比較的大きな孤児院で、祗庵が資金を提供するその建物は設備も整い、子供達が自立を為すまである程度生活を保障してくれる。

ハルナとシンディアが街頭人に名を連ねるまで生活していたのは、その孤児院の五番街支部である。

「アンルは、五番街育ち?」
「うーん、何とも言えませんねぇ。色んな街を転々としましたから」
「一人でか」
「いや、若い頃は友達と色んなところに行きました」
「……若い頃って…アンタまだ21でしょうが」
「十代過ぎれば立派な年寄りですよ」

アンルは苦笑する「やっぱり体力も無くなりますし」

「色んな所って……中央街もか?」
「行きましたね」
「地獄の中の地獄、八番街は?」
「行きましたよ」
「……まさかとは思うが、蜃気楼の外には」
「出たこともあります」

その言葉に、ハルナとシンディアは思わず顔を見合わせた。

――馬鹿な!そんな事があってたまるか!

「あんたねぇ、八番街ならまだ怪我云々で抜け出せるとして、島の外に出るには正当な理由のもと厳重チェックで祗庵から直々に許しがないと行けないのよ!」
「冗談なら今のうちに言ってくれ」
「……酷い言い様ですね。僕って信用有りませんか?」
「「全く無い」」

重なる声にアンルはがっくり項垂れた。

「そろそろ信用しましょうよ。一応この三人、パーティーなわけですし」
「信用は置いとくとしても、蜃気楼から出たって話は興味があるな」
「置いとく……」
「それはそうね。通交機関が整っている八番街ならまだしも、島の外に出たってなると……」
「残念ながら大した収穫はありませんでしたよ。別に島の外だからと言って何が変わるかといえば、大して変わりませんしね。それも日帰りでしたから」

アンルはつまらなそうに言うと、彼もまた柵に寄り掛かって下を見つめた。
何の変哲も無い塵溜め場。密集するビルの狭間で、大した日光も降り注がない。

こんな所でソノラに始末をつけられた奴には、不幸という哀れみより「呆れ」すら覚えてしまう。

「――何年も前の話ですから、今は分かりませんけど……」

呟く声は、急に強く吹いた風に消された。

目に入る前髪を払いながら、ハルナはアンルを横目で見ると溜息をついた。
何なんだこの青年は。
無法中の無法――死に恋焦がれた狂人達が巣食う八番街に足を踏み入れたどころか、祗庵の認可のもと蜃気楼の外まで出たなんて――……
(初々しさのかけらも無い新人君ね、)
ハルナはシンディアに目配せした。
彼は彼で、アンル・オゼットに疑心の目を向けながらも、訳が分からないと肩を竦める。

「――そんな睨まなくても、僕は何もしませんよ」

アンルは言うが、ハルナはその顔を顰めた。 何が、「何もしない」だ。この間は、ガンダ・ローサをいとも簡単に素早く始末したばかりか、その生臭い赤の液体を身にまとっても動揺の瞳すら見せなかったではないか! この男……もしかしたら、とんでもない曲者かもしれない。

「で。ハルナさん」
「え?あ、何?」
「僕は貴方の話が聞きたい」

アンルはにっこり笑う。

「なぜ貴方が、居るか居ないのか明瞭としない亡霊に意識を奪われているのか。貴方が――いつどこでソノラ・クロノイドに会ったのか」
「おいアンル」
「僕が聞いているのはハルナさんだ」

シンディアの言葉を簡単に払う。

「嫌なら別に良いんです、話さなくても。ただ興味があるだけでしてね」
「……」
「どうでしょう?」

首をかしげながらアンルは問う。
子供の笑い声や、バイクの走る音、人々の声が遠くに聞こえた。
穏やかな午後。
そんな街の一角で、彼女は、ふと溜息をついた。

「気が向いたら、その時話すわ」
「――期待して待ってます」

礼を言うと、アンルはひらりと屋上のコンクリを蹴って柵に乗った。

「暇ですからね。時間つぶしに下の方でも見回ってきます」

行ってらっしゃい、というハルナの返事に微笑み返し、アンル・オゼットは身を翻し、ビルの下へ“落ちて”行った。
シンディアは柵越しにそれを見送ると、「驚いた」と低く呟く。「お前以外にも、あんなに足がイイ奴がいるんだな」

「落下の体重移動もキマってるわ」
「本当に、何者だアイツ」
「……知らないわよ」

不思議だ。
自分の心の領域へ――自分しか居ることの出来ない「部屋」の中に、ずかずか入り込むような事を平気で口にする男である。しかしながらそれは、何故か気分が悪くなかった。ハルナにとってあの青年は不思議だ。存在そのものが既に。

「話すのか」
「何を」
「ソノラの事」
「……気が向いたら、って言ったでしょ」

いつもの覇気が無いハルナの言葉に、シンディアは眉を潜めながらもそうですかと聞き過ごす。
そうして、暫く二人の無言。ああ、こんな平穏な日はまたとない。

ハルナは欠伸一つし、ふと、隣に立つシンディアの肩に触れた。

「どうした?」
「眠いわ。限りなく」
「……お前、見張り番は」
「何かあったら起こしてちょうだい」

言うなり、ハルナはその場に座り込むとシンディアのコートを引っ張った。
お前も座れ、と言わんばかりに容赦ない。

シンディアは溜息一つ、何も言わずに彼女の隣に座り込んでやる。
満足げに、そのままシンディアの肩に頭を預けてハルナは目を瞑った。
時を置かずに聞えるのは、穏やかな寝息。

……動いたら殺されるな。

視界に入る黄金色の髪は、暴れる時を待って暫しの休息に入る。お昼の後のブレイクタイムか。
シンディアは辟易とした顔をしながら、首だけ動かし上を見上げた。

空は快晴。雲ひとつ無い、穏やかな午後だ。



































降りしきる雨は、その場の血を排水溝へ洗い流した。
更には、負傷した彼女の体を重くだるいものに変えていく。

少女の体は痛みに軋み、その体は最早泥と化した裏路地に這い蹲る。

血が足りない、と彼女は思った。
自分の血も、敵の血も。

周囲に転がるガンダ・ローサは皆、言葉無く地に伏せる。
ああ、自分も直にあの物言わぬ流木のように……

ぴくりと指先を引き攣らせる。
もう、地に触れ指先の石を握る力すら残っていないのか。

そんな彼女の掌を、誰かが蹴った。

……馬鹿。瀕死の怪我人に、そんな事をするんじゃない。

睨みあげると、雨が目に入って痛い。
仕方無しに瞼を半分閉じ、目の前に立ちはだかるその人を見る。

見慣れた、灰色の街頭人コート。深く被ったフードのせいで、それが誰だか分からない。

(――シンディア?)

唇だけの動きで発した、か細い声。
しかし期待はいとも簡単に打ち消される。

目の前に立つ男は、腰から長い剣を抜くと、少女の眼前に突き出した。

選べ、と男は言う。その身、我が力を持ってして一思いに奪おうか。

(……ふざけるなっつの)

ぼやけたて頭に響くその言葉に、ハルナは苦笑する。
こんな所で見ず知らずの同業者に殺されて何が嬉しい。

――なら、その目を瞑るな。時を待てば、仲間が来る。

声は脳に直接響くようだった。ハルナは、目を見開いて男を見る。
フードから垣間見たのは、赤い髪。

永劫触れることの出来ぬ透明な雰囲気を持ち、今すぐ雨に溶け消えてしまいそうな彼を、少女は象徴的に知っていた。

「……隊、…ちょ……?」

男は、ハルナを無言で見下ろすと、踵を返す。

同じくして、遠くから誰かの走る音が聞えた。
待って。待って、もう少し。お願いだから、顔を――

「その命、俺の物だ。ハルナ・アカツキ」

だから生きろ。
許可無く死んだら許さない。


その言葉だけは、はっきりと頭に届いた。


地を這いながらも、自分一人、存在を模索するように我武者羅に生きていた少女。
彼女はその日から亡霊の影を追う。


























「――」

珍しい夢に、ハルナは目を覚ました。
ずっとシンディアに肩を預けていたせいで、首の右筋が妙に痛む。

が、起きて体制を変えるのも面倒くさい。
何より、今は騒動が無いのだ。
夜の喧騒に向けて、寝ていられるに越した事は無い。

ハルナはそう理由付けると、もう一度目を瞑る。


(アンル、あんたのせいよ)

変なこと聞くから、変な夢を見てしまうのだ。
憧れの人と夢で会いましたとかそんな夢見ていられる歳じゃないのよ。
そろそろ夢の10代が終わるのよ。

『健気なことで』、アンルの声がリフレインする。

(知ってる、それくらい)

その名の通り、例え幻でも構わないのだ。
少なくとも、それを目指して生きてる自分がいる――
それだけで自分はこれまで地に足をついて生きてこれた。
そして恐らくこれからも。それが、この雑多な街で生きていく唯一の自己確定。
(一生開けない宝箱に、後悔は訪れないから、)

ハルナは、重い瞼を再び閉じる。

もう、良いよ。今日は会えたからもう良いよ。
今度は絶対甘味処に行く夢を見るのだ、そう心に誓って彼女は意識を手放した。












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