雪が降ってきた。 はらり、はらりと、ふわふわした小粒の雪が、ちょこんと頬に触れたから、手袋をしてない両手で拭う。 本日の天気は小雨のち曇りでしょう、なんて言ってたテレビを思い出して、やっぱり折りたたみ傘だけでも持ってくれば良かったと今更後悔しても遅い。 それに、“彼”だって最小限の必需品しか持たずに来るのだろうから、二人で女性用の可愛い小ぶりな折りたたみ傘なんてどう考えても絵にならない。 ちらりと、手首の時計を見る。 時計の針が正しければ、あと1、2数分で、待ち合わせ時間丁度になる。 駅前のモニュメントを目印に待ち合わせをしたのだから、彼が来れば一目で分かる。 きっと律儀な彼の事だ。待ち合わせ時間ぴったりに姿を現すに違いない。 背まで伸びた髪にぽつんぽつんとつく粉雪を、もう一度掃ってみる。 やっぱり、コンビニで傘でも買ってこようかな―― そう思うと同時、不意に目の前に影がさした。 彼が来た。 そう思って、笑顔で顔をあげたのがいけなかった。 「寒そうだね?」 ――静止。 目の前に立つのは。 暖かそうなダウンジャケットに身を包んだ、人懐こそうな笑顔の・・・・・・知らない人。 「待ち合わせ?」 「は、はい。丁度待ち合わせで・・・・・・」 「雪が降ってきてさ。さっきから見てて、寒そうだから」 「いや、でも、あの、全然寒くないので、」 「友達と待ち合わせ?それとも、彼氏待ちかな?」 彼氏、という言葉に口ごもった。 彼氏。 彼氏なのか――はたから見れば、彼氏なんだろう。多分。 いや、早合点するのは気が引ける。 なにせ“彼”は――今まで、一度も、 「・・・・・・もしかして、彼氏にフラれてナンパ待ち?――な訳ないか」 名前も知らぬその人は、親切にも、私の髪についた粉雪をそっと掃って微笑みかけてくる。 「僕も別に、ナンパとかじゃないんだ。友達と待ち合わせしてるんだけど、ちょっと遅れるみたいで――どうかな、待ちぼうけ同士二人、どこか暖かい所に入って時間でも潰、」 潰そうか、とでも言いたかったのだろう。 目の前から、突如、男性の姿が消えた。 いや、性格には、地面に膝を突いて倒れかけていたのだ。 私には、それが、消えたように見えて目を見開いた。 そこに立って居たのは、 「――誰だ、こいつは」 “彼”だった。 黒のロングPコートに身を包み、小脇に閉じたビニール傘を挟んで、片足を半端にあげている――間違い無く、彼だ。 その片足をあげた様子を見て、漸く理解した。 蹴ったのだ。躊躇も無く。 ナンパとも傷の舐めあいとも分からぬ声をかけてきた眼下の男性の膝裏を。 まぁ、要するに、膝カックンの原理である。 「あの・・・・・・狩野くん」 「答えろ。誰だ、こいつは」 「・・・・・・親切な・・・人?」 自分みたいな平凡な人間をナンパする男性がいるとは思えないので、取りあえず雪を掃ってくれた親切な人、という所に思考が落ち着いた。 「親切?この軟派そうな男がか?」 「痛ってぇ・・・・・・」 親切?な人が漸く立ち上がって狩野君を睨む。 「何すんだよ!人が折角、この子を、」 「コイツを?」 「・・・・・・まぁ、なんつーか・・・・・・」 親切(だと思っていた人)の声が、急に小さくなる。 「あー・・・・・・やっぱり男待ちか」 なんて、呟きながら。 膝についた雪を丹念に掃った後、私たちから離れて行った。 「・・・・・・」 「・・・・・・」 残されたのは、沈黙。 「――馬鹿か!」 の後の、叱咤。 「あのね、狩野くん」 「黙れ!!」 「は、はい!」 思わず姿勢を正して彼を見上げる。 駅から走って来たのだろうか、それとも怒鳴った反動だろうか。心なしか、吐き出される白い吐息が荒い気がする。 「梅澤・・・・・・お前、俺が打ったメールを見なかったのか?」 「み、見た!見ました!!」 「なんて書いてあった」 「ま・・・・・・待ち合わせは・・・・・・」 「・・・・・・」 「よ、予定より、その、・・・・・・“10分遅れて来い”、と・・・・・・」 そうなのだ。 よりによって、折角待ち合わせ時間という時刻を決めておきながら、敢えて彼は「10分遅れて駅前に来い」なんでメールを寄越してきたのだ。 「何故、待ち合わせ時間にここにいる」 「あの、ね。ちょっと早めに着いちゃって」 「カフェにでも入っていれば良かった事だ」 「えっと、その・・・・・・」 言い訳ばかりなのが少しずつ心苦しくなって、視線は思わず足元に落ちる。 「ほ、ホントはね。狩野くん、もしかして、寒い中、待ってくれてたら、今日、冬だし、待たせたら寒いかな・・・・・・って・・・・・・」 ごめんなさい!と頭を下げた。 狩野君は、こわい。 同じクラスメイトの男の子だけど、彼が誰かと談笑してるところなんて一回も見た事はない。必要な言葉しか言うことはないし、厳しく古風なお家で育ったから、口調がきついって有名だし。一度部活を見学しに行った時だって、後輩の一年生に大きな声で渇入れてたし。 女の子だって、顔は良いけど性格がね・・・・・・って言って、あんまり近付かないし。 狩野君と知り合って、話すようになってからも、いつまで経っても怒られればビクッと肩が跳ね上がるし。 と、そんな事を考えていたら、狩野君が傘を開いた。 「入れ」 「えっ、でもそれ、狩野くんの、」 「いいから入れ!」 「はい!」 言われるままに、ちょっと大き目のビニール傘にお邪魔すると、彼の手が、私の頭にちょこっと積もった雪を掃った。 ――あ。なんか、違う。 さっきの、親切だったナンパの人に、雪を掃われた時と、全然違う。 言葉に釣り合わないくらい優しくて。 それで、何だか、ドキドキして、顔が赤くなって―― 「あ・・・・・・ありがとう」 「お前は馬鹿か」 感謝の言葉に、馬鹿。 「雪が降ったら何処かに入れ。声をかける人間は全て悪人だと思え。俺の姿が見えるまで、目立たないところに潜んでろ」 「狩野くん、それ忍者・・・・・・」 「返事は」 「はい!」 勢いよく返事をすると、狩野君は腕時計を確認して「待ち合わせ時間だな」と呟いた。 「行くぞ」 「う、うん」 歩き出す狩野君に一歩遅れて、私も歩き出す。 「あの、あのね。狩野くん」 「何だ?」 「えっと。あのね、か、勘違いなら、その、怒っても、良いんだけれど・・・・・・」 「くどい。何かあるんだったら早く言ってしまえ」 「今日って、その・・・・・・デート・・・・・・なの、かな」 切腹する覚悟で聞いてみた。 そうなのだ。 私と狩野君は、確かに今日出かける約束をしていたけれど、所謂“恋人同士”では無いのである。 冬に入って席替えをした時、ちょうど狩野君と、隣の席になって。 運悪く国語の教科書を忘れたときに、一生のお願いだから、と小さな声で「見せてくれないかな」って頼んで(あの時の教室の静まり方は今でも忘れない)。 怒鳴られるかなって覚悟してた折、「ああ」と承諾した狩野君が凄く優しく思えて。 それからちょっとだけ話す様になって。 狩野君の怖い部分も、優しい部分も、少しずつ、少しずつ見えるようになってきて。 好きになってしまっていたのだ。自分でも気付かないうちに。 最近になって、ようやく友達って呼んで良いのかなってちょっと自惚れていたときに、日直同士だった狩野君が、いきなりメールのアドレスを聞いてきて。 アドレスを交換した直後に、今度の日曜日に駅前、とだけ言い残して教室から去って行って。 ――だから、狩野君と私は、付き合っているわけでも何でも無いわけだ。 「あの、ちょっと、馬鹿な質問だったかな、はは」 「・・・・・・」 「えっと・・・・・・えっとね、あの、そうだ、寒いね。寒いのは当たり前か、冬だもんね。何言ってるんだろうね、私」 真っ赤になった顔を見られたくなくて俯いてマフラーに顔を埋めていたら、何を思ったか、狩野君が私に手のひらを差し出した。 ・・・・・・お手? そんな訳無いかとツッコミながら、取りあえず、訳が分からないと顔をあげる。 「・・・・・・寒いんだろう」 「え?」 「冬だから、寒いんだろう。手を出せ、手を」 取りあえず右手をちょこんと乗せてみたら、いきなりグイッと手を握られて、スタスタと歩き出された。 「あ、あの!狩野くん・・・・・・!」 脳内パニックで、握りあっている手のひらは互いに冷たくて、でも、顔はすっごく熱い。 「狩野くん、」 「・・・・・・は・・・・・・」 「き、聞こえない」 「――恋人同士というのは、手を繋ぐものと聞いたが」 こいびとどうし。 恋人同士。 こ、恋人、同士・・・・・・ 「ねぇ、狩野くん」 「何だ」 「私たち、いつから恋人同士になってたのかな」 覚えがない。 いや、私が馬鹿だからとか、人の話をあまり聞かないとか、そういうことは何処かに置いといて。 「アドレスを交換しただろう」 「うん・・・・・・」 「その後、出掛ける約束をした」 「したね」 「・・・・・・」 ――終わり? 流石の私も、その発想は無かった! 「狩野くんって・・・・・・」 「何だ、まだあるのか」 「もしかして、女の子と出掛けるの、初めて?」 「・・・・・・悪いか」 「わ、悪くない!!悪くないよ、全然!た、ただ、何か、格好良いのに、意外だったというか・・・・・・」 はた、と狩野君が立ち止まって此方を見下ろした。 「そういうお前は――」 「うん?」 「・・・・・・華乃は、初めてじゃないのか」 一瞬、時間が止まった気がした。 華乃、って。 いま、狩野君、華乃って。 「!・・・・・・な、何で泣く!」 「か、狩野、くんが・・・・・・なまえ、覚え、て、呼んで、くれて」 「そこで何で泣くんだ!」 「う、うれし、嬉しくて、」 「――そう、か」 「お、男の子とでかける、の、初めてだし、わたしだけ、デートかなって、浮かれてたのかなって、ほんとは、怖くて」 「華乃」 言葉を遮る様に、狩野君は、人通りが多いこの大通りのど真ん中で、私の事を抱きしめて、 「悪かった」 と、一言。 あやすように、背中をポンポン叩きながら、泣きやむまで、コートが汚れるとか人目があるとか気にしないで、抱きしめていてくれた。 「・・・・・・えへへ」 「泣いたと思ったらいきなり笑い出して・・・・・・何なんだお前は」 ある程度落ち着いたら、狩野君は、また私の手を握って、ゆっくりと歩き出した。 歩調を合わせてくれているのだ。それくらい、私だって気が付くことだ。 「あのね、狩野くん」 「今度は何だ」 「さっきね、狩野くんがナンパから助けてくれた時ね、」 王子さまに見えたんだよ。 ――五月蝿い、という言葉と一緒に、狩野くんの耳が赤くなった。 |