「それはもう山の様です」 「何が」 「何が、ではありません」 束ねられた長い銀灰色の髪、くっと指で持ち上げる銀縁眼鏡。 その装いから執事と分かる真黒い服を身に纏い、青年は溜息を付いた 「アレをご覧下さい」 あれを。 そう指差された向こうを見れば、成る程、北方山脈にも負けず劣らず聳え立つ書類の山々。 嗚呼、そうだ、アレはいつの事だったか―― 彼は気だるい脳味噌で(いつもに比べれば)必死に記憶の糸を手繰って行った。 「先週仕事をしたばかりの筈だ」 「もう先週の話です。いつまでそうやってお眠りになるのですか」 「やる気が起きん。寝ても寝ても眠いばかりだ」 そうでしょうね、執事は頷く。「五日も連続不眠で城下の酒屋を回っていれば、それは眠くもなるでしょう」 言葉に、男は寝台の上で愉快に微笑む。 「何だ。いつもより反抗的だな、お前は」 「城下及び東方南方からの苦情を承るのは全て私なのです。いい加減貴方が仕事をして下さらないと、そのうち私が殺されますよ」 その言葉にとうとう主人は声を上げて笑った。「それは良い!お前が民衆に取り囲まれて暴虐を受ける姿、是非遠目に見たいものだよシモン!」 シモンは顔を顰めて、再び盛大な溜息を付く。 「私が死ねば、二度とこの城に執事は現れませんよ」 「何故そう思う」 「長年に渡り貴方のお世話をする者など、気狂いしかおりません」 何気に自分は阿呆だと言っている様なモノだ――しかし青年は真剣だった。 「つまり、私も今日という今日は心底気が狂っているんですよ。アルキデア・コークシス様」 退 な 日 屈 毎 書類の一枚一枚が早くこの部屋から追い出せと目くじらを立てている様に思えて(それは現実に近い幻だったろう)シモンは、ああとうとう自分の頭までおかしくなったと諦め半分に思いながら、目の前で鼻歌を歌い暢気にベッドで寛ぐ絶対君主を見下ろした。 深紅の頭髪は燃える様かと問われればそうも思えず、ああそうだ、血、快楽、狂気、羨ましいまでのその本能に忠実な行動力、それらが滲み出ている様にしか到底思え無い。新調したての筈だった正装は、彼が所構わず遊びまわりこうして寝巻きにも着替えず寝そべる事により既に皺がよってしまっているのだが、それを当の本人が気にする様子は微塵も無い。 「シモン、茶を持って来い」 「直にでも――、しかし、宜しければ是非一休みされる前にあの机の前まで行って頂きたいのですが」 髪をかき上げながら眠たそうに瞬きをする主人に対し、何故この執事はそこまで仕事を駆り立てるのか。 それもこれも、この機会を逃がしたら何時また主人が城から姿を消すか判ったモンじゃないからである。 「偉そうに、貴様は執事の身でありながら私に命令する気か?」 「滅相も無い。これは城に仕える者としての正式な請願ですよ、アルキデア様」 「公務を請願か。ご苦労な事だな」 「公務を請願されなければ処理して下さらない貴方に責任があるのです」 シモンは机の上を指差した。 「あの半数が、城下からの歎願状。更に半数が、東方と南方からの報告書です。つまり。そろそろ仕事をして下さらないと、城下の民衆及びセルシュ・デ・ガーディア様及びソルディス・ジェノファリス様の計三勢力から我が北方が怒りの総攻撃を受けるのですよ」 「民衆など蹴散らせば良い」 「成る程。では、セルシュ様とソルディス様はどうします」 「“北方に便りを出すのと異界に便りを出すのは同じだ”、以前会食で言われたな」 「……諦められているんですね」 よろしい、 シモンは眼鏡の縁を押し掛け直して言葉を続けた。 「そこまで仰るなら、仮に民衆が暴動革命を起したとしても私は他国へ逃亡させて頂きますよ」 「ほう、暴動か」 「無きにしも非ず――それは貴方様が一番ご存知な筈でしょうに」 言葉に、アルキデアは眠たそうな目を興味深そうに細めると、ベッドの上に寝転んだままシモンの方へ体を向けた。 「面白い。領主への氾濫が、再び起こるか。この北方の地に」 「笑い事ではありませんよアルキデア様。そろそろ正妻でも娶って下さい、いつまでも放蕩している訳にもいきませんでしょう」 「婚姻?笑わせるな、この世の中にそれ以上の束縛があるものか」 「判りませんよ。ご婦人を大事にお囲いになるのも良い物かと」 「何故」 「ジェノファリス様を見れば嫌でもそう思ってしまいますよ」 シモンはふっと目を細めた。 「あの御方が、人間の姫君を娶りなさった。てっきり、即日彼女は骨になるかと考えておりました――ところがどうです。殺すどころかピンピンしてる、いや、話によればそれはもう問題も無く領主夫妻は仲良くやってらっしゃると言うではありませんか。あのジェノファリス様がですよ。女性を、しかも、人間を」 「それは私にも腑に落ちん。人間の姫なんぞを娶ってから、アイツはめっきり付き合いが悪くなった。あんな小娘さっさと握りつぶせば良いもの、奇妙も奇妙な話だよ」 「余程互いの人となりでも合ってらっしゃったのでしょうか」 「有り得ん。ソルディスの好みは、死んだアイツの母君だ」 「では、愛があるのでしょう。少々幼い姫君だと聞いておりますが、互いに慕う想いがお有りなのでしょうね」 「成る程、パン滓程度の説得力はあるな。しかし、だ。私の身においては、パン滓どころか微塵もその可能性は到底考えられんのだ、シモン」 アルキデアは唇をなぞりながら、「生来命を賭してまで大事に想い、墓までその想いを抱き続ける最愛の者等、他でも無い私自身だ。他人にかける愛情など、勿体無くてやってられん」 何という自己愛、何という自分本位。しかし彼の本音は結局の所そこに収まる。 「他人の為の自己犠牲は御免ですか」 「当然だ」 「しかし、ご婦人方を疎ましいとお思いではありませんでしょう」 「あいつ等は、自分に得がある男だと思えば香油の匂いを撒き散らしながら寄ってきて、用が無いと分かれば真っ赤な紅の合間から口汚く罵り出す。実に正直な生物だよ、女というものは」 「それは恐ろしい」 「いいや、其処が面白い。嗚呼、そうだ、以前私を領主だと知り声を掛けて来た遠方の女が居た――実に清楚、実に見目形麗しい令嬢だった」 「初耳ですね」 「言っていないからな」 勝手に城下で口説かないで下さいよ、 顔を顰めるシモンを無視してアルキデアは笑う。 「あの純粋無垢な瞳で私を見つめ、控え目ながらも好意の言葉を口に出し始めたその時、私は己の“身分”をばらしたのだが――その時の、瞳の色の変貌と言ったら無い!あれには北方山脈の雨雲の移り変わりより驚かされた。突如席を立ったかと思えば外に待たせてあった馬車に乗り込みどこぞへ立ち去ってしまったのだよ」 「――お教えになったので?」 平生取り立てて感情の起伏を見せぬシモンが、しかしながら多少驚いた様に目を見開く。 「出会ったばかりの、令嬢に」 「そうだ」 「貴方の、ご経歴を」 「その通り」 「――貴方が貴族の血筋では無いと言う事実を、ですか」 「城下の者ならば誰もが知っている事だ。今更隠す事もあるまい」 (嗚呼、折角の縁談の機会を、) 勝手に婦人のお相手をするのも考え物だが、自ら縁談を破綻させるのも考えものだ。 シモンは頭痛を覚えながら言葉を続けた。 「今度ご婦人のお相手をなさる時は、是非、ヒーデンから――城下街から貴族のご令嬢をお選びになって下さいね」 「だから、縁談など意欲が湧かん」 「恐らく山になってる書類の間に、縁談のお手紙も挟まっていると思いますよ。宜しかったら、仕事ついでにお読みになって下さい。何事もやってみなければわからないと言うのは、日々の貴方様の格言ではありませんか。アルキデア・コークシス様」 言葉に、珍しくアルキデアは言葉を途切り、飄々とした態度の執事を見上げる。 シモンは、言いたい事は言ったあとは貴方があの仕事を終えるのを待つばかりだと言わんばかりの視線を主人へ投げかけると踵を返し、つかつかと扉の元まで下がって、 「失礼致します」 言葉一つ残し、足音少なく去って行く。 おい、貴様、茶はどうした、茶を持って来い茶を。持ってこなければ殺すからな、良いか、15分で持ってくるのだ。少しでも遅れたらそれはそれは楽しい拷問を与えてやる。聞えているのかシモン、茶はしっかり暖めるのだぞ。温かったら貴様の体を炙ってやるからな、いいかシモン、覚悟しておくのだ! 横暴且つ身勝手に満ち溢れた背中に言葉を叩きつけられながらも、彼は平然と廊下を歩み進めて行く。 嗚呼、判りました茶ですね茶。これでやっと主人は仕事をしてくれる、そう思えば茶の一つや二つ構うものか。 それにしても、あの変人かつ類稀なる才能を備えた主人の事だ。 どうせまた日も暮れぬうちにあの山の様な書類を全て捌いて夜には再び城下へ遊びまわりに下りるのだろう、何だかんだ言って、あの人は民衆に人気があるから、下りたら下りたで街は賑わうに決まっている、楽しいに決まっている、だったら、どうせならさっさと仕事を片付けてしまえば良いものを、無駄に仕事の滞納ばかりを繰り返して―― (やっぱり、奥方が必要だなぁ) シモンは思った。 あの偏屈で気まぐれで放蕩ばかり繰り返し城の一つも顧みぬ恐怖の主人の伴侶として付き添ってくれるご婦人なんて居るのだろうか、嗚呼、詰る所、貴族じゃなくても良い、農民でも商人でも、最悪魔族でなくとも人間でも誰でも良いからあのアルキデア・コークシスを縛り付ける力量を持った女性が現れてくれないものだろうか。 そんな、永劫不可能に近い空想を抱きながら、実の所、城の中で誰よりも偉大なる執事シモンは今日も北方彼方の城の中、偉大なる主人の為に溜息一つ漏らすのだった。 |