甘い香りがした。
嗅いだ事の無い、ちょっと強い、けれど、気が抜けるような、体に染みこむ甘酸っぱい香り。
鼻を掠めたその芳香に、ティナは、セルゲイを見上げ、首を傾げた。

「これは――」
「清めの香です」

ティナの小さな手首を、きゅっと柔く握る。「このお店はね。華やかな社交場に疲れた貴族の者が、度々訪れるのにうってつけなのです。肩の力を抜かなければ、仕事に身が入るはずもありませんから」

そのまま、店の奥へ足を進めた。

まだ外は明るいのに、薄暗い店内は、ほの暗い灯篭に照らされており、甘い香りと共に外界とは隔絶した感覚をティナに与える。
窓際の人影が、笑っていた。店の奥に座る、化粧の濃い老婆が、にんまりと唇を歪ませていた。
姫君を、領主夫人として見つめる者がここには居ない――彼女は、直感でそれを感じた。

「女将、上の部屋は?」
「開いているよ」

老婆が低い声で笑いながら答えた。
有難う、軽く礼を言いながら、ティナの背を押す。

「あ、あの、」
「上の階は、街を見下ろせる、日当たりの良い開放的な部屋があります。上物の砂糖菓子や、香や、玉飾り――姫君の好まれる、素敵な物がご用意されていると思いますよ」

にっこりと、悪意の無い笑顔に、ティナは、一息間を置いて、ぎこちなくゆっくり頷いた。
香が強くなり、くらりと、頭がぼんやりする。
馬車に酔ったの、きっとそうだ、思って、ティナは一歩一歩薄暗く狭い階段を上り進めた。

「以前は、領主様もこの店を懇意にしていらっしゃった」
「え?」
「とは言え、足をお運びにはならず、下男が変わりにやってくるだけでしたがね」

話の内容が、整理できない。その不自然さに、香の所為か頭もよく廻らず、ティナは、はぁ、と気が抜けた返事をした。
やがて、木の扉が二人を迎える。
向こうからは、人の笑い声がした。
おや、先客がいらっしゃる、と。わざとらしいセルゲイの言葉。

ティナの代わりにノブを回し、彼女の背中を軽くトン、と押して部屋に入れた。


「遅かったじゃない」

待ちわびたような声色。
姫君は、ぱちくり。言葉も発せず、まばたきをした。
日当たりの良い部屋は?
上物の砂糖菓子に、香に、玉飾り、――素敵な空間――……は?

目に入るは、派手な色の天蓋がついた大きなベッドに、カーテンに閉ざされた木枠の窓と、壁についた古い燭台。
部屋の四隅に、焚かれた、鼻を突く強い香。ベッドの上には、笑い声の主である二人の女性。絡み合う様にじゃれあいながら、シーツの乱れたベッドの上で、こちらを見つけ、にっこり微笑む。

「セルゲイが失敗したと思っちゃった」
「僕は そんなに馬鹿じゃないよエヴァ」
「退屈で、セリナと二人、死にそうだったわ」

薄く、体の透けるような寝巻きから出た肩は、白く、熟れた果実のような唇を舐めて、エヴァはティナに目を細めた。

「はじめまして――領主夫人?」

くすくす、と、からかうような声。
唖然としているティナは、体を固まらせたまま、あ……、と、咽喉に張り付く声を絞り出した。

「緊張しているみたいだね、お姫様」
「――!」

やんわりと、だが突如大きな手にふさがれたティナの唇。
手早く、スカーフでふんわり声を縛りつけられ、不意に体を抱き上げられた。

「うわ、軽い。子供みたいだ」
「だから、エヴァと、お子様みたいだって言ってたのよ。ちっこくて、童顔で、体も貧相で?」

ぼすんと、軽々ベッドに投げ込まれる。

口に巻かれたスカーフを外そうとした細い手首を、きゅうと二人につかまれる。

「はじめまして。私はエヴァ。こっちは、セリナ」
「――」
「ああ、震えてる。ふふ、ねぇ、何か、可愛く見えてきちゃった」

エヴァは唇を舐めながら、ティナの首筋を、つ、と触った。

「……っ!――ん…!」
「あらヤダ、敏感」

悪戯好きの娼婦が、笑った。

「セルゲイ、侍女の足止めをしていて頂戴。ワタシこの可愛いお姫様と遊んでるわ」
「物好きだな、エヴァは」
「あら、好奇心旺盛と言って?」

エヴァは、ティナの額に、優しくキスをした。
セルゲイが扉を閉め、階段を下りていく音を聞きながら、ティナは、怯えて体を捩らせる。

「ティナ・ジェノファリス。領主様の、正妻ね。あ、セリナ、お姫様の手縛って」
「はぁい」
「人質としてト・ノドロに来て何ヶ月?人間に会うのは久しぶり。……違うわセリナ、もっと弱く、何度も巻くの、そう……嗚呼、でも、貴方はもう人間の匂いが薄いのね」

ふふっと笑って、「ソルディス様に、可愛がられている、証拠」耳元で囁いて、そのまま首筋に口付けをした。

「っ……」
「ねぇ、知ってる?お姫様。貴方の前にも、この東方に人間が来た事を。……あら、固まっちゃった!知ってるの、知らないの、どっちなの。ああ、でも今はそんなのどっちでも良い。でもね、これは知っているかしら。――その人間が、ぐっちゃぐちゃに壊れちゃったコト!」
「エヴァ。ほら、お姫様が泣きそうよ」
「感じてるのよ。ね、そうでしょ?――その人間……少し昔の事だけど、ワタシ、見たことあるの。そこの窓から、じっと見てた。貴方みたいに馬車を降りて。儚くて、細くて、きゅって握ったら、折れちゃいそうで、人質として売られたも同然、哀れな哀れな人間の女。それで、長い髪がね、美しかった。光に透き通るような、細い、柔い髪で、」

寸時。

「“黒真珠のあの方”とは正反対」

苦しさと恐怖が、同時にティナを襲った。
咽喉に、エヴァの、指がかかっている。

「人間が来たから、きっとあの城は壊れたのよ。皆、全て狂っちゃったの。あの時、きっと」
「エヴァ、怖がらせちゃダメよ」
「この子、何も知らないのね。ふぅん、そっか。そうね。だから、そうやってノコノコ街に下りて来れるの。領主様の傍を離れて、一人で街を歩けるの」

エヴァは、怯えるティナの眼を覗き込んだ。
まじまじと見つめて、ふふ、頬をつぅっと撫ぜる。

「真っ赤なお眼目ね……かわいい」

紅の唇で、瞼に接吻。
速まる鼓動を確かめるよう、胸元に掌を当て、

「すっごい音。怖がってるのね。見ず知らずの女に、縛られて、ある事ない事ワケ分かんないこと喋られて」
「……っ…ん…っ、ふ……、」
「緊張しなくても良いのに。ねぇ?」

鎖骨を舐められる。

「あのね、ワタシ、賭けをしてるの。心の中で」
「?」
「貴方が、いつ領主様に殺されるか」
「……!」

驚くティナの不意を打ち、スカーフの上から、口付けをする。伝わる温い体温。
エヴァの、鮮やかな口紅が、淡い水色のスカーフに掠れて移る。
緊張と、戸惑いに、顔を染めて息を乱すティナを見下ろしながらエヴァは髪をかき上げた。

これでも私、五百年はこの街に生きてるのよ。貴方には分からないでしょう、この気持ち。生まれて二十も経ってない、赤ん坊みたいな、お姫様――ねぇ、

「またト・ノドロが狂ったら。きっと、貴方の所為なんだから」

弧を描く唇が、低い声で呟いた。
――だから、分からせてあげる。魔族を甘く見てると、どうなるか――
ティナの服に手がかけられる。

“人間が来てから、おかしくなったの”
“いつか貴方も殺されて”
“いつかト・ノドロが狂ったら”
――全て、貴方の所為なんだから。
貴方の、貴方の、貴方の――!


(私の)、



「そこまでだ」


あざ笑っていたその声が、止まった。

切先は咽喉元。
低く、淡々と、明確な殺意を込めて。
声は、ティナの耳に聞き慣れたもの。
――グロチウス。
人型を成した彼が居た。エヴァの肌に触れた冷たい剣先、セリナへ翳された指の向こう、歪む空間。
己が主人に等しく絶対零度の視線が二人を射る。

「ティナ・ジェノファリス様に対する、無礼な行為」

唇が、動いた。

「その償いは、死をもって」

(……グロチウスっ!)
口が不自由なティナの眼が見開かれ、エヴァとセリナの額に汗が滲んだ、その瞬間に彼の剣が――

止まった。

「何故」

彼の視線は、その“気”を放つ、扉口へ。

「何故、お許しに」

「“お許し”じゃ無い」


耳に触れた、声に、横たわったままのティナは首を反らして焦点を合わせた。
は、と息を呑み、安堵と、複雑な不安が胸に落ちる。

「……領、主……様……」

掠れた声で、エヴァ。

「この娼館も、廃れたな」

領主は、顔色一つ、声色一つ変えぬまま、言った。

「あの男が抱え込んでいた時は、もっと活気があったが。愚かな女ばかりが増えたか」
「……、……ぁ……」
「“エヴァ”・“セリア”」

壁にかかる札を読み上げる。

「エヴァに、セリア。別号か?本名か?さて、どうする、ティナ……――お前の眼前で、首を切るか?ああ、それとも、指を切り落とすか。一本ずつ、小指から、爪を剥がし、叫び声を聞きながら」
「!――んっ!んんっ!んむーっ!」
「そうか、お前は口を盗まれていた」

グロチウスは、剣を腰にすっと収め、ティナの口からスカーフを外した。

「……ぷは…っ………はぁ、…待っ…て、ソル、」
「どれにする?馬車も、女二人くらい引きずる力は持っているが」
「……はぁ…っ…あ、の!…コ、レは、……、!……私、が、悪くって」
「そうだな。俺から離れたお前が、悪い」

ソルディスはベッドの傍へ歩み寄った。
固まって、息をするのもままならないエヴァとセリナに眼をやり、グロチウスにそっと耳打つ。
その黒の従者は、彼女ら二人の腕を強く掴み上げて、部屋の外へ追い出す。
腕を縛られベッドへ倒れたままの姫君は、焦った。

「ちょ、ちょっと待って!あの、二人、殺したりしないで!…ねぇ!」
「不自由な身に、身勝手な発言。救いようが無い」
「私が、貴族の人に騙されて」
「あれがシャウツガロ一族だと?笑わせるな。あんな男見覚えも無ければ、そもそも貴族ですらない。ルークとガーネットくらいしか城下の顔見知りが居ないお前が、よくも簡単に信じたものだ」

正妻が、聞いて呆れる。

立て続けに言われて、ティナは完全に押し黙った。
彼は、ト・ノドロの危険を知っていて、それでも自分の我侭を聞いて連れてきてくれたのに。
いつ非難と被害を浴びるかも分からぬティナを街に出し、如何に気を張って彼女を見守ろうとしていたか、それに気づかなかったのはティナだった。優しくしろだの何だのと、不満ばかりを募らせて、文句を言いって、勝手に傍を離れた。土地勘も無いままさ迷い歩き、見知らぬ男に着いて行って――
その結果が、コレ。

「ごめんなさい」、呟きが、ソルディスの耳に届いた。

ごめんなさい、ソル、ごめんなさい。
縛られた両腕に、顔を隠して、続ける。

ごめんなさい。何も知らないのに、我侭言って、文句ばかり言って、言うことも聞かないで。
許して、(そんなのは、都合がいい話だ)、お願い、
もっと、ちゃんと、怒っていいから、

ふ、と。
笑い声か、ため息か、耳に入った。
ティナの、縛られた手首を掴んで、己が力でベッドに縫いつけ、滲んだ緋色を覗き込んで、二人きりの閨で彼は問う。

「何を、言っていた」
「……え、」
「あの娼婦は、何をお前に吹き込んだと聞いている」
「――」

ティナの咽喉が、息を呑む。

「……私が、ソルのこと」
「俺の事を?」
「ソルの事を、……東方を、おかしくさせる、って」
「どういう風に」
「――わからない。わからないけど……ソルが」
「俺が?」
「ソル、が、……」

そこで言葉を止めて、視線を逸らした彼女に苛立ち、ソルディスは彼女の顎に手をかけて無理矢理その瞳を覗き込んだ。

「言え」
「……」
「言わなくても良いが、あの娼婦の血を」
「――……っ…あ、…待って、」

ティナは、すぅ、と深呼吸をした。
いわれた事に、傷ついた訳ではない。違う、怖いのは、其処じゃなくて、ソルディスの過去に再び触れること。彼の傷口を爪で引っ掻いて、膿を、

「ソルディス……が、」
「……」

ティナは怖くて目を瞑った。
本当に怖いのは、傷跡の痛みじゃない。
私が、あの女性の記憶を、ソルの中に、――

「……私の、…前の……ヒト」
「――」
「――エリザ・クリスティーンが、街に来たとき」

ソルディスの動きが、少しだけ、止まった。
顔を逸らしたまま、勢いでティナは紡ぐ。

「あの人達、見たことがあったの。エリザさん、……かわいそうで、哀れだった、人間だったって。髪が、私みたいな、ブロンドで」

痛みが走った。
ソルディスの指が、ティナの髪先を一束、絡め、腹立たしげに緩く引く。

「そ、れで、その人は……“黒真珠のヒトと、正反対”で」

舌打ち。

「いつか、私は、ソルディスの事も、お城も東方も全部、狂わせて」
「――」
「それで、いつか、……いつか……」

(嗚呼、)

「殺される」

ティナは、脱力した。
自白をした、囚人の様に。強張っていた体の力を、ベッドの受け止めに預け、呼吸を整える。

「お願い」
「何を」
「お願い、私の事――殺しても良いから」

殺しても良い。

「――嫌われるのが、怖い」

痛みと体温を、同時に感じた。
手首を、一層強く押さえつけられながら、深く、口付け。
優しさは無く、けれども、乱暴さも無く、強引に、ティナの口内はソルディスに支配されて、いつの間にかブロンドを解放した腕は、彼女の細い腰から背に回されて、ティナは頭が、真っ白になった。
「――…っ…ふ…っ」

僅かに開いた隙間から呼吸をするも、再び、貪る様に、彼女の口内は犯される。
つぅ、と銀糸を引いて解放を許されたのは暫くしてからであって、その時のティナの瞳には、生理的な涙。
熱る体に、桃色の頬は、扇情的で、ソルディスは零度の瞳で彼女を見下ろす。

「今、殺してやろうか?」
「……、」
「ここで、――お前を」

首筋を伝う唇、背をなぞる指先に、ティナは跳ねた。

「あ、っ……、ダメ、――ぁ、」
「“俺になら殺されても良い”」
「――」
「なかなか、上出来な台詞だ」

ティナ、この香を知っているか?
娼婦が、男を誘う香だ。娼館では一層強く焚いて、男を弄ぶ。

「お前みたいにな」
「ソル、っ……」
「言う事を聞かず、独断で街を彷徨い、見知らぬ男の誘いに乗って、あの売女らに弄ばせた――お仕置きには、十分な、理由だ」

ティナは、瞬時目をぱちくりされた後、顔をかぁっと赤らめて、もがいた。

「何、言って…っ!下で、グロチウスやリィネ達が待ってて、」
「空気も読めない下男下女を、城に置いている覚えは無い。そもそも、俺の領土だ。何をしようが、文句をつける奴もいない」
「お、横暴!って、そうじゃなくて……――っあ、っ!」

弱いところに触れられて、ティナは目をきゅっと瞑った。

「ああ、お前は――ここが好きだったな」

内腿を、そっと、もどかしい程の弱さで、なぞられ。
声を抑える事に必死なティナを見て、ソルディスは満足そうに笑った。

途端に外される手枷。

(あ、……)

解放された体に、ティナは、くったりとしながら、何とか体を起こす。

「ソル……、」
「お仕置きだ、と言ったが?夜まで、一人酔った体を我慢させておく事だな」
「!」

とうとうティナは、ばっと、あらわになった足をドレスで隠しながら、明らかに熱る体を抱きしめて俯いて、うぅっと唸った。哀れ姫君、何度も彼の好きにされてきた体は、続きを求めずには居られないに決まっているのに。

「降りるぞ。下で、馬車が待機している。日が落ちる前に全て済ませる」
「全て、って……えっと、あの、拷問!?」
「あれは戯言だ。お前の非に免じて、軽い罰で赦してやるが?」

彼にとって「軽い」の度合いがどの程度か、ティナにはさっぱりだけれども。

「じゃあ、済ませるって」
「喋る暇があるなら、起きろ」
「きゃあっ!」

いきなり抱きかかえられたティナは、驚くけれど、優しく、慣れた、彼の体に自分を預ける。
火照った体は、あまりまともに動かせない。

「香にあてられたな。酔っている」
「だって……甘くて、良い匂いで」
「そうか。気に入ったなら、取り寄せて焚いてやる。毎晩、閨でな」

からかわれながら階段を降りて、ティナはふぅっと息をついた。

下では、その「罰」とやらの為か、客も働き手も一人もおらず、深々と頭を下げ、領主夫妻を待ち受ける下男下女。
馬車の傍には、地に足をついて主に許しを請う、若手の侍女等。
『だって、勝手に離れた私を、慌てて追いかけてきてくれたのよ!』
一言言えば、領主は赦すに決まっているのだが、彼女等にとってソルディス・ジェノファリスの恐怖は非常に大きい。
馬車の前で、ティナはそっとソルディスの腕から地へと立つ。
扉口に立っていたグロチウスに気づいたティナは、ぎゅうっとその体に抱きついて、お礼を言う。

「助けてくれて、ありがとうっ」
「わ、…私は、主の命で貴方方の、後を」
「付いて来てくれていたのね?気づかなかった――ありがとう、グロっち」


了解致しました、姫君。
ですから、そろそろ放してくださらないと……私は命が、ありません。




瞳の暗さは、彼よりも、主の方が一層深い。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


「帰るの?」
「帰る前に、一つ、寄る場がある」
「どこ?あ、前に言った、甘味処かしら」

馬車に二人。

窓口越しに外を見つめるティナは、すっかり香の酔いも冷めてきて、元気を取り戻した。
呆れるのは領主様。嗚呼、いっそここで嬲ってやろうかと、本気で思っている様なお瞳で正妻を見つめなさる。

ティナのブロンドに指を絡めて遊ぶ彼。ティナは体を其方に向ける。

「ね、ソル」
「何だ」
「怒らないで、一つだけ、聞いて良い?」
「感情の起伏を指図するな。だが聞いてやる。何だ」
「“黒真珠”って、ソルディスの事?」

……沈黙。

「聞いてどうする」
「ソルディスの事だったら、素敵な例え名だけれども」
「――」 
「その、他の、女性とかだったら……ソル、私の髪の色、あまり」

好きじゃないのかなって。

娼婦の話を鵜呑みにするとすれば。ティナの中で、また一人、彼に関わる、見たことの無い女性が増えたことになる。それは、あまり意識はしたくないけれども、やっぱり気になる。だって、俯いてしまった彼女は、まだまだ幼い、領主様に想いを寄せる恋する乙女だから。

「“黒真珠”」
「……」
「そう、呼ばれていた。――……母上は」

(――え?)

ぱっと顔を上げたとき、ソルディスの腕はティナの肩に強引に回されて、口付け。
深い意味を聞く余裕も与えぬ様に。優しく。
きゅうっと外套を握り締める、小さな手に目を細める。
ティナの睫毛が、ソルディスの頬を擽る。

お前の髪は、明るい。
だって、ブロンドだもの――
そうか。
……嫌いなの、
さぁな。
じゃあ、好き?
――知るか。
だって、……エリザさんも、アリシアさんも、髪の色、一緒、


「――っ…ん…!ふ、…ぁ」
「この髪を望んで、お前を娶ったなら」

一旦深い口付けの後に、そう言って解放したのと、馬車が止まったのは同時だった。

「出会い頭に首を落として、その全てを毟り取って、飾っている」
きょとんとするティナ。

馬車の扉が開けられ、呆気にとられたまま、ティナは外の空気を再び吸った。
車が止められたのは、年季が入った一つの店前。

目に入った光景に、ティナは思わずその店に走り寄った。

店先に、並べられた、細工品の数々。
光玉が散りばめられた物もあれば、シンプルな、けれどもけして宝石に見劣りしない輝きを持つ、銀細工、金細工。色や模様の入った綺麗な石が、パズルのように埋め込まれた腕飾りに、首飾り――

「ソルディス、見て、これ……すごい……っ」
「飽きるほど見た。つい最近な」
「え?」

ティナの背をトンと押し。二人、薄暗い店内に入る。

古びた造りの店内には、所狭しと並べられた細工品、壁に飾ら下げられた工具、奥のほうからは、鋼を打つ音や、削る音。
店の入り口に座っていた少年は、跳ねたように立って、深々とお辞儀をした。

「ようこそ領主夫妻様――……父さん!爺ちゃん!領主様がお見えになったよ!」
「おお、おお」

奥から、額の汗をぬぐいながら、二人の男が顔を出す。
照れくさそうに笑いながら頭を下げる、カステルくらいの歳の男性と。
その横で、丸眼鏡をかけ、口ひげを蓄えた白髪の老人。

スカートの裾を持ち上げ、ちょこんと礼をするティナを見て、老人は目を細めにっこり微笑んだ。

「それでは、此方が」
「ティナだ」
「初めまして。あの……ええっと」
「ロッツェル・ジェンフィ。ジェンフィ工房の、年寄り細工師で御座いまして」

ふと、ティナの手元を見つめる。

「僭越ながら。ご夫妻の、指輪を手掛けさせて頂いた老い耄れで御座います」

謙遜するな、と親しげにソルディスはロッツェルと話す。
ティナは、暫し呆然として……えぇ!?と、ソルディスの背中を見つめた。
(この指輪を作ってくれた人の、お店!)
小指をまじまじと見つめる。

話す二人の陰で、ちょこんと此方を見つめる少年に気づき、ティナはにっこり挨拶した。

「ロッツェルさんの、お孫さん?」
「そうです」
「このお店、本当に、素敵……この指輪も、毎日、私、眺めては、幸せな気分になって……」
「爺ちゃん――あ、そ、祖父は、代々、領主様一族のご装飾品を、つくらせて頂いていて、」

照れくさそうに、少年は笑った。

「でも、ここ何百年、領主様とニル様のみのご注文だったもので。ソルディス様から、あの、ご婦人用の、装飾品を、作るよう伺った時は――祖父は、それはもう、嬉しそうに、すごい張り切って」

思わず、「え?」と聞き返す。

「私の指輪が、初めて……」
「はい」
「他の女性に向けて、その……あの……何というか……た、とえば、前の」
「?」
「前の、お嫁さん、とか」

少年は首を傾げた。

「あの、失礼ですけれども」きょとんとした瞳で「ティナ様って……」

「こら、コッツ!」

父親の声に、ひ、と少年は体を強張らせた。

「領主夫人ともあろう方と、気軽に喋ってるんじゃないぞ、全く。道具でも磨きなさい」
「ティナ様、も、申し訳御座いませんでした!」

少年はティナの引き止めにも気づかず、工房の奥へ入っていった。

ティナは、はてなと首を捻りながら、売り場に並べられた細工を目に移し、でも、やっぱり思考は、少年の言葉に――

(私が、初めて……)

そこまで考えて、足を止めた。

「わ、……これ……」

小さな呟きに、ソルディスとロッツェルが話を止めてティナの方を見やる。
可愛らしい花をモチーフにした、少女が身につけるような、ブレスレット。
その花は、見間違えるはずも無い。

「月下零――」
「仰るとおりで」

ロッツェルが頷いた。

「宜しければ、差し上げましょう」
「あ、いえ!私、月下零が大好きで……つい、綺麗って」
「ほほぅ、それはそれは――」
「ティナ。此方へ来い」

呼ばれて、ティナはソルディスの隣へ。

「ロッツェル。先日話をした、」
「ええ、ええ。出来上がっておりますとも――はい、此方でございます」

屈んで、棚の奥から取り出した、小箱。
眼鏡をかけなおしながら、ロッツェルは、「如何いたしましょう」、微笑んだ。

「開けてくれ」
「承知しました」

皺だらけの、けれど、厚い皮の、職人の指が、そっと小箱を開けた。


――目を奪われるティナ。
小ぶりのモチーフがついた、首飾り。
ほんのりと黄色の宝石が埋め込まれた、シンプルだけれども、可愛らしくもあり、上品でもあり、何よりそれは、

「月下零の……首飾り」

如何にも。

ロッツェルは、ティナに、すっと差し出した。

「領主様からの、ご注文を承り、このロッツェル、僭越ながらティナ様の為に手をかけさせて頂きました」これは、貴方様の為に。「どうぞ、お受け取り下さい」

ティナは、隣の、男を見上げた。
合う瞳に、ティナは、思わず、「ソルディス」、その名を呼んで、

「ソル、」
「受け取れと言われているんだ。受け取れ」
「ソル、……」
「仕方の無い奴だ。後ろを、向け」

ソルディスは、細いチェーンの首飾りをそっと手に取り、ティナの首元にそれを回す。
慌ててティナは後髪をかきあげた。白い項で、ソルディスは、留め金をはめ、ふっと笑う。

「馬子にも衣装とは、この事だな」

そう言われた、嫌味も耳に届かない程。
似合いすぎるほどティナに似合い、美しく、何より、こんな――こんな、話。噂にだって、耳に入ってこなかった。

「やっぱり、爺ちゃんは凄いやっ」奥から少年が笑う。「ティナ様の為の、この世界に一つの飾りだ!」
まったく、やんちゃな孫をもったとロッツェルが苦笑する。

「お前の祖父は、大した職人だ」ソルディスが、ティナの項に、口付けを落とす。「――昔から注文以上の物を、作り上げる」

見慣れぬそんな光景に、顔を真っ赤にしたコッツは、とうとう工房の奥へ引っ込んでしまい。
ティナは、頬を赤らめながら、ロッツェルに礼を言う。

ソルディスは、まだ、店内の飾りを見たそうなティナをその場に一旦置き、帰りの支度を下男へ言いつける為に店の外へ出て行った。

「本当に、すごく、素敵――この指輪だって、本当に私、気に入りすぎるくらい気に入って」
「領主様の、ご注文が宜しいんでしょうよ」

ロッツェルが言う。

「まぁ、年寄りの戯言として聞き流して頂ければ宜しいのですが」

ティナに目配せをして、ふざけたように、ロッツェルはコホンと咳。

「指輪を一組頼みたい、とある日直々に申された。それはそれは有難い、それでは創作の参考までに、お贈りするご婦人のイメージをお聞かせ願えますかな、と」
「そう親父が言ったら、すっごい黙りこんでしまって、なぁ」


とぼけた様、ジェンフィ親子は笑って。
ロッツェルは、そのまま、姫君に耳打ちをした。




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「気は済んだか」
「うん。もう、コレだけでも十分過ぎて」

早々に店を出てきたティナの胸元を見て、リィネ等侍女はうっとりとする。
細工の美しさも賞賛すべきものなのだが、何より、ソルディスが、ティナに贈り物を――!
コレでまた一つ、ジェノファリス城の下女等の話は盛り上がる。

「城へ、帰るぞ」

一言で、下男下女は持ち場へ散った。






がたり、ごとり。

窓から見える町並みは、だんだんと灯される火の数も増え。
夕暮れ時の街を見つめながら、ティナはふっと、思慮をめぐらせた。
いつの日か。
いつの日か、あの人もこれを見たのだ。
孤独で、寂しく、儚い、あの、肖像画の人――エリザ・クリスティーン。
彼女にとってこの光景は、一体どう映ったのか。
ソルディスと、二人だったのかな。一緒に、馬車で、街へ降りて――
……分からない。今はまだ、そこまで、聞けない。

初めて、女性へ送る装飾品を作らせたという、あの少年の言葉。
じゃあ、エリザさんは?
ソルにとって、エリザさんは、一体、どういう存在だったの?
貴方の、気を狂わせて。ぐちゃぐちゃに壊したという、その、女性は。
そして今も、街の人から愛を寄せられる、“黒真珠”たる、母上様の存在は。


でもそれは、これ以上考えたってティナの憶測の域を越えられない。
ふっと、視線は窓から外して。薄暗く、二人きりの馬車の中で、ちょっとソルディスに寄り添った。

「何だ」
「ううん、別に」

別に、といいながら、ゆっくり肩に頭を寄せる。

「ありがとう」
「何を」
「首飾り。と、それと、色々」

本当は、守ってくれていて、ずっと心配してくれていて、我侭にも付き合ってくれて、有難う。
それから――

「それから、――……ううん、何でもない」
「一人で笑うな。気味の悪い」
「だって……」


だって、ねぇ。

意味深に、でも、それ以上何も言わないティナに、ソルディスも、面倒になったのか疲れているのか、黙ってティナに肩を貸したまま馬車に揺られた。


「……ロッツェルが」
「ん?ロッツェルさんが?」
「ロッツェルに注文を出した折、1ヶ月はかかると」
「ああ、やっぱり、とても手がかかっているのね」
「1ヶ月も暇は無い、ティナを連れてくるまであと二週間、寝る間も惜しめと言って帰った」
「ちょ!――ちょっと!ソル、それって、乱暴って言うか、横暴って言うか、権力の乱用って言って!」

ロッツェルさん!何にも知らなくてごめんなさいー!

非難するティナの頭を撫ぜながら、「あいつは無理だと言いながら、いつも良い仕事をする。指輪の時もそうだった」鬼畜発言を発しながら、ティナの髪に口付けをした。

「さて、今宵はお仕置きの続きだったか?」

急に、昼間の事を思い出して、ぼっとティナは顔を赤くした。

「お、仕置きって、……ソルっ、だって、今日は疲れて」
「あの香。先程下男へ買わせたばかりだ、思う存分焚いてやろう」

ああ、もう。何も言い訳なんて出来ない。
もはや何も抵抗する術の無く、桃色の頬のティナを見て、ソルディスは嘲笑った。

――でも、彼は一つだけまだ知らない。
ティナが、ロッツェルの耳打ちに、顔をずっと赤らめていた事を。










『一組指輪を頼みたい。女物は、小指にはめる、小さい物を』
『ええ、承知いたしました。それでは、お贈りするご婦人のご印象を、是非伺わせて頂けますかな?』



ソルディスに気づかれぬ様、微笑みながら、ティナは目を瞑った。




『――“川辺に咲いたばかりの、幼く悄らしい月下零”――贈る女は、……俺の、正妻だ』







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