バスケットには、飴菓子の宝石の山。
深めに被った帽子の奥から、輝いた瞳。


ぱっかぱっかと馬よ走れ、
あの城下町に辿り着くまで
私と彼を、連れて行くまで








夢見てた、森を駆け抜けた先に広がるあの世界を。

だから少女は屈託無い満面の笑みを浮かべて、いつもより動きやすく。けれども華やかなドレスを身にまとって、薄化粧をぽぽんぽん。侍女に良い様にされていて、これじゃあ、まるでお人形さんだけれども、そりゃあお付の侍女も気合が入る。

とうとう、とうとう、とうとう、とうとう、ティナ・ジェノファリス様が、城下街ト・ノドロの門をおくぐり抜けなさるのよ!ソルディス様と共に馬車に乗りながら、公務でもなく何でもなく、プライベートで、優雅に、それはもう堂々と!「姫様、最近は体にフィットしたタイプのドレスが流行なんですよ!」、若い侍女は心躍らせティナの髪をいじくりまわす。

城下へおりたい。ト・ノドロの街を見たい。
それは、城中の誰もが知っていた、予てからのティナの望みで、ずっとずっと皆が叶えてやりたいと願っていた事。でもそれを止めていたのは、絶対的権力を持つ領主様なものだから、誰一人、勝手にティナを連れ出す事は実行しようにも出来なかった。

「ソルは、私を、東方魔族の人たちに紹介したくは無いのかな」
思ってみた。でも、理由が見つからない。
「ト・ノドロの街は物騒だとか?」
いいやそんな話は一つも聞かない。
「ただ単に、面倒なだけだとか……」
これが、一番確立が高い。自分の時間を削ってまで、女性を喜ばせるタイプの人じゃあない。
けれど、河原には遊びに連れて行ってくれるものね。


色々事情があるのよ、とはニルの言葉だ。
妻には言えない夫の事情。イコール女の問題だと考えてしまうのは短絡的って言うものだろうか。
そりゃあ、ト・ノドロにだって歓楽街の一つや二つあるのは当然だ。レィセリオスにだってあるくらいだし。ちょっとお忍びで見たいと言ったらカステルに止められたけれど。繁華街に軒を連ねる娼館が、どんなところで、どんなに楽しくて、男の人が何をして遊ぶかくらい、姫君だって知っている。
“あら、領主様の所に嫁いだ女があんな不恰好な人間だなんて!”
飛び交う、娼婦達の笑い声――頭を過ぎるリアルな想像。

楽しそうに化粧を施す侍女に、ティナはぽそりと呟いた。
「ねぇ。私、城下に下りても、ソルディスの隣に居ても、恥ずかしくない様に、綺麗になりたい」





職 権







「――そう、ティナが言ったのか?」
「私の聴覚が正しければね」

朝食後の、まったりとしたほんの一時。
深緋色の茶の中に、白濁を一滴落としてさっと混ぜると、甘さ控えめでちょっとまろやか。ついでに葉の香りも楽しめたりする。
最近はまっているこの飲み方。
自信満々に勧めてみても、弟は一向に試そうとしない。頑固だ頑固。いや、茶を楽しむとか、そういう事に無関心なだけなのか。少しムッとしてしまったから、つい先ほど小耳に挟んだ、新鮮な姫君の話題でもして、ちょっとばかしこいつの心を掻き混ぜてみようか。暇なジェノファリス嬢はそんな事を考えてみる。

「化粧室から出てきた侍女達が、小声でお喋りしてたの。聞こえちゃった」
「ティナは」
「化粧中よ。きっと、人前に出すのが恥ずかしいから、城下に連れ出さなかったって思ってるのね。あんたがいつまで経っても連れて行かないから悪い想像ばかりが膨らんじゃって。あー可哀想」

虐めてみる。
今にも煙管を吸い出しそうなくらい不機嫌面の弟は、何も言わないところを見ると色々思考を巡らしているご様子だ。

「夫として妻にかける言葉は無いわけ?――あら、これ前にも言った気がするわね」
「かけるも何も、俺に非は無い」
「そう言ってる間にもあの子の不安は募るばかり」

一口啜る。
うん、やっぱりこれは美味しい。絶対ティナにも飲ませなきゃ。

「ああ、大通りのあそこの焼き菓子久しぶりに食べたいわね。ティナを寄らせるついでにお遣い頼んじゃおうかしら。それと、裏通りにあるロッツェルの店。あそこの硝子細工も最近見に行ってないわ。彼まだ元気なのかしら?」
「知るか」

あらあら不機嫌だこと、ニルは肩を竦めてカップに口付ける。
ソルディスは、間を置いて「いっそ、会わせたくない愛人が居るとでも吹き込むか」

「アルキデアが喜びそうな展開。全力で反対するわ」
「だろうな。だったら、余計な口出しをするな」
「アドバイスよ。姉として、女として」

ニルは溜息をつく。

「見てて痛いのよ。あの子、あんまり泣かないから」

泣き喚かれた方が、まだマシだ。何が辛くて、何が悲しいのか、それを感じる事が出来るから。
だけれど、ティナは滅多に泣かない。それが、何だか居た堪れない。

「ま、良いわ。今日は仕事の事は考えないで、二人で楽しんできて頂戴」、ニルは席を立つ。
彼女は、食堂を出る間際、弟の自嘲的な笑いを聞いた。

一体、何年ぶりになるだろう。
――今日は記念日。ト・ノドロを、“再び”人間の女が歩く、その、記念日。










わぁ、街!
姫君の歓喜の声が、車輪の音を一瞬掻き消す。
ベビーピンクの鍔広帽を抑えながら、馬車の窓から見えるそれは、ト・ノドロの街並み。ジェノファリス城からも街は見下ろせるけれど、こうして通りを堂々と車で走るのはティナにとって初めてだ。彼女の可愛らしい声を聞いて、それでも眉一つ動かさない領主様にとっては勿論幼少の頃から見慣れた景色である。
うきうきしながらティナがちらりと横を見れば、そんなソルディスの端整な横顔が眼に入った。
今更、て話だけれど。それでも、ああ、やっぱり思わず魅入ってしまう。
始めて見る帽子姿、その下の乱れなく撫で付けられた黒髪。それと同色の瞳に、装飾の少ないシンプルな外套。外出なんて、面倒事。そう言いたげな、物憂げな彼の横顔すら、
(――かっこいい。)
と。
言いたい所を飲み込んで、一人で顔を赤くして、俯いて、帽子を深くかぶりなおす。
口にしたら、きっと呆れて、すっごく深い溜息つかれる。それが、容易に鮮明に想像出来るようになったのは、進歩だろうか。ティナは脇にあるバスケットから甘い飴菓子を一粒とって、口の中に放り込んだ。ああ甘い。さすが献上品の飴菓子は一味違う。これって領主夫人の特権かも。

「ティナ」
「は、はいっ」
「もうじき外を歩く。車を降りても、勝手に一人で歩き回るな。知らない奴について行くな。何かあったら直に叫べ」

緊張して、思わず敬語。
ティナは、子供の様に諭されて、ただただ首を縦に振った。
えっと……。やっぱり、ト・ノドロってすごく危険な所だったの?
ティナは不安になりながら。それでも、すぐににっこり笑う。

「何が可笑しい」
「可笑しいんじゃなくて、嬉しいの。心配してくれてるから」
「忠告しなければならない程お前が幼稚なんだ」

旦那様は、深い溜息。

「ソルは心配しすぎなんだってば!こう見えても、意外としっかりしてるんだから」
「成る程。常日頃足が縺れて廊下で転倒しているお前が、しっかりしていると」
「……もう、ソルの意地悪っ!」

ふい、と気持ちごと窓の方へ顔を投げる。
同時にキィと音を立て、前方に押されるような重さを感じて馬車が止まった。
従者が開ける馬車の扉から、眩しい光が差し込んでくる。その中へ飛び出すようにティナは思わず身を乗り出すが、きゅっと細い腕をソルディスに掴まれた。「落ち着いて行動しろと言っているだろう」

ソルディスが、彼女の手を取りながら、エスコートするように先に外へ降り立つ。
ドキドキと跳ね上がる心を抑えながら、ティナは、手を引かれて眩しい輝きの中へと身を投じた。

ぱあっと目の前に広がったト・ノドロの景色。
その光景に、息を忘れた。瞬きを捨て、足を地に繋ぎ、車から降りたそのまま、暫し風景に固まった。

夢にまで見た城下街は、ティナを包み込んで、そして目の前に輝きを放つ。
がやがやと騒がしい大通り。道へ飛び出す様に飾られた種々の看板、雑多な街並み。人がそこに生きている、息遣いが聞こえる。初めて触れた、魔族の民のありのままの姿を見た。

子供たちは声を上げながら走り回り、民衆は足を止めて馬車から下りたその人たちをじっと見た。久しく見ていなかった、続く黒塗りの大きな馬車。ぞろぞろと降り立つ侍女に下男、その中に花咲くように、ちょこんと降り立つ小さな少女。彼女の手を取るのは、男。闇色の外套にその長身、有無を言わせぬ威圧感。間違える筈もなし。目の前に現れた彼は、

(――領主様だ!)

誰かが声を上げた。人々がざわめいた。何も知らぬ無知な子供たちはぼうっと馬車を見上げて首を傾げ、林檎がいっぱい詰まった籠を下げる婦人は驚きに目を丸くし、2階から身を乗り出した遊女は艶やかな口元に笑みを浮かべながら、ふざけて馬車へ手を差し伸べた。「こちらを見て、ソルディス様ァ!」
けれど、声に反応して、呼ばれてないのに顔を上げたのはティナだった。くりっとした緋色の瞳で、声の先を見上げてみたけど、逆光が目に刺さって思わず帽子の鍔を下げた。

「ソル、呼ばれてる」
「知人だと思うか?」
「違うの?」

本気で勘違いをしている姫君。首を傾げながら、また帽子をちょっと上げてト・ノドロの街を見渡して。不機嫌そうに溜息をつく領主様に気が付かない。

ティナの瞳を掴んで離さないのは、隣にいるソルディスじゃなくて、宝珠宝石の様な砂糖菓子が並べられた甘味処の窓際飾り。星型の木板に一番星と塗られた看板が下がる酒屋。そこからただよってくるワインの香り。パイプを吹かした主人が顔を覗かせる煙草屋に、鉤鼻の老婆がこっそりと消えていった暗い裏路地、街を構成する、それら全て。全てがティナの目に入っては、全てがティナを刺激していくものだから、彼女が冷静でいられるはずがない。

「ソルディス、お菓子!」
「後で買え」
「見たこと無い果物発見!」
「後で見ろ」
「ステキな仕立て屋さんに、ステキな金細工のお店!」
「どうでも良いが、服の裾を踏んでいる事に気付いているか?」

ティナ様、みっともない!侍女が慌ててティナのドレスの裾を掃った。
当の本人は、顔をほんのり赤らめながらも街の眺めに心囚われ、旦那さまの言葉なんて右から左。まったく、説教のしがいも無い。ソルディスは、全然話を聞かないティナを見かねて、彼女の帽子をぎゅうと深く押し込んだ。

「あ、痛いソルディス!何するの!」
「知るか」

何て冷たいお言葉。
ソルディスはそのままティナの手を離して、くるりと彼女に背を向けた。

ねぇ、ソルディス。

ティナが手を伸ばそうとすると同時に、「これはこれは、領主様!」明るい声が彼女を止めた。
無骨な手で前掛けを外しながら深々とお辞儀をし、笑顔で歩み寄ってきたのは初老の男性。
気さくな雰囲気、人良さそうな青の瞳をもった彼は、ソルディスより遠く離れた場で肩膝をついた。

「ご連絡も無しにいらっしゃるとは思いませんで!まったく、何の準備もしておらんでこの様です」

丸めた前掛けを見せて笑った。

「今日は時間を潰しに来ただけだ、ゲルケ」
「それはそれは。本日は天気もよく風も優しい。妖精達も飛び交って囁いている。お忙しいご公務の息抜きにはぴったりでしょう……――はて、そちらのお嬢様は」

いつも見慣れたニルはいない。その代わりと言う様に、ソルディスの後ろにちょこんと立って帽子を押さえる少女が目に留まって、ゲルケは首を傾げた。

「初めまして、ゲルケさん」ティナはドレスの裾をつまみながら、可愛らしく挨拶をする。「ティナ・ジェノファリスです。どうぞよろしく」

ティナ・ジェノファリス――

聞いて、民衆は一気にざわめく。
ゲルケは驚いたように目を丸くし、すぐさま深々と礼をして、再びティナを仰ぎ見た。
驚くのは当然である。人知れず、聖レィセリオスからト・ノドロへ捧げられたというその人は、見目幼くまだあどけなさが残る少女で、帽子の奥に覗く緋の瞳は無垢な色に満ちていて、不安そうに我等が領主の傍らにいる。風に乗った噂に噂が覆いかぶさり、その正体を城下の誰一人として知らなかった女の姿がそこにあった。

民衆の小声は止まらない。止まらないまま、ティナの耳元を擽った。
口元を多い、声色は低く暗く、瞳は不穏の色を顰め、人々はティナを帽子の鍔から靴の先まで凝視した。
(見ろ。あれが、“次の”人間だ!)

――どう考えても、歓迎ムードどころじゃ無い。
鈍感なティナにすら分かる程のこの空気に、盛り上がった彼女の気分も一気に静まる。

「ソ、ソルディス。なんか、私、にらまれてる?」
「“元”であろうと、人間自体珍しい存在だ。警戒しているだけだろう」

目を合わせる事もなくそう言うと、ソルディスはスタスタと歩き出した。
あ、ねぇ、ちょっと!ティナが小走りになりながら非難の声をあげる。婦女子には優しくしろ、なんて訴え、彼にとって無駄な事と知ってはいるのだけれども。「人前でくらい、ちょっとは穏やかに……、あたっ!」

言えば、急に立ち止まる。領主の背中にぶつけた鼻を擦りながら、ティナは顔を上げた。

「こうでもしないとお前は勝手に動き回る。文句を言うな」
「だから、もうちょっと優しく、」
「無いもの強請りばかりだな、お前は」

(無いものって……)
再び向けられた背に、ちょっと寂しさを覚えながらティナは困った。
(嘘。本当は、優しいの知ってる)

ティナと視線を合わせないまま、ソルディスはどこかへ歩いて行こうとするから、ティナは慌て気味に後ろをついていった。そんな二人を、侍女達はハラハラしながら見守るしかない。傍についてやる事は出来るけれど、彼らの些細な口喧嘩に首を突っ込むなんて、そこまで畏れ多い事出来やしない。

民衆から見れば、それこそ実に奇妙な光景だった。多数の召使に取り囲まれて街を歩く、偉大なる領主様。と、おまけのようにその後ろをついて歩く小柄な娘。飼い主と愛玩動物――いや、親鳥と雛の方が似合ってる。初めて目にする領主正妻。衝撃的な領主正妻。元人間。人間というか、子猫か小鳥か。


++++++++++++++++++++++++



「まるで、お子様じゃない」

その感想はある意味正しい。
つぅ、と指先で砂を裂き分けたよう。そんな道を開ける人ごみの中を、我が道と突き進む領主ご一行を天から見下ろす気分。くるりと優雅に巻いた赤茶色の髪の毛を指に絡ませながら、色っぽい唇を舐めて。エヴァは、目を細めて街を眺める。

「背も小さいし、色気も無い」
「失礼よエヴァ!仮にも、領主様の正妻に向かって」
「あんたの顔もにやけてるわよセリナ」

ティナ・ジェノファリス、初の見参。ご機嫌斜めな半分、面白おかしい気持ちもあって、娼館の窓越しにエヴァは微笑む。爪薬が光る指先、ガラス越しの領主に向けると、もの欲しそうに彼の体をそっとなぞった。

折角お顔を拝見できたのに、ソルディス様は女連れ。
手を振りなさいよ、言われたけれど、2階から手を振って、それに答える男じゃない。セリナだって、ほぅら、見事に無視されたじゃない。エヴァは溜息をついて、机上の煙管を取ると唇にはさんだ。同僚のセリナは、窓の外をじっと見ながら「人間人間て皆が騒ぐから、どんなのが来たかと思えば――あれじゃあ、かえって領主様の逆鱗に触れるんじゃあないかしら?」

エヴァは噴出す。

「抱かれたかと思えば、機嫌が変わって?」
「グッチャグチャのドロドロ。生ゴミみたいに、次の日は下男がポイ」
「ベッドの上は血の海で」
「またですかって笑いながら侍女はせっせとお洗濯」
「ティナ・ジェノファリス、空しくも灰と散る!」

まぁ、残念ながらティナ嬢はちゃっかり眼下で生きている。
どこをどういう風が吹いて、領主が彼女の命を助けているかは知らないけれど予想とは大分違う。

「前の、何だっけ……ほらァ、死んだ」
「エリザ。エリザ・クリスティーン」
「あの人間のせいで、領主様は気を病まれたってね。ねぇエヴァ、あの子も領主様に殺されると思う?」
「さぁ。傍目から見てて、そんな手のかかる女に見えないけれど」
「安心したところで、一瞬でバーン!」

ああ、血塗れ!
妄想の中で彼女等は笑った。

「流石の売れっ子エヴァも今日は暇ね。こんな日には客も来ないわ、遊んできなさい」
「遊ぶって、何処で」
「さぁね。領主夫人をからかってきたらどう?」

同僚の笑い話に、エヴァは煙管をぷらぷら上下に揺らしながらちょっと考えた。
流石は売れっ子ナンバーワン、ここ最近忙しくてろくに馬鹿笑いもしていない。たまには、こんな時くらいは、自分もお祭り気分で阿呆な事してバチが当たるはずもない。

「セリナ……あんたいい事言うわね」

エヴァはにんまり笑った。

「私、退屈してたの――この気分、吹き飛ばしてもらおうかしら」
「誰によ」
「あの、可愛い可愛い正妻さん」


だって、ト・ノドロは初めてでしょう?
街案内くらいしてあげなくちゃね。









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