ほんの数メートル先すら未知の世界である事に気が付いたのは、つい先刻であった。
薄白い煙を辺りに蔓延させたかの如く立ち込める白い霧は、辛うじて足元の確認を許すだけで決してひらけた視界を与えてくれるわけではない。

荒れて地肌がむき出しになっていた道も、いつの間にか所々草木の生え伸びるただの草原へと変わっていた。この霧では、いくらグロチウスでも正確な方向へ歩み進むのは困難極まる。多少歩みを狂わせて行くうちに、正規の道を外れてしまったのだろう。致し方ないこととは言え、これには流石の賢い魔獣も滅入ったようだった。
不安げに主を振り向く愛馬に、ソルディスは

「心配するな。万が一迷いでもすれば、スコッチフェルトが飛んでくる」

現状を迷っていないと捉える辺りが流石領主。
言葉を聞き、グロチウスは一鳴すると、歩みを段々と遅め、ついにはその場に立ち止まった。
これ以上進めば、どこの奥地に迷い込むかも分からないといったところだろう。

ソルディスは仕方なしと溜息をつく。

――不意に、胸元で、うつらうつらと眠りに落ちていた姫君がもぞりと動いた。

「……ん…」
「ティナ、霧が深い。これ以上進むのは危険だ。一度ここで休むか」
「うん、」

眼を擦りながらティナはソルディスを見上げた。

「ねぇ、私たち、どこへ向かっているの」
「河原だ。ト・ノドロとレィセリオスの狭間にある、」

ティナは寝惚けながらも、河原と聞いて顔を明るくする。
小さい頃よくカステルに河原へ連れて行って貰った思い出があり、彼女にとって水辺での休息は何物にも変えがたい憩いの一時である。

天気が良い本日、花の咲き乱れて水がせせらぐ美しい川辺を思い浮かべながらティナはもう一度ソルディスの胸に頭を預けた。
――正直、以前よりも、ソルディスの傍に居るのは緊張するし恥ずかしさを伴う。
それでも今はそれらの感情より、眠気の方が強かった。

再び眠りに入ろうとするティナを見、ソルディスは溜息をつく。

木陰で休むぞ、そう言うとソルディスはティナを抱きかかえたままグロチウスから身軽に降りた。近くに生える広葉樹の根元に静かに腰を下ろすと、抱えたままのティナに自身の外套を覆いかけてやり、グロチウスにも腰を下ろして休むよう促した。

グロチウスは身体を伸ばすよう身震いすると、ソルディスの傍に身体を横たえ、甘えるよう彼の足に顎を預けた。ティナが来てからかまってやる時間が減ったな、以前そう洩らしてしていた主へのささやかな当てつけである。拗ねて甘える愛馬の頭を撫でてやりながら胸元に甘えて寝る姫君を見、どいつもこいつも子供ばかりだと彼は諦めたように溜息をつく。




















――空気が変わった。

ソルディスとグロチウスがそれに気が付いたのは、ほぼ同時である。

相変わらず辺りは濃霧が立ち込め、傍には鳥の囀り一つ聞えない。
しかし、周囲を取り巻く“空気”が変化したのは明白であった。ソルディスは辺りを見回す。勿論何も視界に映る筈が無い、しかし、もし魔獣や妖魔の類が近くに来れば本能的に察知は出来る。

グロチウスは起き上がり、身震いのように身体を捻ると、忽ち黒衣をはためかせ人の形へとその身を変えた。長身、漆黒の包衣に身を包んだその姿。魔獣の姿であろうと人の姿をしていようと、聡明な雰囲気と、長髪に隠れる鋭い双眸は変わらない。


「何かが、変です」
「だが、魔獣でも妖魔でもない。異界の者か――だが、」
「それにしては、歪の気配が有りません」

異界とこの世の境に歪が生じれば、それなりに耳障りな亀裂音が立つし、得も言われぬ異様な気配が生じるのが通例である。幾度も異界の輩を薙ぎ払ってきたソルディスがその気配を間違えるはずも無い。明らかにこれは今まで感じた事も無い、其れで居て何とも言えぬ気味悪さを含んだ雰囲気。
突然辺りを取り囲んだ異様な空気に気を張り詰めながらグロチウスは長く伸びた黒髪をかきあげると、今だ深い眠りに落ちている姫君を見下ろした。

「姫は、お疲れで?」
「さぁな。天気が良いと眠くなる、子供と同じだ」

ソルディスは厭きれた様に言いながらティナの頭を撫でた。

「ティナ、起きろ。状況がおかしい」
「ん……」

ティナは彼の声にゆっくり眼を開け、身体を捩った。

「……着いた?」
「いいや、霧の所為で立ち往生だ。が――」

空気がおかしい。
そうソルディスが言うが早いか、ティナは突然ぱっちりと眼を覚まし、「うた、」と呟いた。

「“うた”?」
「歌が、聞える、」

ソルディスはグロチウスを見上げるが、彼もまたティナの言う意味が分からず顔を顰める。

いくらソルディスの血を交えたとは言え、ティナの身体能力はまだ人間のそれに近く、常識的に考えてティナに聞える音が魔族である彼らに聞えないという事はありえない。ありえない筈なのだが、

「歌、……歌が、ねぇ、聞えるの」
「寝惚けているのか?」
「違う、あっちから、女の子の声で、……」

ティナは濃霧の向うを指差した。
その先は真っ白。立ち込めた霧は視界を完全に遮ったまま。

ティナはソルディスの胸元から立ち上がり羽織った外套の胸元を握りながら、ふらりと歩き出した。

「――姫君、お待ちを」

グロチウスがそっと手で制する。
以前顔を合わせた事がある筈の彼を、しかしティナはまだ惚けたような視線で一瞥すると何も言わずまたふらりと歩き出した。
先の見えぬ森の中、歩き回るほど危険な事は無いというのに――

ティナは何かに惹かれる様、ふらりと歩みを止めない。

「ティナ、止まれ」
「――歌」
「ティナ」
「歌が、呼んでる」

立ち上がったソルディスが声をかけても、ティナは止まろうとしなかった。

おかしい。明らかにティナの様子がおかしかった。

視線は一点を見、しかし呆然としたような表情で、足取り覚束なく進んでいく。

ソルディスとグロチウスは顔を見合わせた。

「……どうやら、この霧は、」
「ただの霧じゃあないらしいな」

ソルディスはゆっくり歩むティナの腕を掴む。そんな彼を振り返ろうともせず、ただ、ぼうっと進もうとするティナを見て、「――こいつのこの症状は、霧によるものか」いや、この霧の発現者たる何物かの仕業であるのか――?

ティナは弱い力でソルディスの腕を振りほどこうとする。「呼んでるの、私を――」そんな彼女の腕を掴んでいたソルディスは一旦それを解放する。

「行ってみるか。この霧では、スコッチフェルトを呼んでも迷うだけだ。それ以前に、霧の正体が気になる」
「姫君は大丈夫でしょうか」
「こいつに危害を加える者は殺す」

ソルディスは腰元の長剣に手をかけた。

ならば私は、我が主に手を出すものを始末致しましょう、そうグロチウスは一礼をし、彼は早くも自身の剣を抜く。

平生なら、魔族や魔獣であれば、彼ら二人の強力な魔気を恐れ近付くことすらしようとしないだろう。
それでも襲ってくるのは、飢餓で餓えた魔獣や異界の輩、発狂した魔族等や、意図的に彼等を襲おうとする輩のみ。
そう、平生であればそういう理由で、とりたてて注意を払う必要は無いのだが――
何しろ、この濃霧である。四方八方、何が来てティナやソルディスに危害を加えるか分かったものではない。

単なる遊覧とも言えるこの出城。言ってみれば、プライベートな外出の今日。異形の輩を始末する為にソルディス単独で出かける出城とは訳が違うのだ。万が一、万が一この二人に傷がつこうものならグロチウスは城に帰る顔も何もあったもんじゃない。

妙な圧力を心に感じながらグロチウスは、剣の柄を握り締めて歩き出す。


尚も森の奥へ奥へと進もうとする少女。
その少女の小さな掌を握り直し、後をついていく領主。
見ようによっては微笑ましい二人の姿。

……何だか、今一緊迫感が足りないのでは。

そう思わずにいられない領主様の愛馬であった。






















「……歌、ここ、」

ティナが不意に立ち止まったのは、十数分歩き進めた森の奥地であった。

空の天気はまだ明るいが、辺りは白い霧が相変わらず立ち込める。
いや、当初よりは薄くなったと多少思えるか。


ティナは霧を払うように手で前方をかきわけ、奥を指差す。
木々の生い茂る間、ティナの指差した先に、うっすらと建物が見えた。

――古い、大きな館。

城下の貴族が暮らしているような、そんな館が一つ、森の奥地にぽつんと立っていた。
白い霧はこの屋敷を守り取り囲むよう立ち込めているようで、ある程度近付くが、しかしソルディスとグロチウスには相変わらず歌声どころか屋敷から物音一つ聞えてこなかった。

「ティナ。歌はまだ聞えるか」
「……私と、同じ、」
「――ティナ?」
「歌ってる」

すっと、屋敷を指さした。
ティナは屋敷の囲いをくぐり、屋敷の庭へ入ろうと歩みを進めた。

彼女の手をしっかり握って離さないソルディスは、ティナの後に続いてゆっくりと囲いをくぐる。

「大丈夫でしょうか」
「さぁな」

その気になればどうにでもなる、そんな調子でソルディスはティナに続きどんどん屋敷の方へ歩みを進めていった。
庭には放って置かれた草木が生え伸び、屋敷は古び人の気配すらない。窓のカーテンは全て閉まりきっていて、屋敷の中すら窺い知れない状況だ。壁には蔦が這うように伸びて、囲いの鉄部分には錆が赤黒くこびりつく。
そんな如何にも化け物や魔女の類でも出てきそうな雰囲気である、普段のティナなら怖がって近付こうともしないであろうお屋敷だが、正気を失ってる今の彼女に恐怖心はないらしい。ぐんぐんと歩みを進め、とうとう、さび付いた屋敷の扉を押し開ける。

扉は鍵がかかっておらず、かといって錆付いてもおらず、簡単に開いた。
ギィ、と軋む鈍い音を立てながら、扉は開く。


太陽の明りも入らず真っ暗な屋敷の中、ティナは扉の奥へ進むが、少し歩みを進めた所でふと立ち止まった。

「……」
「ティナ、どうした」
「……歌が…」

突然だった。

突然、ティナの身体から力が抜けた。
ぐらりと仰け反るように倒れこむティナを抱きとめたソルディスは、彼女の首に手を添える。

「脈は、」
「ある。気を失ったというよりは……眠り込んだような感じだな」

良く寝る姫様だとふざけて言いながら、ソルディスは一度ティナを抱き上げると屋敷の奥へ進んだ。

「奥へ入るつもりですか」
「取りあえずティナを寝かせる」

自身の危険より、姫君の休息。
あぁそうですかとグロチウスが溜息をつくのを見、ソルディスは顔を顰めた。

「最近どうも不機嫌だな、お前は」
「まさか、私は」
「明日は俺が手入れをしてやる。そう拗ねるな」
「……」

そんな一言で済ます主人もどうかと思うが、その一言に素直に反応してしまう自分もどうだろう。

複雑めいた表情をソルディスに見られたくなく、グロチウスは髪を結わえるついでの振りをし俯いた。



















「これからどうします」

近くの一室の寝台にティナを横たえて、その傍に腰掛けたソルディスにグロチウスは問いかけた。
部屋のカーテンを開けると、濃霧の中うっすら届く陽の光で部屋が白めく。何年も使われていない、埃のうっすら張ったナイトシェルフに荷物を置き、汚れを叩いたベッドにティナを寝かせている。相変わらず弱い呼吸、ほんの少し低い体温、身動き一つしない彼女はすっかり昏睡状態だ。

もうじき夕刻。外も暗くなる。
余り遅くなっては城の者も煩いだろうが、それ以前にティナの眼を覚まさせあの濃霧を払拭しない事にはどうしようもない。

「お前はここでティナを見ていろ」
「……貴方は?」
「俺は屋敷を歩き回る」
「まさか」

グロチウスはそれこそ聞き流せぬとソルディスを制した。
何が潜むかも分からぬ屋敷の中、ソルディス一人を、領主一人を従者一人もつけず徘徊させる訳にはいかない。

「お止め下さい。それなら私が」
「駄目だ。俺が行く」
「ソルディス!」
「――お前には、あれが聞えるか?」

天上を指差したソルディスに、グロチウスは首を傾げた。

「何が……」
「俺もさっきまでは何も聞えなかった。ティナの幻聴だろうと思っていたが――確かに、女の声だ。上のほうから微かに聞える。どうやらティナの眼を覚ますには、あれをどうにかしなければならないらしい」

言われてグロチウスは耳を澄ます。が、やはり何も聞えない。
ソルディスは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。

「ソルディス」
「頼りにしているぞ、グロチウス」

愛馬の黒髪をくしゃりと撫ぜて、ソルディスは部屋を出た。
グロチウスは、毒気を抜かれたようにその場に立ちつくす。
何だかんだ言って、未知の道を切り歩く姿は、どこかの北方領主の其れと大差ないではないか、
結局類は友を呼ぶのだと、グロチウスは諦めたようにベッドサイドに腰を下ろした。






廊下はひんやりとした空気が流れ、カーテンの閉ざされたその一本線は真っ暗。
ソルディスは壁掛けの燭台を手に取り、静かに呪文を口ずさむとその先に火を灯した。

さて、これからどうしてくれよう。

そう言わんばかりの冷たい視線を、暗闇の先に向ける。
誰であれ、どんな理由であれ、此方を誘いティナを惑わしたとあれば容赦はしない。


限りの見えぬ、暗く高い天井を見上げた。 耳に届く、微弱な歌声。
消え入りそうな、弱い歌声。
人知れぬ森の奥で、誰にも届かぬ程静かで透き通ったその歌声。



イマスグ、アナタニ、アイタクテ、

ホシノササヤクシタデ、フタリ、イツマデモ、



(――私と、同じ、)
そうティナが呟いた意味がやっと分かった。
嗚呼、やはり女子供が歌う歌ではないか。
ソルディスは苦笑しながら、その声に導かれるよう闇の奥へ足を進めていった。










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