「明日は、なんだか晴れそうね」

暗闇の中、雲が月に会釈しながら立ち去る姿を見送って、ティナがそう呟いた。
勝手知ったるソルディスの部屋の窓を全開にして、季節に沿った生温い風に身を当てながら、姫君は淡いブロンドをそっと靡かせる。

「ねぇソル、私、今日また神学の先生に新しい事習ったの」

言ってティナは振り向いた。
体温に心地良い風を受けながら、それらに仕事道具を飛ばされぬよう重しを置いていたソルディスは、湯浴みまでの時間を持て余し彼の部屋で暇を潰す彼女へ一瞥を送ると再び仕事に取り掛かる。

「破界の章、哭泣のアギタ」

ティナの言葉に、ソルディスは文面へ走らせていたペンを止めた。

「アギタは最初、この世に二種類の生物を造ったの。でも、その二つは喧嘩しちゃって、世界がめちゃくちゃになって……それはやがて魔族と人間の先祖になるんだけど、その時、世界がめちゃくちゃになっちゃった時、アギタはあまりにも悲しくて泣いちゃったんだって。全知全能の神様でも、悲しい時は泣くのね」

ねぇ、ソルは知ってた?
ティナはソルディスが腰掛けた椅子の傍まで駆け寄り、顔を覗き込んだ。

「知っているも何も、常識だ」
「そうね。私、知らな過ぎなのよね、魔族の事も人間の事も、国の事も」

笑うティナに、ソルディスは溜息をつきながら「これから学べば良い事だ」抑揚も無く言いやった。

「そうね、お勉強も最近ちょっと楽しくなってきたし」
「何よりだ」
「だから、もっとやる気が出るように、また河原に遊びに行きたいなー、なんて」

本筋から反れた彼女の言葉に、ソルディスは呆気にも似た視線を送りつつも溜息を付いてティナに返事を返してやる。

「……週末、快晴ならば考慮しよう」
「本当?やった!じゃあ、今度はリィネも連れてレッドベリーの青実摘みでもしなきゃあ」

青実って穀物酒に漬けると痣に良く効く薬になるのよね、
ティナは一人楽しげに声をあげながら、パタパタと廊下へ飛び出して行った。

またドレスに足を捕られて転がるんだ、そう思いながらも忠告する暇など微塵も無い。ソルディスは本当に悩ましげな溜息をつきながら、椅子に深く沈みこみ、額に手を当てた。そうして、姫君が開け放したままの窓を見やると、静かに呟く。

「――入れ」

言葉に反応するように、窓のガラスがカタカタ鳴る。
ふ、と勢い良い風が入り込んだかと思うと、束の間の静寂後、その窓辺には小さな影が佇んだ。

「流石領主様、お察しが良い」

楽しそうなからかう様な言葉を口に、いつの間にか窓の桟に足を掛けて、肩を揺らす。
緊張感の欠片も無い表情でぽりぽりと頭を掻くのは――アヴァス。
老人とも子供とも似付かぬ、小柄な身体に皺の寄る顔。高く、皺枯れた声。
森の奥深く片割の元で執事たる身分で生きる彼が、平然とこうしてソルディスの元へやって来るのはさして珍しい事では無かった。

「いや、ね。近くを通りかかったら、可愛らしい姫君のお顔が見えたものでさぁ」
「あいつの使いか」
「いえいえ、今日はクロム様のご命令で来たんじゃありませんぜ」

アヴァスは、ひゅっと窓の向こうを指差して、

「いや、今日はひょいと森の奥まで魔獣の様子を見に行ってたんですがね。レィセリオスとの間にある河原――獣寄らずの原、でしたっけぃ。あそこの周囲で、最近歪の目撃がやけに多いってぇのを城下で耳にしましてねぇ」

言葉にソルディスは目を細めた。

「主人の話じゃあ、領主様と姫様、あの河原に思い入れがお有りの様で。いや、お出掛けになられる際はお気をつけになってくだせぇ」
「……覚えておこう」

ソルディスは無意識に煙管に手を伸ばしながら、アヴァスに言った。
そりゃあ有り難い、その言葉と共に翼類の男は双翼をばさりと旗めかせる。
「そうそう、クロムの旦那は非常に元気でやってまさぁ」、聞いても居ないのにいつもの様に弟の近況を告げるお節介な執事に眉を顰めるソルディスを見、愉快そうに微笑みながらアヴァスは軽く桟を蹴った。
――瞬時、また、生温い風が吹き込んでくる。
風を身に纏う音がしたかと思うと、次の瞬間、既にそこに男は居ない。

ただ、風に靡くカーテンだけが、その場に残り、ソルディスは火をつけた煙管を深く吸い込んだ。

「――知っている」

あの河原に、歪が生じるなんて事、そんな事は嫌でも知っている。

ソルディスは言いながら紫煙を吐き、吐いた後になって、嗚呼、ティナがまた煙管の味が嫌いだと小言を言うのだと思い出して顔を顰めた。

そう言えば、あの河原には、この間よりも月下零が咲き乱れているに違いない。
生温い風と湿気が舞い込むこの時期、疎らだったあの黄色い花弁はそのあらん限りの力を出して、小さな花を満開に放つのだ。
それにはしゃぎ、神学の知識などそっちのけで河原を駆け回る誰かさんの姿が克明に目に浮かぶ。

(哭泣のアギタか、)ソルディスは目を瞑った。

そう言えば、この城に来てからティナが泣いた所を見ていない、そんな事をソルディスは思った。

悪い夢を見て滲む無意識の涙でなく、笑いに目を潤ませる涙でもなく、そうではなくて生の辛さから湧き出る涙を、平生の彼女がどんな逆境に曝されようと見せ様としないのは、彼女の内面の強さからか。
それとも――ともすればティナは、(泣く事を、)


――ソルディス!

バン、と大きな音を立てながら部屋に入り込む姫君に思考を中断されながらソルディスは煩いと彼女を叱り、同時に煙管の灰を皿に打ちつけた。
あーまた煙管吸ってる!
毎度ながら指差し叱るティナに頭を悩ませ、なあなあに彼女のご立腹を宥めながら、週末までに仕事の山を無くさなければならないとソルディスはそっと溜息をついたのだった。












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