12
「……クロム…?」 ティナは思わず呟いた。 そして、はっとして、後ろを振り返る。 呆然としているのか、驚いているのか、それとも、若しかしたら、何も考えていないのだろうか。 自分と瓜二つ、それはもう映身たるその男の姿を見て、ネイビスは、うろたえる事も叫ぶ事も笑う事もせず、ただ、そこに立ち尽くしたままだった。何も物言わず、クロムセリアを見つめるネイビスに――彼は、「すっかり、庶民だな」そう言って笑った。 「“ネイビス”だ!」 セトは、走り出し、ネイビス、ティナ、アリシアの足の間を潜り抜けて、クロムセリアに駆け寄り抱きついた。 「きたんだ。僕のネイビスが、森のおくから来たんだよ」 その言葉に、ティナは、何も言えない。かける言葉も出てこない。 アリシアも、身動き一つ出来ず、ネイビスも何も言わない。 無邪気に微笑むセトを見下ろし、クロムセリアは――その幼子の頭を静かに撫でた。 「驚いた?」 「驚いたわ」 一息ついて、 「彼が、双子だったという事に、ね」 淡いブロンドを肩に流し、人の散った食卓で、ニルと向かい合って座るアリシアは、暖かな紅茶を飲みながらそう言って困ったようにふっと笑った。「だって――貴方達が、ネイビスと知り合いだってこと。会ったときから、気付いていたもの」 アリシアの言葉にニルも苦笑する。 「残念、演技が下手だったかしら」 「いいえ違うわ。だって……ニルさんとネイビスが、似ているから」 立ち上る湯気を見つめながら、彼女は柔らかい声で言葉を続けた。 「だから、家族かしらって思ったの」 「顔、隠すべきだったわね」 「それじゃあ怪しすぎるわ」 アリシアは笑った。 ニルは、艶やかな黒髪を耳にかけながら、「――聞かないの?」アリシアに問う。 「私達が、どういうつもりでここに居るのか」 「……気にならないと言ったら、嘘になっちゃうわね」 「無理に連れ戻すつもりと?」 「どうかしら。それでも、あの人も、いつまでもここに居るわけにもいかないのよね」 アリシアは目を伏せる。 「――未定よ」 「未定?」 「困った事に、それを望んでいる子が一人居てね――」 ニルは肩を竦めた。 どうにもこうにも、ネイビスをネイビスのままで、ここに残していく事を、それが彼の幸せだと望む者が一人居る。その人は――その人こそ、ネイビスたる彼を必要として、本当は、最も心苦しく悶える日々を送っているのは彼女の筈なのに……でも、彼女はいつだって、大事な人の幸せを考えて、自分を苦しめる道ばかり選んでいく。 「茨の上を歩いた足は、やがて痛みを感じなくなると思う?」 急な問いかけに、アリシアは首を傾げる。 「無理よね。笑ってたって、痛みを忘れる訳は無い」 ニルは思った。 あの子が笑っていられるのは、きっと、痛みに諦めを覚えたからなのだ。 「痛みから解放される日は無いと、信じているのね。きっと」 ふと、開いた窓の向こうに目をやった。 外からは、虫の音。今夜はまた、一段と暑い風が吹いている。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「驚かせたな」 蒸し暑い部屋の、窓を開けるティナの後ろで、優しく低い声が響く。 ティナは懐かしいその声に、微笑んだ。 うん、びっくりしちゃった。 そう言ってティナは、窓から夏の夜を眺める。 虫が寄るから、そう言って部屋の蝋燭を消したから、空からの月光以外に灯りは無い。 それでも、銀の光に照らされる彼女の表情はどこか愁いを帯びているのが分かって、クロムセリアは目を細めた。脱いだ外套を彼女のベッドの上に投げて、彼もまた窓際に寄りかかり夜風に当たる。 「どうしたの、突然」 「仕事に飽きた」 軽い口調に、ティナは笑った。 「あと、泣いてると思った」 「誰が」 「誰って、ティナしか居ないだろう」 目をぱちくりさせるティナに、クロムセリアは、「どうせ、また無理して笑って疲れてぐったりしてると思って、城をアヴァスとロドメに任せて遥々見に来てやったのさ」 ティナは、困ったように、「私、無理はしてないわ」そう言って、また笑う。 平生からこうして髪を下ろしているクロムセリアは、今のネイビスと本当に瓜二つで、ティナはソルディス本人に詰問されているように思って、少しおかしな気分になった。 「俺は、ティナがどうしようと構わないが、」クロムセリアは言う。「領主の仕事は面倒だ。しかし、ティナが手伝うというのなら……それも、悪くないな」 苦笑する彼に、ティナは笑い返した。 「クロムと、二人で?」 「そうだな。城で、二人で、だ」 「そうしたら私がソルディスに怒られちゃう」 「“ソルディス”は、今居ない」 クロムセリアはティナの頬に手を当てた。 吸い込まれそうなその瞳は部屋の暗さと相まって、闇に溶け込み、月光に映える。 ティナの体を縛りつけ足の先から全て絡め取るようなそれを感じれば、ああ、やはり血を分けた双子だと今更ながらに思って、ティナは目を伏せた。今のティナに、クロムセリアの存在は、優しすぎて、辛すぎる。 いいや、違う。恐らく、辛いのは、きっとクロムセリアだって同じだ。 ソルディスの不在を知らされ、記憶の喪失を告げられ、唯一人城の中で空を眺めるのみ、兄の帰還を待つ彼の心を――ティナが、それを全て伺い知るのは不可能に近い。 「寂しかったでしょ、ごめんね。ソルディスも、私達も、皆してト・ノドロを離れて」 「孤独は慣れている」 離れに居るのと、それは何ら変わらない。 その言葉にティナは黙った。 「クロムセリアは、強いのね」 「ティナと同じ、ただの慣れだ」 「私?」 「悲しみに慣れている」 ティナは困った。誰にだって、そんな事、言われた事が無い。 「それと、無意識に笑う。ティナが泣く確立と言ったら、アギタに匹敵する程だ」 「“哭泣のアギタ”?」 「そうだ」 それは、全知全能の神が、たった一度だけ、闇を引き裂く声をあげ天を渦巻く涙を流し己が築いた混沌の儚さを嘆いた刹那。 紅き瞳から流れ落つ雫が大地を濡らした瞬間、その一滴のみが、混沌の闇に吸い込まれた。 「――アギタの涙の一滴は、今もこの世のどこかに在り、生ある物の中で輪廻を繰り返し、アギタの体に還る時を待っている」 「私がとても好きなお話よ」 「好き?“もっとも忌み嫌う話”では無く?」 ティナは目を見開く。 「止めておくか。ここで、君のその深い傷を抉るのは賢明じゃない」 「……」 「本人が覚えてないなら、仕方が無いしな」 苦笑するクロムセリアは、どこか、以前よりも、何か余裕があって、ティナはぼうっとそう思った。そして、今の言葉を、聞かなかったことにしたかった。(そう、それは、全く無意識に。) 「……ねぇ、クロム」 「何だ」 「お兄さんの記憶、無くなって、悲しい?」 クロムセリアは肩を竦めて、 「仕事の山で、それどころじゃ無かった」 「そうね。領主のお仕事、ずっと大変だったのね」 「俺は、こういう時の為に生かされていた様な男だから」 その言葉にティナは、首を傾げた。 「領主後継?」 「そんな立派なものじゃあない。下等代身だ。領主に死の危険が迫ればその身を挺し命を差し出し、彼の手が及ばぬ所には自分の身を差し出し奉仕する。つくづく遣り甲斐のある御役目だ」 「でも、それは……本来は、下男や、……罪人達が」 「父上にとって、俺は下男どころか罪人と等価値だったという事だ」 だが、クロムセリアは、もはや苦痛の表情は見せなかった。 今彼の隣に父親は居ない。兄も居ない。 離れに暮らす事だって、今となっては彼が自分で選んだ事だ。 「いっその事、あとは城で暮らすか」 「私やニル姉はいつでも大歓迎よ」 「――“ネイビス”をここに置いて?」 続けるようにクロムセリアは、呟いた。 「……それ…誰が、」 「誰から聞かなくても想像はつく」 頬に添えた手で、ティナの肌を撫ぜた。 少しだけ痩せ細った様に思えるその体を、彼は、抱き寄せてしまえるものならそうしていたい衝動を覚える。 「……“ネイビス”は今、幸せなの」 ティナは告げた。 幾度となく考えて来た事を、再び。 「今のソルディスは、辛かった事も忘れて、笑って、アリシアさんもセトも隣にいて、幸せで、……自然に記憶が戻るまで、ここに居るのが、ソルディスの一番の幸せだと思う」 城に居たとき、ソルディスは笑わなかった。 城に居たとき、ソルディスは、一度だって、幸せを口にした事がなかった。 「クロムセリアは、ソルディスの過去とか、色々、知ってるのよね。だから、私が言わなくたって、私より分かってると思う。私はよく分からないけれど、それでも、ソルディスの傍にいて、ソルディスを笑わせてあげる事も、安心させてあげる事も、出来なくて、……だから、このまま、まだソルディスをここに、」 つまり、 「ソルディスは、アリシアさんの隣に居るのが、幸せなの。きっと、アリシアさんも、ソルディスと今一緒に居る事が、幸せだと思っているの」 つまり、そういう事だと思う。 「私はダメなの。ソルディスといると、いらいらさせたり、怒らせてばかりで……本当にどうしようもないのね、今日だって、ネイビスと喧嘩しちゃったの。お互い口利かなくなって、多分もうどうしようもない感じでね。それにね、アリシアさん、ソルディスの忘れられなかった人に……肖像画の女の人に、すごく、似てるの。すごく優しげで、きれいで、ネイビスのお世話をずっとしていて、――だから、だからね、私、」 「馬鹿が」 ……。 (――え?) 遮った言葉と、途端、頬に軽く当たった手の甲に、ティナはきょとんとして一瞬言葉を失った。 「“馬鹿、脳無し”。ソルディスなら、きっと今そう言っている」 「クロム……」 「先に、本音を言え。自分の」 ティナは、クロムの目を見つめる。 「だから、私の本音は、」 「ソルディスの幸せ?確かに、それが本音かもな。でも、答えを出す順番が違うだろ。その前に、考える事があるだろう、ティナには」 クロムセリアは窓の外を見た。 見ろ、 クロムセリアの促しにティナも目をやれば、夜更け、熱帯夜の庭に、ネイビスが一人其処に立っていた。 その後ろには、アリシア。彼等は当然、二階で涼むティナとクロムセリアに気付いては居ない。 年の頃だって近くて、背丈だって釣り合っていて、傍から見て仲睦まじい二人を上から眺めて、ティナはふっと浅く息を吐いた。 蝉の声で、虫の音で、アリシアとネイビスの声は何一つ聞えない。 それは、向こうの彼等にとっても同じことだ。 全てを知っている者達と、何も知らぬ者達。こんなに近い距離だって、心は、図れぬ程遠い気がする。 「ネイビスが――ソルディスが、どうのこうのじゃなくて。その前に、ティナはどうなんだ」 「それは……だから、…私は、ソルディスの幸せ、な、道を」 「ティナがそう思うのは、何故」 ――それは―― ティナは少し、息を呑んだ。 「暑いわね」 そう言うアリシアの声にも振り向かず。ネイビスは、深く、暗く、ざわめく、向こうの森を見つめていた。 「困ってる?」 「何を」 「いきなり、あの人が来たから」 クロムセリアと一言も交わさず、彼をただ一瞥するに留めたのはネイビスの方だ。クロムセリアを見知った様子のニルやティナを問い詰める事も、かと言って錯乱する事も無く。ただ、食卓を片付けぬまま、自室に戻り、そうしてこうやって夜風に当たり、一人思慮に耽っている。 「あの男は」 「ティナさんと、二階に上がって、……もう休んでると思うわ」 「そうか」 「……ねぇ、ネイビス」 アリシアは優しく言う。 「貴方、本当に、文書のネイビスと同じね。ふらりと来たかと思ったら、あの人達と、また、どこかに消えてしまうの」 「――」 「……また、ここも、静かになるわね」 セトは、寂しがっちゃうかな。 アリシアは言いながら、ネイビスの背に近付いて――その広い背中に、体を預けた。 ネイビスは、何も言わず、ただ立ち尽くし、森の奥から吹く風に体を委ねる。 「ねぇ。みんな、居なくなっちゃうのかしら。森に吸い込まれるみたいに、皆――あの人みたいに」 「アリシア」 「……寂しいわね」 ぎゅっと、ネイビスの服を握った。 「寂しいわ――」 少し、震えていたかもしれない。 でも、アリシアは、行かないでとは言わなかった。引止めの言葉は口にしなかった。ただ、寂しいのだと。ネイビスの不在が、悲しいと。それだけを告げる声も、震えていた。 ネイビスは何も言わず、跳ね除けもせず、抱きしめもせず。 ただ、――ただ、彼女の体の震えが治まるまで、黙ってそこに立って居た。 彼女の手の冷たさとは逆に、夜はこんなにも暑い。 月だけが、全てを見ているような気がした。 ネイビスに、寄り添う彼女を見て、ティナは目を伏せた。 耳に、虫の音が、何故か心地よい。全ての言葉を掻き消してくれて、良かった。もう、何も聞きたくは無い。 ――俺はティナと暮らしても構わない、 そう、ティナの肩に手を置いて、クロムセリアは、静かに言った。 「自然とソルディスの記憶が戻るまで、領主として職務を勤め、俺は、例え何百年でもソルディスとしての役を徹する。それを、ティナが望むのであれば」 「――」 「けれど、ソルディスの幸せ云々を考える前に、今のティナには考える事があるだろう」 それは、「ティナの――自分の気持ちを」 「……私の…」 再び、目を開け、庭に佇む二人を見る。 「……私の、気持ち……」 「言ってやろうか。ソルディスの幸せを願う以前に、ティナは、傷つく事が怖かった」 「怖い、……?」 「ソルディスの隣に居られなくなる事が――自分が望んだ場所が消える事が、怖かったんだよ。例え記憶が戻ったとしても、“ソルディスが、ティナを望まない可能性”がある事が」 肖像画の彼の女性を、永劫心に留めるソルディス。 アリシア・セレステを、彼女を望んで、ティナを不要とするソルディス。 その全ての可能性を、垣間見ることすら恐怖で、――それを彼の口から告げられる前に、自分から、ソルディスの存在を遠ざけた。 愛の言葉を捧げられた事は、一度も無かった。 一方的な気持ちを表すかのような指輪だけを指にはめたまま、一人で彼の背中を追いかけていた。 喜びを、微笑を、安堵を分かち合った事も無くて、例えソルディスに記憶が戻ったとしても、アリシアと出会った後の彼が、ティナを傍に置くことを拒む事が、それが何より怖かった。 そうだ。 それが怖くて、何もかもを自分から突き放したのだ。 「ティナは、何処に居たい?」 それは、前に、一度答えを、 「私は……ソルの…」 そう、あの時、クロムではなく、ソルディスの隣を選んだ。 「そう思ったのは、何故?」 ティナは、瞬きを止めて、己の心を見入った。 ソルディスの幸せを願う。 それは本心で、それ以上の願いは無い。 でも、そう考えてしまったのは、――そうだ、きっと、それは、 「……私は……」 きっと、もう、答えは出ていた。きっと気付いていたのだ。 それを言葉にするのが、どうしても、怖かっただけで。 (ティナは、どこに居たい) それは、あの人の隣に。 (どうして) それは……、それは、 それは。 「……うん、……」 誰にともなく、頷いて、ティナは、肩に置かれたクロムセリアの手を握った。 ようやく、自分の気持ちに、気付いたか? 言って、男は優しくその双眸をそっと細めた。 |