6
外の風が強くなってきたにつれ、ソルディズは一層優しく、しかし、しっかりとティナの手に指を絡ませた。 何かを怖がる赤子をあやす様に。 ただ扉を叩く風にさえ怯える彼女を、安心させる為に。 「私を――知ってた?」 声が震えている。 「そうだ。お前が生まれた時からずっと――何度も、何度もお前に会いに行った」 ソルディスは、まだ光差し込むベッド際のカーテンを閉めた。 「あの牢を、覚えているか」 牢。 その単語に、ティナはびくりと体を引き攣らせた。 ソルディスは、繋いだままのティナの手の甲に唇を寄せる。 「そう、牢だ。お前は何年も何年も、あの薄暗い地下の牢に追いやられていた。毎回俺を案内をするジニアがまともに直視出来ない位、気丈に振舞うお前を……俺は、ずっと見てきた」 地下牢。 嗚呼、何故だろう。 その響きに、ティナは何故か安堵の感情を覚えた。 「私――、ずっと、牢の中で“守られて”いた」 牢屋とは、そこを牢と認識すれば牢となり、自分を守る柵だと思えば守りとなる。 それを、ティナは、朧気な記憶の中で、何ともなしに思ったのを覚えている。 ひんやりと冷たい鉄格子。 壁際に追いやられた小さなベッド。 そして上を見上げれば――灯り取りの為にはめられた、小さな格子窓。 そこから見えたのは、唯一の楽しみであっただろう、手の届かない場所で輝く月の光。 ティナは断片的に一つ一つを思い出す。 そうだ。だから、クロムセリアはあの時言ったのだ。 (ティナ、君なら分かってくれる筈だ。) (月を友とし、空を望み、) (その望まれぬ身を以ってしてここまで生きてきた君なら) ――望まれぬ身?―― 「ソルディス……私は“要らない子”だったの?」 「違う」 「要らない子だったから、あの暗い牢に」 「違う」 ソルディスが、痛いほどティナの手を握り締めた。 「お前は、望まれぬ子供では無かった。ただ不運にも――“最も望まれない姿”で生まれてきてしまっただけだった」 望まれない姿。 そうだ。 父上は私を哀れみ、母上は私を見下していた。 あの目を、私は忘れない――いや、思い出したのだ。 鉄格子越しに私を愛でたのは、カステルと兄様。 父上は何を哀れんでいたの? 母上は一体何を蔑んでいたの? 私は、どうしてあの冷たい鉄格子の中、僅かに開いた地上への隙間から、月ばかりを見ていたの? 手の甲に口付けされたまま己の手を見て、ティナは思い出す。 隣国モロゾナのバドルがあの時言った言葉を。 私の双眸は、父上にも母上にも似ていない。 そして、私は不具の娘なのだと。 父上はヘーゼルの瞳だった。母上は、透き通る様なアクアブルーの瞳だった。 それじゃあ、私は? 「お前の母親は危惧していた。アギタを、そしてアギタを信仰する者達を。聖レィセリオスは小さな国だ、信仰なんぞ一気に広まる。勿論、アギタを崇める者が現れ始め、最早国家の命だけでは国民を纏められなくなる。――故に、あの王妃は、アギタそのものを憎みさえし始めていた」 でも、私が。 「そこに王族の長女たるティナ、お前が生まれた。――束の間の喜びというのは、ああいうものを指すんだろうな」 開いたその目は緋色の双眸。 そして――両手とも六本の指――多指症。 誰から受け継いでもいない赤の瞳に、六枚の翼を象徴するかの様なその指は、アギタを彷彿させるに充分な要素だった。 王は哀れんだ。己の娘が、これから受けるであろう誹謗中傷に。 だから、生まれたばかりのティナを慈しむ様に抱きかかえた。 王妃は侮蔑した。 この子は既に人間ではない。ただアギタを象徴するためだけに生まれてきた、プロパガンダに過ぎないと。 だから、彼女は生まれたばかりのティナを抱えなかった。 王やカステル、息子のリオの言葉さえ受け付けずに、王妃は産後のベッドの上から直ぐに、命を下した。 ――その穢れを、早く地下の牢へ閉じ込めろ。 その余分な指は、早急に切り落とせ。 そして、その緋色の双眸を閉ざさぬ限り、二度と私の前に晒すな―― 「だからお前は昔から、今の今まで――ずっと独りだった」 ティナはもう何も喋らなかった。 ぴくりと手を動かしてみたが、逆に強く握り返されてしまう。 この男は、こうして、いや、こうする事でしか、彼女の正気を保たせる術を知らないのだろう。 「あの日、お前を牢から出して河原へ連れて行くことを提案したのは、お前の兄だったらしい。外の世界を何も知らず、川面にも触れず、何より、城の外に出た事のないお前を、一度で良いから連れて行きたいと――お前と、お前の親族一同を、別の馬車で向かわせる事で妥協したらしいが――とにかく、一度お前に世界を見せたかったんだろうな」 「でも。その日に限って、」 「歪みが、出来た」 皮肉に皮肉が重なって出来た不幸だった。 未だ見たことのない異形。 一人一人と殺され肉塊となっていく人間達。 血しぶきに塗れた月下零。 残ったのは子供二人。本来ならば彼らを守るべき大人は、既に居ない。 「そうして――お前だけが生き残った」 ティナはもう、黙ることしか出来ない。 白紙だった筈の過去。 本来なら戻ることの無かった筈の記憶。 それらがじわりじわりと、黒いインクで上書きされていく感覚。 己が嵐を恐れる理由。 幼少の記憶が喪失していた理由。 そして、それらからティナを守らんが為に、ずっと沈黙を続けていた目の前の男。 ずっと口を堅く閉ざし、沈黙を続けていたこの男が、何年も何年も彼女を守り続けていたその事実。 ――それだけで、ティナは充分だった。 窓の外は、いつの間にか雨が降り出していた。 本来なら異常に広がる恐怖心が、今だけは、少しだけ和らいでいる。 それは、腕の先、伸ばされた手のひらに伝わる彼の人の熱のせい。 しっかりと握られ、絡め取られた、指のせい。 手の甲に、静かに落とされる口付けのせい。 それだけで、じわりと頭に響く頭痛だって止んでいく気がする。 ソルディスは、それから、それ以上の事は話そうとしなかった。 ティナの父の事も、母の事も、兄の事も――未だ一言だって口にしてない、彼の父母や“エリザ”の事も。 でも、ティナは、それ以上深く追求しなかった。 きっとそれは、今話すべきではないと彼が判断を下したから。 「ねぇソルディス」 ティナが静かに彼の手を引く。 「頭、痛くなってきた。一緒に寝よう?」 幼く笑って。 「お前から閨に誘うか。珍しい事もあるものだ」 「ばか、」 互いが、静かに笑い合った後。 互いが、柔らかな接吻にそっと応える。 ティナの細く柔らかい腕がソルディスの首に絡む。 それに誘われるよう、どんどん深くなっていく口付け。 ティナが呼吸をする間すら惜しい様に、彼女の髪を撫ぜながら止まない口付けにティナは身を捩ろうとするが、それすらも許されない程に小さな体が抱き締められる。 沈黙を守っていた間の時間を埋めるかの様にソルディスの止まらない行為に、ティナもまた彼の首に絡めた腕に力を込める。 心臓の奥の方から、じわりと湧き出す弛み。 この人は、ずっと自分を見ていてくれたのだ。 この人は、ずっとそれを悟られぬ様、堅く口を閉ざしていたのだ。 全ては、この私を守る為だけに。 暗闇を取り除いて、光だけを見つめさせるように。 ――僅かに頭に響く鈍痛の中、ティナは目を瞑って、安堵の中に落ちていった。 今の彼女に、嵐の恐れは届かない。 |