視界が、暗い。
触れる床は、ひんやりとした石で、ざらざらしている。

身に纏うワンピースはとても綺麗なベビーピンクなのに、薄暗い牢屋の中では、その暖色さえ冷たさを帯びている。


時間は、夜。
けれど、今が何時かなんて、そんな簡単な事すら分からない。

階段の上にいる兵隊さんに聞きたかったけれど、いつも無口で、怖い顔して立っている兵隊さんとは、一度だって話した事がない。

壁にかかる燭台の炎は、心許無くて、地下牢の不気味さを助長しているよう。

それが、何だかとても怖くて、思わず月光を求めてしまって、灯り取りの為に嵌められた格子窓を見上げた。

窓からは、格子越しに、うっすらと雲がかかってぼやけた月が辛うじて見えていた。

でも、雨風がふく夜は、灯り取りの窓すら石壁で閉じられてしまう。

そんな夜が、いつも怖かった。


朝が来れば、毎日お世話をしてくれる女の人が、牢屋まで来てくれる。
顔を拭いたら、あったかいミルクを飲んで、簡単なご飯を食べて。

お昼になれば、ご飯と一緒に、甘いおやつが運ばれてきて。
窓から差し込む太陽の光だって暖かい。
毎日じゃないけど、カステルが時間を見ては会いに来てくれる。


でも、夜は違う。


食事を運んでくる足音だって怖いし、真っ暗な中で一人食べるご飯は美味しくない。
多分、すごく美味しいんだろうけれど、それを感じる味覚すら麻痺してしまう。

外から聞こえてくる獣の遠吠えにびっくりするし、草がざわめく音にすら敏感になる。

だから、夜中になれば慌てて、牢の中で唯一ふかふかして暖かい、ベッドの中に潜り込んでた。














こつり。こつり。


潜り込んだベッドの中で、石段を降りてくる足音が聞こえた。

ああ、きっと、あの人達だ。

ベッドから這い出て、冷たい石畳に足を下ろす。
冷たい鉄格子を、拙い指でつかんで待つ。




「姫様」

ほら、やっぱり、カステルだ。
いつも悲しそうに微笑みながら、私の手を握ってくれる。
温かくて、大好きな人。


「ティナ!」

ほら、やっぱり、兄様だ。
カステルに手を引かれる兄様は、とても優しく微笑んでくれる。
何度も何度も名前を呼んで、私を安心させてくれる。

ほんの少しの、短い時間だけれども、たまに、カステルや、兄様が来てくれる。
それが、とても嬉しかった。

でも、時間がたてば、やがて二人とも帰ってしまう。
会える喜びが大きい分、それがすごく寂しかった。

怖いのに、寂しいのに、誰かとお話して、安心しながら眠りたいのに。
それすらも、叶わない。



それが、叶うようになったのは、いつからだろう。








こつり。こつり。


カステル達が帰って、何時間たっただろう。

ベッドの中でうずくまっていると、また、石段を降りる足音が聞こえてきた。


こつり。こつり。


ゆっくりと、静かな足取りで、こちらに向かって来る音。

ああ、きっと、あの人だ!

一番怖くて一番寂しくて一番寒くて眠れない時間に、あの人はいつも来てくれる。





「――ティナ――」




――ほら、やっぱり来てくれた!
嬉しくて嬉しくて、思わず裸足のまま、牢の鉄格子に駆け寄ってしまう。

私の、大好きな、大好きな、「黒いお兄ちゃん」。

背がおっきくて。
お目々も真っ黒で。
上着だって真っ黒で。

最初会ったときは、すごく怖かった。
怖かったけど、今は違う。


「受け取れ」

お兄ちゃんは、来る度に、いつもきれいな月下零を一つずつ、私のために持って来てくれる。


「――きれい。」


ありがとう。

そう言えば、目を細めて、答えてくれる。

お兄ちゃんは、絶対に兄様みたいに微笑まないし、声も優しくないし、その手はとっても冷たいのだけれど、怒ったり、嫌なことしたり、怖がらせるような事は絶対にしてこない。


お兄ちゃんは、お花をくれた後、数分たつとすぐ帰ってしまう時もあるけれど、いつもカステルが持ってきてくれた椅子に腰をかけながら、お喋りしてくれる。


今日はね、ご飯が美味しかったよ。
今日はね、遠くで鳥が鳴いてたよ。
今日はね、すごく眠くて、お昼寝しちゃった。
今日はね。
今日はね。
今日はね。


そうやって、いっつも話すのは私ばかりなのだけれど、黒いお兄ちゃんは黙ってそれを聞いてくれる。私がベッドに潜ってからも、眠くなるまでずっとそばにいてくれる。



お兄ちゃんは、雰囲気は怖かったけど、怖いように見えるだけで、本当は怖くないから、嫌いじゃない。
見下ろしてくるのだって、ただ背が高いだけで、黙っているのだって、怒っているわけじゃないって分かるから、怖くない。


カステルも兄様も大好きだけれど、いつも会いに来てくれる黒いお兄ちゃんの事が、私はとても大好きだった。

お兄ちゃんが、どこの人で、何をしていて、何でいつも会いに来てくれるか、何にも分からなかったけれど、それでも良かった。だって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの。

その黒い髪が、黒いお目々が、黒い服が、全部が真っ黒で、でも、それがすごく綺麗に思えた。だから、

「お兄ちゃんは、いつも黒いんだね」

檻の向こうに手を伸ばして、

「夜の空を被ったみたい」

そう言ったら、伸ばした手の先を、静かに握り返されて、


「お前の目は、何よりも紅いな」


そう言われた。


びくっとして、手を引っ込めようとした。

だって、母上が大嫌いなこの目を、じっくりと見られたから。

お兄ちゃんに、嫌われると思った。

でも、

「とても、綺麗だ」


――お兄ちゃんが、はじめて、そう言ってくれたんだ。















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カステルが、外に出ると言った。


まだ空には日が昇りかけたばっかりで、肌寒い朝だった。

だから、お外に出るなんてこれは夢なんだと思ったけれど、厚い外套を着させられた私は、同じく外套を着た温かいカステルに抱っこされて、ようやくこれが夢じゃなくて現実なんだって思い直した。


カステルが静かに石段を上って、暗い廊下を通って歩く。

母上に怒られないように静かにしようって口を塞いでいたら、カステルが困った様に笑いながら、「王妃には話を通してあります」って言ったから、何だか不思議なの、って思いながら口から両手を外した。

だって、私を牢屋に入れるように言ったのは、母上だって聞いていたから。
きっと一生、大人になるまで――ううん、大人になっても母上はあの牢屋から出してくれないって思っていたから。


だから、お城の裏口から、カステルに抱かれたままお外に出た時、透明な空気が胸いっぱいになって、久しぶりに悪い夢から覚めた気がした。


お城の裏庭に出ると、黒い馬が繋がれた馬車があって、その傍に、大好きな、黒いお兄ちゃんが立ってた。


嬉しい事が二つも続いて、はしゃぎたくなった私は、思わずカステルの腕から下りて、お兄ちゃんに向かって走って行った。

慣れない足取りで走ったから転びそうになったけれど、そんな事気にしないで、思いっきり大好きなお兄ちゃんの腰に抱きついて、ぎゅうってした。

牢屋越しにしか会えなかったお兄ちゃんに、やっと、やっと抱きつけた事がとっても嬉しくて、何回も、何回も、ぎゅうってたら、お兄ちゃんが私を優しく抱き上げて、しばらく黙って私の事を見つめていた。

不思議に思って、首をかしげていたら、その後、そっと馬車の中に乗せてくれた。

馬車の中に、お兄ちゃんとカステルが乗り込んで来て、お兄ちゃんがベルを鳴らすと、馬車がぎしぎしと動き出したから、それすらも楽しくて、わたしはずっと窓の外を見ていた。

どうして従者さんが居ないのに馬車が動いているのかとか、どうしてカステルもお兄ちゃんも剣を持っているのかとか、そんな事も気に留めなくて。

ただただ、三人で、お外に出れる事が嬉しかった。










馬車の動きが止まった。

そわそわしていたら、お兄ちゃんが外の様子を伺いながら先に下りて、私を馬車から抱き上げて降ろしてくれた。



――初めて見る光景に言葉を失った。



木々がひらけたその場所は、足場いっぱいに、大好きな月下零が咲き乱れていて、その向こうには、大きな川が流れていて、朝日がきらきら反射してとても眩しかった。

でも、動いたら怒られるかもしれないって思ってその場でもじもじしていたら、カステルが手を引いて歩き出してくれて、ようやく、動いて良いんだなって思ったら、さっきお兄ちゃんに飛びついた時みたいに、無意識に走り出してる自分が居た。


初めて感じる、ふわふわした草むらの感触。
青々とした草木の匂い。
近くで聞こえる鳥たちの声。
ざあざあ流れる川の音。

すべてが、絵本で見ていたものが、直接感じられて、異世界に飛び出して行った様だった。


姫様落ち着いて下さいってカステルが走ってくるのが見えて、それすらもすごく楽しかった。

全てが、嬉しかった。


カステルに手を引かれて河原をのぞけば、小さな魚が泳いでいるのが分かった。

そっと川面に手を浸せば、その冷たさに驚いた。

まわりをぐるりと見渡せば、河原の傍に、赤い実がついた小さい木々があって、カステルに確認をとってから摘んでみて、口に入れるとすっごく甘くて美味しかった。



でも、不思議な事に、黒いお兄ちゃんは、私のところに走って来なくて、木に凭れ掛かって、遠くからこっちを見つめているだけだった。


どうしたのかな。
具合が悪いのかな。
足が痛いのかな。
もしかして、お水が嫌いなのかな。



――そう思ったから、私のほうから、お兄ちゃんの所に走って行った。


走って行ったら、お兄ちゃんがちょっとびっくりした様にしながらも私の体を受け止めてくれたから、私はまたお兄ちゃんの腰にぎゅうって抱きついた。


「お兄ちゃん、具合悪いの?」


そう聞いたら、違うと言われた。

具合が悪いんじゃなかったら。

そうだ、きっと、楽しくないんだ。
お兄ちゃんが連れてきてくれた河原なんだ、お兄ちゃんを楽しませなきゃ。

そう思った私は、その場にしゃがみこんで、一生懸命、月下零を摘んでは摘んでは小さな手に収めていった。いっぱいいっぱい手の中に月下零がたまったから、それを全部、お兄ちゃんに手渡した。


「お兄ちゃんに、お返し」


そう言って、笑った。

力いっぱい笑う方法なんて一度も教えてもらった事が無くて――無かったけれども、その時はなぜか自然に笑いたくなって、お兄ちゃんを見上げながら、その時の精一杯の笑顔で、月下零を手渡すことが出来た。


お兄ちゃんの左手いっぱいに溢れた月下零が、数本、私の頭に落ちてきて、それを掃うのに手間取っていたら、お兄ちゃんが、あいている方の手で、頭についた月下零を摘み取ってくれながら、静かに言った。


「お前の髪は、月下零の様に眩しいな」


その言葉が、とっても、とっても、嬉しかった。


だから、私はまた、お兄ちゃんを見上げてにっこり笑いながら、


「――お兄ちゃん、大好き」


そう言って、抱きついたの。










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