< されど主公は諦観に嗤う 2 >





「――深度N46」
『異常ありません』

ローサは呟いた。
呟いたと言っても、それはスピーカーという媒体を通しての声である。実際彼女の頭部はモニタリング装置で覆われ、後頭部からは幾束ものケーブルが垂れ出し――……
全身の力を抜き、寝床であるその場所に横たわる彼女の姿は仮死状態の様な姿。

ガンダ・ローサ活動総本部ビルの地下に張り巡らされた電界領域は、得も言われぬ作動音を立てながら、ローサをその巨魁なるダイヴィングベッドの中に収めていた。それはまるで鋼鉄の揺り篭。

物心ついた折よりローサを見守り、近しい場所で生きてきたリーベルにとって、そんな彼女の姿はとても安心してみていられるものでは無かった。

(ガンダ・ローサの総統であられるローサ・ハーテムが、あの混沌の街へ意識を潜入させるなんて――)


身体からの意識剥離に慣れず、尚且つそれに恐怖を覚え錯乱する者が、仮想世界で意識を他者と混濁し、自らの身体に完全態で帰還できなかったという事例は後を絶たない。確かにローサはダイヴィングの練習をしてきたが、本格的に潜るその初日がよりによって蜃気楼の神経回路ナーヴ・システムとは!

リーベルの落ち着かない様子に、父親であるリードはため息をついた。

「お前がそんなでどうするんだ」
「しかし、父上――俺は」

リーベルの黒髪をぐしゃりとやりながら、リードはローサに問う。

「深度N77、ローサ様いかがでしょう?」
『大丈夫。離脱が始まりました』

ローサの言葉一つ一つの調子を、リーベルは耳に刻む。
潜入時間は、時間にしてほんの数分。安全を考慮しての最低限の時間内で、彼女はあの不眠のスラムに意識を潜入させ任務を果たす。
それがどんなに危険で、どんなに無謀で――どんなに、彼自身の心を締め付ける事なのか。
ローサ・ハーテムがそんな彼の葛藤の全体を察することが出来る訳も無い。
貴方はただ、あの部屋で笑っていれば良いのです、昔そう彼女に言えば、悲しそうに笑っていた。
私が止まれば誰かが前を歩いて傷つく。ならば、私は常に皆の前を歩いていたいのです。
そう彼女ははっきりと言った。

『――リーベル……聞こえますか、リーベル、』
「は、はい!」

突然の呼びかけに、リーベルはハッとする。

『傍に居てくださいね。私の意識が身体に戻った時、トナ…に、居テ――』

「……ローサ…?――ローサ様!!」
「静かにしろ。深度N80を超えた。意識が離脱しただけだ」

霞む彼女の声にあわてる息子の肩を押さえ、リードは至極冷静に言った。
最早彼女の様態の安全を把握できるのはモニターの数値のみで、彼女が、蜃気楼の神経回路ナーヴ・システムへ無事潜り込めたのか、果たして無事に帰ってこれるのか、知る者は彼女しかいない。

リーベルは、首から下げたガラス石の飾りを握り締めた。
彼女が、無事あの不浄の世界から戻ってくる事を信じて。

それは過去の淡い思い出、固い誓い。



















浮遊感、離脱感。
自分という意識を持ちながら、身体の本体から抜け殻として剥がれていくような感覚。
――体温と同等の微温湯に浸かっているような、それは奇妙で心地の良い空間である。

一度電子の海に浸かりきった者がそのまま這い出ることを拒否し続ける、いわゆる境界錯誤が世間で問題となっているのが少し分る様な気がした。

疑似体験とは全然違う。
多少の浮遊感は似ていても、この、何とも言えない感覚――

ローサは、奇妙な感覚に慣れようとしながら、未だ真っ暗な闇を見渡し目をぱちくりさせた。(とは言っても、電子世界の中で、であるが)

「……領域、S-50に接続コネクト

S-50。
それは即ち、あの不浄の島――蜃気楼の神経回路ナーヴ・システム領域。

「父上、どうか、御加護を」

願わくば、私に力を。
非力な私に、あの巨大な無法地帯の人々を救う術を、知恵をお貸しください。

それが苦痛を伴うものであっても私は構わない――

「アドレス、220.56.019」

意識を集中させて、己を巨大な海へと泳がせる
そして訪れる、暫くの無音。そして相も変らぬ闇。

(――情報が正しければ、)

「これで繋がるはずですが……」
「何処に?」
「!」

突如視界が開けた。
まぶしさに顔を覆い、思わず目を瞑る。

足がどこかの地に付いた感覚がした。


「いらっしゃい、一見さん?」

軽快な声。
ローサが目を開ければ、己の身体はいつの間にか、墨に塗されたよう手の指からつま先まで真っ黒。思わず頭に手をやると、普段靡く瑠璃色のそれは何処にも無い。足を着くそこは、真っ白なタイル。いや、部屋全体が真っ白で、それでいて何処までも続く――

「あ、……」
「デフォルメよ、デフォルメ」
「ここは全員黒尽くめさ」
「まあ、ゆっくりして」

口々に聞こえる声に辺りを見渡せば、幾人もの真っ黒な人形達。
皆で輪になり、中には気ままに寝転がっている者も居る。
ざっと見て十人くらいだろう、皆がローサの方を向いて手を招く。

「ここは……」
「何、あんた、もしかして迷子?迷子でこんなとこに潜ったの?」
「ええ、まぁ」

有耶無耶に頷く。

「まぁ仕方ないだろう。座れば良い」
「あの、ここは」
「S-50の220集合体。その中の、コミュニティーサイト」
「五番街専用サーバーにある談話室みたいなもんよ」
「っ、」

(五番街!)

その名はつまり、この仮想空間が、目標である蜃気楼の神経回路ナーヴ・システム領域である事を示すもの!
ローサは奥歯をかみ締めた。
思わず漏らしそうになった声を無理やり押さえ、表情の無い黒人形ということも忘れ笑顔を作ろうとする彼女は、初めて側近の居ない中、自分だけで不可侵の巨大スラムに触れようとしているのだ。


「初めまして。お邪魔します」
「此方こそ。あんた、名前は」
「クライシス」

予定通り。
順調に、考えていた偽名を述べる。
だが回りは気づかずとも、確実に声は震えていた。


ローサ・ハーテムは、蜃気楼に生きる者と、生まれて初めて言葉を交わす。


「クライシスねぇ。面白い名前」
「貴方達は」
「私はアロノス」
「僕はヤマセ」
「俺は、ノゥシェル」


明るい口調で、名を述べる。
どうせ電子の海、どれが本当の名なのか分る術も無い。
笑って口々に言う名を聞きながら、ローサは胸に手を当てた。

姿も分らぬ他人同士。
住む世界は確実に隔たれ、環境も、価値観も、恐らくは全てが自分と逆であろうと、そう思っていた――いや、現にそう思っている人々。

リードからいつも聞いている。
彼らが住処とする蜃気楼が、如何に最低水準の環境で、如何に人々が飢え苦しんでいるのかを。
彼ら住人の声を聞かぬ祗庵の者達が、如何に傲慢不遜で、如何に幼き子供達の頬を濡らしているのかを。そして、それを改善せんと交渉に行くガンダ・ローサの者達を、如何に残酷に葬っているのかを――

それなのに。
毎日、苦しみと痛みを与えられている筈なのに。

貴方達は何故、この都市で笑って生きていられるのですか?







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