< 謡え、狂い世の理よ 1 >
「物騒な話だなァ」 煙草の火を燻らせながら、シド・マーティンは呟いた。 腕を組みながら寄り掛かるその壁には薄汚い落書きと、結露の水滴、干からびた泥が付着し、街の不衛生さを物語る。 そんな湿気った裏路地で煙草を吹かしながら、彼は詰まらなさそうに舌打ちをした。 「何だってそんな面倒な事を」 「暇つぶし」 飄々とした返事は、シドの頭上から降ってくる。 倒れかけた電柱と、それが凭れ掛かった古びたボロアパート。その襤褸住宅のベランダ(勿論今は誰も住んでいない)に楽しそうに足をかけながら、心底楽しそうな声が陰鬱な路地に響いた。 「だって最近やる事無いし。シドだって暇だろ」 「お前程じゃねぇよ――トリス」 シドは煙草を地面に投げ捨て、容赦なく踏み潰した。 苦い紫煙を吐きながら上を見上げる。 トリス・アーノルドは、まるで退屈そうな子供の様に、切れて配電止めになった電線を弄ぶ。 「いっそ感電して死んじまえ」、そう貶すとトリスはうざったい髪の合間から酷く残酷な瞳を細めた。ああ、早く髪を切れと言っても彼は畢竟いう事を聞かないのだ。 その鬱蒼としたインディゴの髪を揺らしながらトリスは笑う。 最早、その様は狂人だ。 「感電死?そんなのオマエ一人でやりな」トリスは口汚く言う。「焼けたらその肉喰ってやるよ」 シドは、馬鹿げている、と苦笑してトリスに下りてくるよう促した。 「で。どうせお前のことだから、単純な思考が浮かんだだけで細かい計画なんて俺に任せっきりか」 「分かってんじゃん」 「テメェ、そろそろ本気で殺すぞ」 言うが早いか、シドは腰元から銃を引き抜くと、襤褸アパートで高笑いをしている男に向けて引き金を引く。 ――キィン……、と、鉄製のベランダを掠める銃弾の音。 しかしその場には、やはりと言うべきか、先程まで暇を弄んでいたトリスの姿はもう無かった。 「……、馬鹿が」 「馬鹿はテメェだよ」 シドの頬を切先が掠めた。 辛うじて深手を避けるも、頬の傷からは鮮度の良い血飛沫が飛ぶ。 いつの間に居たのだろう、シドの傍らで鮮血垂れるカーブナイフを構えながら、楽しげに肩で笑うトリスが居た。 いつもこうなのだ、この男は。 人の神経を逆撫でする事を言っておきながら、いざ殺意が芽生えれば待ってましたとばかりに血を望む。 ……間違いなく、“この街”に望まれて生まれてきた男だよ、お前は―― シドは最早戦意無く銃を仕舞うと、疲れた、と首を廻した。 「――で。いつやるんだ」 「何を?」 「何をじゃねぇよ馬鹿が。お前が言った“暇つぶし”だ」 「ああ、それ。出来れば今日明日」 「急過ぎる」 シドの言葉に、トリスは気味悪く口端を歪めて笑った。 「楽しい事は、早くやりたいんだよ」 はいはい、とシドは肩を竦める。 「……噂通りのその女が居りゃあ良いけどよ」 「居るんじゃないの?何か、隊長も言ってたし」 「そりゃあ、お前、あれは隊長が暇つぶしに適当言っただけかも知れねぇだろ」 「――傷口に触るだけで、血が止まる力」 「“治癒能力”」 「そう、それ。そんな力、あったら見てみるだけ見てみたい」 「で、それを持つ女が居たところで何で誘拐までしなきゃならないんだ?」 そこなのだ、シドが引っかかるのは。 突拍子も無くトリスが言い出した「暇つぶし」。 ――どこぞの街に、治癒能力を持つ女が居るらしい。 夢物語のような話だが、どうやら信憑性も高く、何よりその力には興味がある。 どうせやる事も無く暇だから、その女をこの街まで引っ張って来ようという、言うなれば誘拐…… いや別に良いだろ誘拐までしなくても。 適当にテメェの肉でも切り裂いて、目の前でその傷治して貰えば良いんじゃないのか? シドの思惑を汲み取ったのか、トリスは馬鹿にしたように笑う。 「オマエ、怖いの?」 「死ね。それかぶっ殺す」 「ただの暇つぶしだって言っただろ。そんな女、本当に居たらこの街連れて来て俺等の怪我でも治させようよ。俺、専属の看護婦さん欲しい」 「……テメェの趣味じゃねぇか」 シドは最早言う事無く、あとはトリスの意向に任せると言ったように首を振った。 満足げに咽喉で笑うトリスだったが、不意に思い出すように、 「あれ、でもその女。どこの街に居るって隊長言ってたっけ?」 「……無計画にも程があるぞ」 シドは顔を顰める。 「――五番街だよ」 言うなり、胸元から煙草の箱を取り出した。 再び一本咥え、火もつけずに口で弄ぶ。 「街頭人に追われて死んだ所で知ったこっちゃねぇぞ」 「は、何を今更……その女、居ても居なくても、他の街に行くってだけで良いんだし」 遠足を控える子供のようだ、トリスは嬉しそうに目を細めながら血のつくナイフの切先を指でなぞった。 「八番街から出るのは、久しぶり」 それを嬉々として受け止めるのは、彼らの他恐らく誰も居ないだろう。 ********************************************************************* 買ってきた缶コーヒーは温くなって、もう美味しさの欠片も無い。 中身がまだ半分以上も余っているのに捨てるのは如何なものかと思いつつ、屋上から降りてすぐの塵箱はどこだったかと思い出したり。 シンディアは気だるい午後を惰眠に費やすことに決め込んでいた。 同じく現在非番のハルナは談話室で寛いでいる事だろうし、アンル・オゼットに限っては関与する所ではない。 せっかくの非番、せっかくの昼寝。 空の雲は疎らで風は聊か生温い。 街頭人宿舎の屋上は彼以外の人も居なく、大変心地よかった。 そっと瞼を下ろす。 寝返りをうってコーヒーを零したら、まぁ汚してしまうがそれはそれで良いだろう。 故意に捨てられるより事故で零れたほうが、温いコーヒーも本望ってやつだ。 うとうとと、そんな事を思えば……不意に屋上へ向かってくる、誰かの足音。 ああ、残念。 出来れば今日は、貸切にして欲しかったんだ。こんな気分穏やかな日はまたとないと言うのに。 喧騒や物騒はそれはそれで落ち着くが、何もせずにこうする時間も気悪く無いんだよ…… そんな事を思いながら、軽い足取りで此方へ向かう“誰か”に意識を奪われる。 その足音は、階段を上りきると、こんどはシンディアのほうへ静かに向かい始めた。 おい、やめてくれ。誰かは知らないが俺は眠くて、 「シンディア、危ないわよ」 途端、その声に全てが吹き飛んだ。 ふわりと鼻を掠める、消毒液の匂い。 瞼を閉じたままでも分かる、上に覆いかぶさる影。 シンディアは一度下ろした瞼をそっと開けた。 「レイチェル」 静かに彼女の名前を呼ぶ。 その声は、震えていたかもしれない。 「そのまま寝たら、缶、倒しちゃうわ」 少女は微笑んだ。 癖のある、柔らかいシルバーピンクの髪。 普段は邪魔にならないよう纏め上げているそれを下ろし、風に靡かせながらも耳にかける仕草は女らしい。 甘く、見る者を必定癒すその表情はシンディアを優しく覗き込み、諭すように穏やかに語りかける。 シンディアは目を細めた。 「……仕事は、」 「今は休憩。フロルドがね、疲れているだろうから屋上で休んできなさいって」 (あの薮医者が、) シンディアは心の中で悪態づいた。 きっと、あの心底愉快犯な薮医者は、俺が屋上で一人休んでいるのを知っていたんだろう。 余計な気まで廻して、かえって迷惑というもんだ―― そうは思っても、彼は結局、目の前に現れた少女を煩いなどと思う思考を微塵たりともしなかった。 理由? そんな、理由など。思いつけば限りなく思いつきそうなものだが、それを考える事は自然とやめる。 シンディアはゆっくり体を起こそうとするが、レイチェルはそれを留めた。 「良いの、寝ていて」楽しそうにクスッと笑う。「私、隣に一緒に寝るから」 それを聞いてシンディアは、思わず目を見開いた。 (馬鹿、何を考えて) そんなシンディアの思いを無視し、レイチェルはワンピースの裾を整えながらシンディアが寝そべる隣に座ると、軽くコンクリ上の小石を払いながらとうとう横になってしまった。 緩いウェーブの髪が、頭の下で組むシンディアの腕に少しかかる。 「――」 馬鹿か。 こんな状態で、眠れるわけないに決まってるだろ。 アレだ。貴方とハルナじゃ訳が違うんだ―― そんな声は声にならず。 シンディアは意味も無く息を潜めて、固く目を瞑った。 「ねぇ、シンディア」 「……何ですか」 「どうして私には敬語なの?」 咎めるような口調ではない。 しかし、それは明らかにシンディアへ明確な返答を求めていた。 「私は、ハルナやシンディアと同い年よ」 「しかし、俺と貴方は同等ではない」 呟くようにシンディアは言った。 風は穏やか。屋上には、下で人々が笑う声が聞える。 「貴方の父親は幼い俺の命を救い、貴方もまた幾度と無く命を救ってくれた。だから尊敬している――ただ、それだけです」 「私はあなたの事、親友と」 「俺は言わば貴方の護衛だ」 はっきりとした口調で言い放った。 「だから、自ずとこのように」 「シンディア。シンディア・レナード」 「何ですか、レイチェル・フィーネ」 かの大孤児院の令嬢殿。 「私、貴方に恩を売ろうとした事なんてない」 「俺が勝手に買っているだけです。父上のロデア氏にも同じ事を言われましたし、同じ事を言いました」 「……私の護衛だなんて、シンディア、」 「それも俺が買って出たこと。貴方が気に負う必要は無い」 その言葉に、レイチェルは上半身だけ起こした。 「シンディアは、私を守ってくれるのね。無償で、」 彼の顔を見ずに言う。 「小さいときからそうだった。そして、これからも?」 「そうです」 「それは、友として?」 「尊敬する方として」 ――シンディアの言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。 レイチェルはそれ以上何も言わず、ふぅと溜息をつくと、シンディアの傍らにあった缶コーヒーを手に取った。 「冷めてますよ」シンディアが言うと、「良いの」と微笑み返す。 両手で包んだそれに口をつけ、中身を少しばかり飲むと、彼女は静かに缶を置いた。 「――不味いでしょう」 「いいえ、美味しいわ」 「そうですか…………いや、あの、…あまり、そういう事はしない方が良いのでは」 「え?何を?」 きょとんと目をぱちくりさせてレイチェルは問い返す。 (いや、だから、……ああ、もう良い) シンディアは自棄になって再び目を瞑る。 もう開けない。 俺は眠るぞ。眠るんだ。 天然少女の扱いは疲れる、そう理由付けてシンディアは、小声で呼びかけるレイチェルを無視し続けた。 「……寝ちゃったの?」 そんな訳あるか。 「残念。もっとお話がしたかったのに――」 俺は無い。無いから、早く、その近距離の視線をどこかに外してくれ…… そう願うシンディアの額に、温かく柔らかいものが触れた。 「おやすみ、シンディア」 優しい呟きと共に、温もりは離れていく。 ――……。 シンディアは額の熱に意識を奪われ、眠気なんて何処へやら、寧ろ必死に頑なに目を瞑ることすら覚束ない。 そんな彼の気も知らず、彼女からしてみれば挨拶代わりに相違ない額への口付けに満足し、足取り軽やかに屋上を去っていく―― と思いきや、再びシンディアの隣に横になった。 (……行け、行ってしまえ) 医務室にでもどこへでも、去っていってくれ。 こんな状態で隣に寝るな、どんな神経してるんだ、もう、何もしないでくれ、 混乱しそうな葛藤を、それでも無表情無動揺で繰り返すシンディア・レナード。 彼が有意義な非番の時を過ごすのは、限りなく不可能に近い。 「また僕の勝ちです」 「!うわー、腹立つ!限りなく腹立つわ!」 ハルナは思わず目の前の正方形板をひっくり返しそうになった。 宿舎一階の談話室。 非番の街頭人や、仕事疲れの街頭人、時間待ちの街頭人がそれぞれ暇を持て余し他愛も無い会話を飛び交わす、いわば癒しの間。 そんな部屋の片隅でハルナは、せっかくの非番を喰うに喰えない新人殿と過ごしていた。 テーブルを挟みソファーに座りあった二人が見つめるのは、オセロゲーム。 二色の丸く平べったいチップを裏返したりなんかしたりして、結局自分の領土を広げていくゲームである。 単純且つ明快。 ハルナはすでに10回以上アンルに勝負を挑んでいるが、一度として勝つことが出来なかった。 磁石がはめ込まれたチップを集めながら、アンルがにっこり微笑む。 「どうします、まだ続けますか?」 「……」 「ハルナさん」 「……――あー、もう分かったわよ!ギブアップ!アンタには敵いませんよ!」 両手をあげながらボスッとソファーに倒れこむ。 疲労困憊しつつも悔しそうにソファーを殴るハルナの姿を楽しそうに見、アンルは顔を綻ばせた。 「ハルナさんは、戦略を考えるのが苦手なんですね」 「そうよ。いつも後先考えず突っ走るもの」 「怖いもの知らずだ」 「うだうだ難しいこと考えるのが苦手なのよ。それでいつもシンディアに怒られる」 顔を顰めるハルナに、アンルは、 「そういえばシンディアさんはどちらに?」 「そう言われれてみれば、見ないわね。まぁどうせ医務室にでも顔出してるんじゃないの?」 「医務室って、どこか怪我でも?」 「あー、違う違う。そうじゃなくて、医務室に幼馴染がもう一人居てね。ま、シンディア、その子の個人的な護衛をしてるって言うかなんていうか」 「護衛ですか……お偉いさんで?」 「その言い方は微妙ね。見る人が見れば偉い、何も知らない人が見れば偉くも何とも無い」 「で、誰です」 「レイチェル・フィーネ。かのフィーネ孤児院創設長の一人娘で、この五番街支部医務室の天使」 ハルナは片目を瞑った。 「見たらアンタも惚れるかもよ?」 「医務室の天使、にですか」 アンルは肩を竦めた。 僕は天使というより悪魔みたいな子の方が好みだなぁと言うアンルの戯言を無視しつつ、ハルナは指を立てる。 「それに、後々お世話になるかもしれないんだから」 「何に」 「彼女のチカラ」 首を傾げるアンルに、ハルナは、 「彼女、稀に見る特殊な能力持ってるの」 即ち、「治癒能力よ」。 |