< 明けし幻影、その跡・前編 >
ゆらり、一つの影が舞う。 それはそれは、街を飛び交う赤の守護神。 その負死の神を見えんとする者は、必ず其処で死を招く。 逃げる男とて、そう、勿論そんな迎合の例に漏れず。 後方から迫るであろう死の影が―― まさに今、男の襟首を掴み冥界の死者へ突き出そうとする者が、すぐ傍に迫っている。 「…は…っ……っぁ、…――」 哀れ。しかし、彼の選んだ道。 己の確固たる信念を持った男は、その信念に足を掴まれた。 白き信念、白き世界。 眩いばかり、穢れ無き純粋な白を求めていた。 それは、アメニティのある大地。我等の生が解放される楽園。 (自分こそが、あの御方と共に、この地獄の底を穢れ無き世に帰るのだ!) そう彼が意気揚揚と乗りこんだ地獄の底は、甘んじた妥協を示さなかった。 頭上から聞こえる音――死神が、降ってくる。 「―――っぁ゛…!」 賛美歌も。 哀れみの詩も。 彼の躯を抱く者も無く。 天を仰ぐ寸前に、男は絶えた。 赤き麗しのその守護神。手にした剣は、時代錯誤のアナクロニズム。 その切先を血肉に突き刺し、男の身から魂を剥ぐ。 それが生業、それが生きる全ての理由。 死に絶えた侵入者の身体は、だらりと項垂れ汚らしい泥に塗れる。 その穢れは、何より死者が忌み疎んでいた物ではなかったか? 赤い瞳をふっと細め、守護神は剣先の血を眺めた。 そこにあるのは真紅と辛苦。 彼は、ふと、浅い吐息を吐く。 その身体に流れるのは、己の血か。はたまた数え切れぬ侵略者の血か。 ――今では、何もかもが分からなかった。 ************************************************************** 「……寒い」 ハルナ・アカツキは肩を抱いた。 夜明け。薄明かりで青白む室内。 何年も住みなれた宿舎の自室で、彼女は寒さに肌を粟立てた。 辺りは静かだ。 早朝というのは蜃気楼の中で、出歩く者が最も少なくなる時間帯なのだ。 昼間の働きを糧とする者はもうすぐ目を覚ます時刻であり、深夜宴に興じ生業に勤しんだ者は深い眠りに落ちようとしている。 冷たく咽喉を刺す朝の空気。 不気味な程しんと静まり返ったこの時間帯がハルナは何より嫌いだった。 静寂よりも喧騒。 平穏よりも物騒。 それは、或る意味習慣的で、当然の感覚かも知れない。 この街に住む者の殆どが、人種も、民族も、何一つ共通点の無い者達。 統一や安定などというより良い暮らしの代名詞は、彼女等にとって神より遠い位置にある。 ハルナとて、シンディアとて、その例外では無い。二人は互いの人種も、親の国籍も、己等の出生に関する何もかもを一つも知らない。 彼等は孤児だ。 過去の汚染事故で一転、形骸と化した街――蜃気楼。 そんな廃墟に流れ込んだ移民、政治犯、法の手を逃れん為に潜り込んだ殺人者。 そんな、無造作に掻き混ぜられた泥水の様な世界で、最も憂き目に遭ったのは次々と捨てられた子供達だった。 無法は時に自由で、時に残酷な結果を招く。 子供達には守ってくれる親も無く、法の庇護など微塵もない。 だから、塵を漁って飢えを凌ぎ、暴漢や身売り業者の手を逃れながら日々を生き抜いて大人になるのは必然だった。餌の取れない野良犬は死ぬ。捕獲された野良犬も死ぬ。 常に危険を隣人とし、常に異常を正常として捕えてきた。そんな彼等にとって、静寂は未知の恐怖として襲いかかるのだ。 「――寒い」 もう一度呟き、彼女は毛布に包まり身体を抱き寄せる。 昨日は深夜まで遅番の見まわりをし、身体は疲労感に溢れている。 あと小1時間もすれば宿舎内は同僚の笑い声と食堂の慌しさに包まれるだろう。 それまで、少しでも身体を休めていたかった。 加えて言えば、この静寂に耐えられない。 これが彼女の本音だったかもしれないけれど。 しかし、その安眠への一歩を妨害したのは、ハルナの耳に入りこんだノック音だった。 ――コンコン、と、二回連続叩かれるドア。 (うるさい、) ハルナは目を瞑る。 今日の見張り番は昼間からでしょうが。 少しくらい、寝させて頂戴…… 眉間に皺を寄せてあくびをし、ハルナはだんまりを決め込んだ。 しかし、彼女の意に反し止まらないのはノックの音。 続いて聞こえたのは、聞きなれたも聞きなれた、他でもない相方――シンディアの声だった。 「――ハルナ」 機嫌を伺うかのような、ひっそりと、しかし朝の空気にすっと通る声。 「悪い、起きてくれ」 「……」 「ハルナ、起きてるんだろ」 糞、バレバレだ。 ハルナは気だるい身体を起こし、体温が移った毛布をずるずる纏いながらドアへ歩いた。 寝癖直しも身繕いもせず、がちゃりと部屋のドアを開けた。 「……何よ」 「不機嫌だな」 当たり前だ、と半開きの扉からハルナは睨む。 凍てつく銀髪を綺麗に整え完全に目を覚ますシンディアから見て見ればキツい睨みも、寝ぼけ面以外の何者でもない。 「見張りは昼からじゃないっけ……?」 「仕事じゃない。別に起こさなくても良かったんだが、起こさなきゃそれはそれでお前が怒ると思ってな」 「一体何事?」 「昨晩、ソノラが出た」 聞いた途端、ハルナはドアをバンと開けてシンディアに飛びついた。 「い、いいいいつ!何で!どこに!」 「……おい、お前先に着替えて」 「着替えなんて後回し!ほら、さっさと教えなさい!」 シャツ一枚に下着姿。 いくら幼馴染のシンディアでも、若き青年にハルナの姿は酷だった。 (私の裸なんて幼少の時に見慣れてるでしょうが!というのが一応のハルナの主張だ) 「昨晩から今朝にかけての行動――鋭利な刃物でガンダ・ローサを背後から仕留め、死体の背中には祗庵の紋章が刻まれた痕。ほぼ間違いないだろ」 「死体は?」 「朝番の連中が回収して火葬場行き。一応付近の捜索もしたが、ソノラの痕跡も証拠も何も見つからなかったらしい」 シンディアは宥めるように掴みかかるハルナの両腕を静かに外す。 「お前、朝から無駄にテンション高い……」 「アンタが低いのよ万年朴念仁」 「朴念仁は関係ない」 彼女の右手首を掴んだまま、空いた手で頭をグシャグシャ押しつぶす。 顔でも洗ってさっさと起きろ。それか寝直せ。 テンションの高さと逆に疲れたような目をするハルナを、シンディアは黙って見下ろす。 と、そこに、 「あれ、シンディアさん。一体そこで何してるんです?」 気の抜けて尚且つ朝の耳には心地良い声。 穏やかで柔らかい口調の青年が、廊下の向うから歩いてきた。 ――アンル・オゼット。 つい最近この支部に入った、新米街頭人。 彼もまた寝起きなのだろう、いつもは結わえている肩まで伸びた黒髪を下ろし、私服で暢気に歩いてきた。 「夜這いですか?」 「こいつに這う暇あったら仕事してるよ」 「いや、今はもう朝だから朝這いか」 「話を聞けよ」 シンディアはハルナの腕を完全に解放すると、床に落ちた毛布を拾い上げてやる。 「――という訳だ。悪かったな、一応知らせとこうと思って」 「こんなの、何ヶ月ぶりだっけ」 「三ヶ月ぶりだな。前は、五・六人まとめて殺られて見つかったが」 「何の話です?ねぇ、何の話?」 「ソノラ・クロノイド」 シンディアの肩を掴みながら煩く問うアンルを払いながらシンディアは答えた。 「ソノラ・クロノイド?“五番街の守護神”、ソノラ・クロノイド?」 「イエス!あの人が、昨晩またやってのけたのよ」 ハルナは毛布を体に巻きながら満面の笑みを浮かべた。「流石、我等が隊長殿ね」 「“燃える様な赤い髪に赤の瞳”」 ふざけたようにアンルが言う。 「“時代錯誤な剣を腰に携えながら、神出鬼没に侵入者を始末する”――通称、五番街の亡霊ですね」 「亡霊だの幽霊だの、そんな議論はナンセンスよ。だって、彼は実在するんだもの」 「憶測、推測、噂だけが空に昇って誰一人彼の尻尾を掴んだものは居ないのに?」 「街頭人のリストには登録がある」 シンディアの言葉にアンルは肩を竦めた。 「ふざけた街頭人が架空の名簿を作っていたら?」 「それは無いわ。だって、私――彼に会った事があるもの」 「所詮は誰かのおふざけ……すみません、ハルナさん今何て言いました?」 「だから。ソノラ・クロノイドに会った事があるのよ、私」 ……。 数秒、面白いほどの沈黙が流れる。 「……新手のギャグですか」アンルは引き攣る。「ハルナさん笑いというものはある程度の捻りも必要だって知ってます?」 「アンルの笑芸雑談を打ち切って悪いが、こいつはいたって大真面目だ」 「だって、今時ソノラを見ただなんて老齢認知不完症のご老人ですら言いませんよ」 アンルは壁に寄り掛かって溜息をし、シンディアを見た。 「ソノラ・クロノイド。20年前、当時勢力を伸ばしていた“快層都市創造機関”――現在ではガンダ・ローサに改名――と蜃気楼とが衝突した折に活躍した、祗庵の幹部。記録には、その衝突の際に“殉職”とあるにも関わらず、不思議な事に後々蜃気楼五番街の街頭人支部隊長として登録されていることが判明」 アンルは人差し指をくるくる廻しながら、一人呟く。 「不定期に街に現れては、侵入者を始末し颯爽と去っていく気まぐれな隊長殿。死体の体の一部には、彼が刻んだと思われる祗庵の紋章が刃物で刻まれ――……それが、唯一彼という人物をの主張する証となっている……」 「今朝見つかった死体にも、それがあった」 「それはそれは。――で、ハルナさんにご報告ですか」 アンルは戸口でまだ眠そうに立つハルナを見た。 「いつ、ソノラに会ったんです」 「数年前」 「何故、その人がソノラだと」 「顔は見えなかったけど、赤い髪に鋭利な長剣。何より颯爽としたあの雰囲気。あれは、絶対ソノラ・クロノイドよ」 「名乗った訳では無いでしょう」 「……随分と否定的ね。でも良いのよ。私、隊長がこの街のどこかに居ると思えば、何があっても頑張れるもの」 アンルはその女のような細い体で背伸びしつつ、退屈そうに彼女を見た。 「まるで恋する乙女ですねェ」 「そう?私は仕事が恋人よ」 「どこのキャリアウーマン……」 「でなきゃ、やってられないわ」 年頃の娘が、こんな男だらけの職場で毎日死体と血と泥水に囲まれながら息を切らして街を跳ぶ。 確かに、仕事に対する執着がなければこんな仕事やってられない。 「ソノラ・クロノイドが生きていたら御歳四十歳超えですよ。ハルナさん、年上がお好みで?」 「悪くはないわ」 ハルナは言うと、アンルに指差して言った。「酸いも甘いも経験してない子供よりはよっぽど好みね」 「それって僕の事ですか?」 「まさか。世の中の年下全般よ」 「なら安心だ。僕はこう見えてもハルナさんより三つ上ですからね」 片目を瞑って、アンルは壁から背を離すと再び廊下を去って行く。 「……三つ上だって」 「詐欺だな」 「うん、詐欺ね」 ある意味下手な女性よりも小奇麗な顔をしたアンルを、二人は朝の寒さに身震いしながら見送った。 ******************************************************************** 外に見える風景は、何もかもが昨日と同じだった。 少女は、その落ち着いた瞳で頑丈なガラス窓の向うを見つめた。 公共道路の上を流れる、途切れぬ車。 まるで無言の大衆のように、ただ不衛生な廃棄物質を尾から曳き、誰も彼もがそれに気付かず鉄の塊を乗り回す。 彼女は顔を悲痛に歪めた。 真夏、南国の青をそのまま髪に塗したような流れる髪を耳にかけ、 「リード」 美しく、空気に溶ける様な、しかししっかりとした意思を含む声で少女は言った。 「リード、あれを」 少女の後ろに立っていた男が、窓に近付く。 彼女の父親とも思われる年齢の男ではあったが、彼等の間柄はそうではなかった。 男は、少女に敬意の眼差しを送り、少女は、男に敬愛の眼差しを送る。 「あれを廃棄する法案は、いつ施行を」 縋るわけではない、諭すような言葉。 「もしも、あれがこの土地を汚し続けると言うのならば」少女は続けた「この地に生まれる幼子達を、神はきっと歓迎いたしません」 リードは彼女の肩に手を置いた。 「――また、“叫び”が?」 「えぇ、朝方、胸を締め付けるような痛みと共に」 「――それは……」 リードの顔が顰められる。 「永劫貴方を苦しめるものでは御座いません。安心なさい、貴方の働きで、少しずつ、この地は清浄へ向かっているのですから」 「私は満足など出来ません。私一人の叫びでは、この世界は変わらない。この世に生を受けた、全ての方々が、自らの生きる世界を模索しなくては」 少女は瞼を伏せる。 「現に、この街を汚す汚染物質の対処すら満足に行えていない」 「法改正までこぎつけただけでもご立派です。貴方の行動が無ければ、この国はほんの一つも変化しなかった」 「この国は……シャクドウは、美しくあり続けて欲しい。誰もが笑っていられるような、そんな国に。隣国のオウニとて、それは同じはず」 「その通り。ですが、……オウニとの摩擦は、今は避けて頂きたい」 「――あの島が原因ですか?」 少女は男を見上げた。 「不浄を糧とし、血を、人の死を平生と受け入れ生きる、あの、不可侵の島に成り立つ廃墟都市郡――……“蜃気楼”」 指先で窓に触れる。 ひんやりとした冷たさが、少女の細い指に伝わった。 「私は、あの島が分からない」 独白の様に言葉を紡ぐ。 「何故、私達の声に耳を傾けようとさえしないのか。何故、此方の申請を尚も拒み続けるのか――……あの島は、元はシャクドウの領地だった。事故により一度島が汚染され てしまっても、それを不毛の地とせず新たに作り直せば、彼らとて快適な生を送れるはずなのに」 「あの島に関しては、オウニも所有の主張を繰り返しております。下手に動いてはなりませんぞ」 「分かってます。だからこそ、私は苦しい」 目から、一筋の涙が流れた。 胸に手をあて、その痛みに眉を潜める。 「私は、苦しむ者の叫びが聞える。その叫びは、夜な夜な胸を抉るような痛みと共に私の体へ入り込む」 「神が与えたもうた力で御座います。貴方へ、世の苦しみを受け止める器になれとの思し召しに御座いましょう」 「選ばれた命――……」 リードは窓の外を見た。 目を細めれば、遠くには湾岸。 そして、青々とした海の向うには――不浄の島を覆う濃い霧の群れ。 「“待たれよ。時が来れば、汝らは天の光をその身に受けん事を”」 彼の呟きに、少女はその霧を見つめた。 『彼女は、指先で裂けば色を変え不治の傷を負い腐敗する熟れた果実の如く柔らかいものを胸の中に抱きながら、一方で、鉄のように強固な意志を持っている』。誰かが、彼 女をそう比喩した事がある。 全ての世を見据え、穢れを弾き、世を壊す不正を許しはしない強固の心。 ――誰もが心に持つ不安、叫び―― 消して万人には聞えることのないそれは、拠り所を求めるように彼女の頭に響き渡り、時として体を戒めるような痛みを伴う。 幻聴。言うなれば、そういうものの類だろう。 しかし、彼女の苦痛は“気の狂い”と称されず、人々から“神の悪戯”と呼び崇められた。 異常とも特殊とも言えるその力を生来にして携え、人々を惹く澄んだ瞳で世を見据える秀麗の少女。 彼女率いる者達は、今日も今日とて白い世界を目指して走る。 ローサ・ハーテム。 十七歳に満ちたばかりのこの少女が、涙を流さぬ日は未だ無い。 |