自らせがんで酒を飲むなどあり得ない。
いや、あり得なかったと言うべきか。

ここ東方領地にそびえる領主の自室で、その部屋の主たるソルディスは頭を抱えていた。

「ねー、ソルディス」

甘えた声を出しながら、椅子の背越しに、背後から首元へ手を回して来るのは他でもない彼の妻、ティナである。

美味しい物好き、甘い物なら更に好き。
煙管やワインといった大人の嗜好など滅多に興味を示さない、寧ろ忌避してやまない彼女が、酔っている。
もう一度言う。酔っている。

まだ政務が残っている彼の邪魔など殆どしてこない彼女がこうして絡み酒をしているのには訳がある。

それもこれも、彼の姉にあたる、ニル・ジェノファリスの誕生日記念と称し、さっきまで身内のみので、ささやかに豪華な晩餐を催した所為なのだ。
祝い事とあっては、当然食事に添えて酒の類も出るわけで。
普段なら酒を嗜む事をしないティナでさえ、グラス一杯分くらいのワインを口にしていた。

たったの一杯。されど一杯。
それがいけなかったのだ。

自分の妻はこれ程酒に呑まれるものだったのかと目を見張る位、ティナの変貌ぶりは凄まじかった。

平生なら、前触れのない抱擁すら恥じらい、極力仕事の邪魔はしない。
うずうずとしながらも、口にする我が侭ですら、周囲から見ても謙虚なもので。
間違ってでも、書き物をしているソルディスの後ろから勢い良く抱きつくなど、誰が予想出来ただろうか。

今思えば、口にした酒は一杯だけでは無かった気がする。
一杯飲んで、時間を空ければまた一杯。好物の果物を口にしながらもまた一杯。ソルディスの記憶が正しければ、最低でも三杯は飲んでいる。
加えて、酒に強い姉君の為にと、今宵振舞われた酒の度数は、いつもより幾許か強めの物を振舞った様な覚えさえある。

早めに気がつけば良かったのだ。
自分の嫁が二杯目の酒を自ら要望したその瞬間に、いつもと様子が違う事を。

「ねー、ソルディスったらー」

自分から甘えてくる事は珍しい。それ自体、悪い気はしない。
悪い気はしないのだが、生憎今は手元の書類を捌く事が最優先なのだ。
仕事さえ残っていなければ、今頃きっと彼女は夫の腕に抱かれながら、隙あれば閨に連れ込まれていてもおかしくない状況にある。
そう、仕事さえなければ、彼だってティナの甘い声に誘われる事だってやぶさかではないのだ。

「・・・・・・ティナ」
「んー?なぁに?」
「一度しか言わないから、よく聞け」
「はーい」
「――大人しく、黙っていろ」

言うが早いか、ティナは更に抱きつく腕に力を込めた。

「嫌!今日は絶対ソルディスと遊ぶの!」

・・・・・・遊びたいのか。

呆れを通り越して遠い目をするソルディスに構わず、ティナは一向に振り向かないソルディスの気を引こうと必死になる。
椅子の背から離れて、今度は左の肘掛から顔を覗かると、空いた彼の左腕に自身の両腕を絡め始めた。同時に、

「ソルディスは、私の事きらいなの?」

言った言葉に、ソルディスは思わず右手の動きを止める。

「ね、酔ってる私はきらい?」

酔ってる自覚はあるようだ。

「そうは言って無いだろう」
「だったら、ねぇ、」

溜息をつこうとした、その時。

「いつもみたいに、チューして?」

――理性の理の字も知らない子供でなくて良かった、と。

平素と変わらぬ無表情のまま、ソルディスは左にいるティナと向き合い、彼女の首筋をなぞりながら、

「いいか。よく聞け」
「んー?」
「大人しく。黙って。そこのベッドで待っていろ」

単語が少し増えた気がするが、ティナは、こくんと首を縦に振って。

「じゃあ、ソルディスの仕事が終わるまで、待ってる」
「ああ」
「ベッドの上で、遊んで待ってる」
「ああ」
「ベッドの上で――ソルディスが、ぎゅーってしてくれるまで、待ってる!」
「・・・・・・ああ」

承諾を貰った途端、ティナは彼のベッドに向かってダイブした。
ギシリと軋んだベッドの音を背にしながら、ソルディスは本日何度目かも分からぬ溜息をつく。


「約束だからねー?早くぎゅ―ってして、チューしてねー!」

「・・・・・・」

最早、仕事などどうでもいい気さえしてきたソルディスが、溜まった書類を捌ききるまで三十分。


そんな夫を余所に、ティナが眠りに落ちるまで、あと、数秒。






( 私の旦那様は、お忙しい! )




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