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「ねぇ待って、ソルディスっ」 小走りに地を蹴るたび、帽子が飛ばされそうになった。 ふわりと浮いてしまわぬように鍔をしっかりと抑えながら、領主夫人は、背を向けてつかつかと先を進む夫を必死に追う。 「ちょっと、ゆっくり歩いてったら、ねぇ――あたっ!」 急ブレーキ、領主の背中に豪快に鼻をぶつける。姫君は急に止まれない。 赤くなった鼻頭を擦りながら、ティナが顔を上げるとまぁ見事に不機嫌な領主のお顔。 ――ティナ。 はい。 一度しか言わない、よく聞け。 「城下に下りたいとずっと強請っていたのは誰だ」 「私です」 「多忙な予定を調整して、そのお前に付き合っているのは」 「ソルディスです」 「なら、お前が取るべき行動は」 「……大人しく、黙ってソルの後ろを歩くこと?」 ご名答。 言って、領主は再び歩き出す。 「でも!なんか、デートって、もっと華やかに喜ばしげに手とかつないで、ねぇ」 「――」 「……もしかして、デートだなんて微塵も思ってなかったりする?」 それこそまさに、ご名答。 溜息ついてスタスタ進むソルディスに、ティナは非難の声を飲み込む。 (ひどい。) あんな事件があって、色々あって、今はこうして一緒に居て、念願の城下街デートが出来て、もちろんウキウキしながらスキップしろなんていわないけれど、もう少し、愛しさの欠片を見せて欲しいと思うことは、それこそ無いもの強請りと呼ぶべきなのか。 (いいや、違う。わがままじゃない。ソルディスだって、もっと私に歩み寄るべき。) (いいえ違うわ、わがままよ、ティナ!) (ううん、違う。ここで負けるな、頑張れ私。) (彼、ひねくれているんだわ。あなたがそれを理解してあげなくちゃあ!) (頑張れ私、負けるな自分……) (馬鹿ね、ティナ。妥協するのよ!) (……妥協。妥協!?) 「それは無理ーっ!!」 何が!? ソルディスと、傍らの従者が訝しげにティナを振り向く。 幸いにも、民衆は姫君の葛藤に気付いていない。 「いきなり発狂するな」 「……手、繋ぎたい」 「却下する」 「……一緒にかわいいお菓子が見たい」 「一人で選べ」 「な、なんて放任主義っ」 これはもう照れ隠しなんてレベルじゃない。一種の虐めか。 少なくとも、恋人や妻に対する態度ではない事だけは明白である。 今までなら、ここで黙って項垂れたまま彼に従うけれど、姫君だって成長する。 小走りだった足はゆるく、脅えがちだった瞳はきっと目の前の背中を見つめて、深呼吸。帽子の鍔をぎゅっと引いて――無理に歩みを早めさせるべく伸ばされた領主の手を、さらりと払った。 それは、決して投げやりでなく、可愛らしい類の仕草には変わりない。 それでも、確かに姫は領主の手を拒否したのだ! 『なんのつもりだ、』 そう怒鳴られる一歩前に、ティナはきゅっと唇を引き結んではっきり回れ右をする。 「もう、いい。やめた。私1人で街を見回る」 「1人だけ一行から抜ける気か?危険、且つ意味が無い。1人で歩き回っても、さして目を引くものがあるとも思えないが」 「ソルと一緒にいても、こんなんじゃ、一緒にいる意味がない」 「どういう意味だ?」 「どういうって――」 言おうとして、その言葉を飲み込んだ。 「ソル、」俯いて、「ソルは、私が望んでいるものを当てるのが下手なのね」 ――ごめん、ソル。私、ヒドイこと言ってる。 顔を背けて、思う。 でも、今日だけ、わがまま言わせて。 領主は、小さく溜息をつくと、頑なな姫君から顔を背けて、 「勝手にするんだな」 一言を置いていった。 ティナが、泣きそうな顔をしているのは、知ってか知らずか、彼女と視線を交えずに。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ そうして後悔するのが、毎度恒例のオチである。 人ごみを避け、落ち着いた雰囲気の路地へ。侍女を従えたその姿は、しかし、落ち着いた色合いの衣装の為、やけに周囲に溶け込んでいる。 「ど、どうしよう、つまんないっ」 思わず愚痴る。それはそうだ、ソルディスと仲良く楽しく街を回って、満足するのが今日の目標だったはずだから。 「姫様、お願いですから戻りましょう」 おろおろとしながら、リィネが諭す。「領主様だって、姫様と一緒に城下へ下りるのを、ずっと楽しみになさっていたに違いありませんもの」 ええ、そうです。きっと、楽しみになさっていたに違いありません。 根拠のないそんな台詞を、さっきから彼女は幾度も繰り返しているけど、ティナはうぅんと首をかしげる。 「本当にそう思う?」 「思いますっ」 「あのソルディスが、私と一緒に城下でアハハウフフと笑って歩くのを、本当の本当に楽しみにしていたと思ってる?」 「そ、それは……、」 「ね、想像できないでしょ?」 ティナは諦める様にため息をつく。 「こうして強硬手段に出たら、ちょっとは追いかけてくれるかな、なんて期待もしたの」 けれど、彼にそうした駆け引きを求めること自体がちょっと無謀だったようだ。 「恋って、難しいのね」 そうボヤいた途端、侍女等がキャーッ!と叫びをあげる。 「恋ですって、恋!姫様が領主様に恋!」 「改めて聞くと何だかトキメキますわ!」 「領主様からの甘いお言葉!」 「秘められた睦言!」 「絶え間ない御寵愛!」 「「もう、たまりません!!」」 侍女の盛り上がりは止まらない。 「姫様。やはり、ここはひとつ仲直りをして、ト・ノドロのほほん散歩祭りでもなされたらいかがかと!」 「こんな快晴に恵まれた日に、喧嘩などなさっては勿体無いというものですっ」 「今ならまだ間に合います。領主様の元にお戻りになって頂けませんか?」 ずずいずいっと迫られて、ティナは少し後退った。 「い、いや。何も、そんなに頑なにソルと仲直りしたくないわけじゃ」 「「それでは戻って頂けるんですね!」」 流石はジェノファリス城お雇い侍女。領主夫妻の仲を保つ為には、どんな手だって惜しまない。 でも、今日はソルディスに折れてもらいたいんだけど。ティナは困り果てる。 「や、やっぱり、今回は負けたくないっ」 「――姫様!」 「ねぇ、ソルディスが本当に心配していたら、下男達に後を追わせると思わない?」 今度は、リィネ達が言葉に詰まった。 そう言われれば、正規の街道から人目を避けるようにして路地裏に入ったティナの後を慌てて追いかけたのは侍女等数人で、他の使用人はソルディスの傍に付いたままだ。暫く歩き続けているけれど、後ろから追いかけてくる様子もなく、ソルディスが此方の心配をしている素振りは微塵もない。 「婦女子を平気で放って置く!そういうところなの、私がソルディスに直してほしい性格はっ」 「先に喧嘩を仕掛けたのは姫様の方だったと……」 「そ、それは、そう、だけど」 咳払いをして、ティナはまたスタスタ歩き出した。 「あ、どちらへ!」 「もともと、ト・ノドロの色んなお店を見て回りたくてお城からやってきたんだもの。せっかくだから、気分が落ち着くまでは適当に店を見て回りましょ」 そうよ、そうよ、忘れるな私。生まれ持ったこの好奇心! 朴念仁の夫なんて、頭の中から吹っ飛ばして、ここぞとばかりに街の中を騒ぎましょうよっ。 何ていうポジティブ。ティナが微笑んで前を振り向いたその時、肩が何かにぶつかる。 「おっと――失礼、お嬢様」 影が立ちはだかった。 見上げるティナの前に立つのは、身なりの良い、貴族の男性。 癖のある黒髪に、紳士、そう呼ぶのが相応しい瞳をしているまだ若い男だった。 目が合った途端にっこり微笑むその人に、ティナは、首をかしげて戸惑った。 妙に親しげだけれども、全くもって知人じゃない。 「はじめまして、お姫様」 「は、はい……?あの」 「それとも、ティナ・ジェノファリス領主夫人、とお呼びしたほうが宜しいだろうか」すっとティナの手を取って、口付ける。「ト・ノドロに暮らす、シャウツガロ一族の者――そう名乗れば、そちらの侍女さん方も安心かと」 シャウツガロ家! リィネが胸を撫で下ろした。 「ああ、姫様、幸運ですわ。城の宴会に幾度か足を運んで頂いた事のある、由緒あるお家柄の貴族の方でございます」 「シャウツガロ家の方々は、確か、貿易商人の幾人かと交流がおありとか。ああ、そうですわ。もしも姫様に城下を案内して頂けたらどんなにか有難い事でしょう!私たち本当に、集っても何も出来ぬ侍女ばかりでして」 「先ほど、揉め事を起こしてらっしゃった姿を眼にしまして」男は、面白げに微笑んだ。「実は、そのつもりで貴女方を追いかけたのですよ。お美しいお嬢様方」 ――“お美しい”お嬢様方! 救世主ってこのことかしら、胸を撫で下ろすリィネの顔には安堵の色。 宜しければ、私のエスコートで、束の間ですがト・ノドロの街をお楽しみあれ―― 恭しく口付けをし、頭を下げ、整えられた頭髪をすぐに帽子の中へ隠すと、男は外套をひらりと翻して、ティナ達を道の奥へそっと促した。 あまりにも慇懃な態度、もの優しい振舞い。どこからどう見ても貴族のものだ。 すっかり安心しきって彼の後をついていく気配のティナに、彼は呟いた。 「噂では、ジェノファリス様は非常に気難しいお方だと耳にします」ふっと微笑み、「此方へ来たばかりの貴方にとっては、さぞ大変な日々をお過ごしでしょう」 それは、ちょっと欲しかった同情の言葉。 思わずティナは、頷いた。 「え、ええ。まだまだお城も慣れない事ばかりで」 「しかし、領主様のお小言が身に染みる日々?」 「そうなんですっ。普段はとことん鈍感なのに、変に細かいことは気に障ってっ」 「まるで正妻ではないようで――」 「私のこと大事に思ってないのかしらって、いつも心配になってしまって!」 「それはそれは勿体無い――こんなにお美しくて可愛らしい、若き姫君を娶られたのに、それを無碍にしてしまっては、男しての名が廃る」 翻って、ティナの手を取る。 「そうでしょう?ティナ・ジェノファリス様」 「はいっ。ええっと、あの……」 「名乗るのを忘れていましたね。セルゲイ。セルゲイ・シャウツガロ。セルゲイで結構です」 (ああ、素敵なお名前!) 侍女等の惚れ惚れとした視線が集中する。 セルゲイが取ったティナの手は、すぐに彼の唇へ運ばれて、軽い挨拶の証となった。 ああこれはまさしく、婦女子の扱いに手馴れた紳士の動き。 「ティナ・ジェノファリス。信じられませんね、貴方の様なお方が、ト・ノドロのこんなに暗く汚れた裏路地にいるなんて」 「物の流れですし……私、結構この静かな雰囲気が好きです。むしろ、ちょっとだけ楽しんでます」 「おっと失礼、それは意外。ふ、貴方は、とても面白いお方の様だ」 セルゲイはティナの手をきゅっと握って、彼女の歩調に合わせて歩いた。 (あ……、)ティナがふわっと感じるやさしさ。これ、この優しさ。(ソルにして欲しかったのは、こういうこと!) 思わずセルゲイを見上げると、鍔の奥に隠れた瞳が、にっこりと微笑んだ。 「あの、シャウツガロ家の邸宅は、この辺りにあるんですか?」 「いえ、屋敷はもっと遠く離れた場所に構えています。今日は領主夫妻がお見えになるというので、遥遥出向かせて頂いたのですよ」 「あ……ごめんなさい、それが、こんなことへなってしまって」 「でも僕は貴方と会えて、こうして歩ける。それは、これ以上になく光栄な事だと思っているのですよ――光栄に、ね?」 クスリと笑ったその光から意図を読み取る間も与えぬまま、セルゲイは前方を指差した。 「ほら、あの店、見えますか――緑色に塗りたくられた――そう、あそこです。あの店は我が一族が懇意にしている店でしてね。貴方にとっても、一見の価値があるかと思います」 「本当?ありがとう、セルゲイさん!ねぇリィネ、皆、早く行きましょっ」 きゅっとセルゲイの裾を引っ張って喜ぶ姫君を、彼は微笑ましそうに見つめ下ろした。 走り出すティナを抑えずに、セルゲイは振り返って、ずらり並んだ侍女ににっこり微笑み、甘い声を捧げる。 「嗚呼、ほんの少しだけ待ってて頂けますかな?姫様の楽しみも、ギャラリーの多さで半減してしまっては心苦しい」 「え?あの、でも……」 「ほんの、少し」 「ま――まぁ、セルゲイ様のお付き添いもあって、すぐに終わるというのならば」 「ありがとう。とても優しい侍女だね、君たちは」 (っわー……っ!!) 平生東方領主からかけられぬ(かかるはずもない)甘い甘い労いの言葉を受けて、侍女たちは色めいた。 後ろで騒ぐ彼女らを放っておいて、セルゲイはティナの後を追う。 彼の手によって押し開けられ、ギィと鳴る緑色の扉の音。 暗い灯りに、人の気配。少しだけ淀んだ空気―― けれども、ティナにはもう、それが素晴らしい世界の幕開けにしか映らない。 |